真珠貝の卵
一話
「馬場平署の刑事から聞いたぞ、奈落。お前、芳崎工業の倉庫で大立ち回りしたって?」
黒い背広に同じ色のネクタイを締めた恭助が、笑いを噛み殺したような顔でそんな事を言い出した。
隣を歩く奈落は、白い喪服を纏って苦虫を噛み潰したような顔をしている。そんな二人のやり取りを、いつもの制服姿の由乃は後ろから眺めていた。
「仕方がないでしょう、あの時は頭に血が上っていたんですから」
奈落はそっけない顔で答えたが、その手には包帯が巻かれていた。流石に無傷と言うわけではなかったらしい。
月宮硝子店が模造煙管を作っていた理由は、奈落の読みの通りだった。以前は鶏冠石は顔料や花火の火薬の材料として使われていたが、毒性があるとわかってからは用途が減ってしまい、芳崎工業は在庫を抱えていたのだという。しかし、減ったとはいえ他の用途がないわけではない。煙管に加工すると言う発案には少なからず和葉が関わっていたという話もある。結局、あの赤い煙管そのものが和葉の物語のひとつだったと言うわけだ。
柘榴に対して、和葉が雫の婚約者を装っていたのも、単に雫に言われたからというだけでもなかったらしい。和葉の事を雫の婚約者だと思い込んでいた柘榴に対して、そのまま婚約者を装っていれば警戒される事なく近付けると思ったようだ。確かに、婚約者ではなく想い人だと知れば、柘榴は和葉に近寄りもしなかっただろう。
雲ひとつない、抜けるような青空だった。桜はすでに殆どが散り落ちて、次の季節の到来を思わせる。こんな清々しい天気の葬儀に参加するというのは、なんとも奇妙な気分だ。
桜並木の中にその家はあった。少し大きな洋風建築の家の門に、やや不似合いな葬式の提灯が掲げられている。千代の実家であり、桜子が住んでいる玖珂家だった。
「……儂ぁな。常盤のがやってる事は、これからの時代に必要になってくる事だと思っとるよ。実際、助からない病であれだけ痛みに苦しんでいた玖珂のばあさんは、まるで大往生のように、眠るように逝く事ができた。それがモルヒネの力だったとしてもな」
そう呟く目線の先には、黒いワンピース姿の風吹が佇んでいた。その首元と耳には、六堂というあの男から貰っていた、鴉花珠のネックレスと耳飾りを身に付けて。
奈落が手にしていた数珠をぐっと握りしめたのに気付いたのは、由乃だけだった。
「……なんかさぁ、アレだよね。旦那、喪服なんて持ってたんだね」
「私は薬屋だぞ? お前と同じで、客の葬儀に出席する事だってある。……私にとっては、お前がワンピースなんて持っていた事の方が驚きだよ」
恭助、奈落、そして風吹と四人で入った近くのカフェー「グルナ」は、由乃にとっては酷く大人びた雰囲気で内心どぎまぎしていた。店の奥では髭を綺麗に整えたマスターと思しき男性が、淡々と珈琲を淹れている。由乃以外の三人は全く物怖じする事なく、手元の珈琲に口をつけながら、一見のんびりとそんな話をしていた。
しかし、由乃は気付いていた。先ほどから、風吹も奈落も、他愛ないやり取りはしているものの、お互い全く目を合わせようとしていない。それは恭助も気付いていたのだろう、呆れたように溜息をついてみせた。
「お前たち、いい加減にせんか。常盤の、お前が話せないと言うなら儂から話すぞ」
「……ちょっと、極楽堂さん」
「儂がこいつに、効能のはっきりしていない石薬の薬効を臨床実験させていた。こいつのところに来る患者はもう助からない者ばかりだ。一応本人に承諾はとってな、そういう患者たちに服用させていた。そこから得た効能などの情報を儂がまとめて普及させていた」
「……ええ、以前聞きました。要は患者をモルモットにしていたと」
奈落は目を伏せたまま、批難するように呟く。しかし、恭助は奈落のそんな態度にも怯む事はなかった。
「ああ、そうだ。だからこそ、今の極楽堂がある」
「……じい様の収入源はなんなのかと思っていたんですよ。極楽堂の隠居にしては羽振りがいい。まさかそんなことをしているとは思いませんでした」
奈落の言葉の端からは嫌悪感が露骨に出ていた。由乃はおろおろするも、自分が口を出せるような状況ではない。恭助はまた深く溜息をつくと、一旦珈琲に口をつけた。
「儂がこいつにそんなことをさせたのは理由がある。こいつには……」
「ちょっと! 極楽堂さん、もうそのぐらいに……!」
「娘がいる。その娘のためだ。そして、儂にとっては由乃の為でもあった」
「極楽堂さん!!」
「……はぇ?」
どう考えても今はそんな流れではなかったと思ったのだが、唐突に自分の名前が出てきて由乃は変な声をあげてしまった。しかし、風吹は本気で怒りの表情をみせている。
「……えっ?私?」
それは奈落にとっても寝耳に水だったらしい。目を見開いたまま一瞬由乃を見て、それから恭助に目線を向けた。
「……風吹に娘がいるとかいう事は、うっすら聞いていましたが……なぜ、そこで由乃が出てくるんですか……?」
「ちょっと待って! なんで旦那が春乃の事を知ってるのさ!」
「いやお前の娘の名前など聞いてないし、今はその話ではない」
「聞いてないってどういう事だよ! 春乃はね……!」
「知らんわ! 私は今そんな事よりも、由乃がどう関係あるのかが気になってるんだ!」
「ええい! お前ら落ち着いて儂の話を聞かんか!!」
唐突にてんやわんやになった場を抑えるため、恭助が一喝した。前のめりで言い争っていた奈落と風吹は恭助の覇気に気圧され、また椅子に深く座り込む。
しかし、自分が風吹のしていた臨床実験に関係しているというのはどういう事なのだろう。由乃はそれが気になって、自分のテーブルの前にあるソーダ水に手をつける事すら忘れていた。
「こいつには……常盤風吹という女にはな。
「えっ……」
場が静まり返る。今、なんて。由乃は呆気に取られた顔をして恭助を見つめる。風吹だけは、眉根を寄せて顔を片手で覆っていた。
「人の死を予知する猫を知っているか? ある養護施設で飼われていたその猫は、間も無く亡くなる人間の側に必ず寄ってきて、死ぬまで寄り添っているそうだ。動物の中には、死ぬ間際の人間の匂いを嗅ぎ分けるものがいるらしくてな。こいつの娘がそれだった」
「……頼むよ。極楽堂さん、もうやめてくれ」
泣きそうな顔をした風吹が悲痛な声をあげる。由乃は、風吹のそんな表情も声も初めて目にするものだった。
ソーダ水の中の氷が溶けて、からりと動く。グラスの周りに結露した水滴が流れ落ちるのを、ただ由乃は眺めている事しかできなかった。
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