五話

 あれは、こんな桜の散り始めた頃であったかもしれない。

 私はまだ女学校に入学して間もない一年生だった。音楽の先生に唄を褒められたのだ。嬉しくて、この校舎裏の欅の木の下で一人唄っていた。桜の花びら舞う中で、それは朗々と。

 だから、誰かが近付いて来ていたことにも気付いていなかった。ひと通り唄い終えたところで、背後で手を叩く音がした。びくりとして振り返ると。

 ああ、忘れもしない。ふたつの三つ編みに結われた髪。胸元のスカーフは上級生を示す山吹色。そこに麗しい微笑みを湛えた、雫先輩が佇んでいたのだ。

 呆気にとられていた私に、雫先輩は声をかけた。

『あら?私はアンコオルをしているのだけれども、歌姫プリマドンナには伝わらなかったのかしら?』

『きゃっ……! ご、ごめんなさい、他の人が居るとは思わなかったのです……!』

 恥ずかしさに両手で顔を覆うと、彼女はふわりと私に近付いて、私の手を取った。真っ赤に染まった頬が露わになる。雫先輩はにこりと微笑んで、私の手の甲にそっと口付けた。

『シューベルトの『のばら』。元はゲエテの詩ね』

『そう……なんですか? 音楽の授業で教わっただけなので……』

『Sah ein Knab' ein Röslein stehn. 日本語では『童は見たり 野中の薔薇』と訳されているけれども、この童とは男の子の事。……これは、恋の歌よ』

 そう言ってまた微笑む彼女に、私は更に頬が熱くなるのを感じた。

『……綺麗な黒髪ね、羨ましいわ。私、癖っ毛だから毎日三つ編みに結っているのよ』

 そう言って、雫先輩は私の髪に触れた。まるで髪の毛の先まで神経が通ったようだった。

歌姫プリマドンナさん、お名前は?』

『嘉月……柘榴です……』

 そう。思えば一目惚れだったのだ。先輩が自嘲していた緩やかに波打つ髪も、知性を思わせる皮肉めいた物言いも、その本心の読めない微笑みも。その何もかもに、一瞬で心を奪われた。

 そして、あの時からずっと、私の心は。



「わらべは……みたり……のなかの……ばーら……」

 姉がひしゃげさせてしまったバス停の標識を、利一の手を借りて元の場所に戻していると、微かに歌声が聞こえてきた。

 由乃が振り返ると、そこには天鏡沼に向かって佇む柘榴の姿があった。

「すみません、おいちさん。これ、お願いします」

「えっ?」

 急に由乃が手を離したので利一はバランスを崩したが、そんな事はお構い無しに由乃は柘榴に近付く。ドレスの裾が砂を孕んで歩きにくい。由乃はドレスの裾をたくし上げて、水辺の柘榴に歩み寄った。

「柘榴先輩……」

 声に反応して振り向いた柘榴の顔を見て、由乃は驚きと共に胸を締め付けられた。

 柘榴の瞳からは涙が溢れ出て、その頬をとめどなく流れ落ちていたのだ。

「柘榴先輩……涙が……」

「ええ……不思議ね。雫先輩が亡くなってから、一度も涙なんか出なかったのに……」

 それでもまだ、どこか他人事のように話す柘榴に、由乃は少し苛立ちを覚えた。泣きたければ素直に泣けばいいのに、何故まだそんなふうに達観した物言いをするのか。

「私は! 雫先輩なんか、嫌いです!」

 唐突な由乃の言葉に、意表を突かれた柘榴が目を見開いた後、鋭い目つきで由乃を睨みつける。しかし、由乃は怯まずに言葉を続けた。

「嫌いですよ! もう亡くなってるのに、ずっと柘榴先輩の心を縛り付けて! そのくせ自分は、勝手に好きな人と心中して! そのせいで柘榴先輩まで危ない目に合わせて! 最低じゃないですか、そんなの……そんなの、柘榴先輩が可哀想ですよ……!」

 涙が出てきそうだった。だが、由乃はぐっと堪えた。何故だかわからないけれど、今自分が泣いてしまってはいけない気がした。

「柘榴先輩だって、そう思ってたじゃないですか。結局雫先輩は、自分の事なんか見ていなかったって。そう言ってたじゃないですか。……それでも! それでも雫先輩の事をずっと想っている、そんな柘榴先輩の事を、私は好きになったんです!!」

 ああ、言ってしまった。勢いに任せて言ってしまった。柘榴の瞳が少し怖い。

 しかし、しばらくの沈黙の後、柘榴は表情を緩ませるように穏やかな微笑みを見せた。それは由乃が初めて見る、柘榴の心からの笑顔だと思った。

「……お馬鹿さんね」

「よく、言われます」

 自分は、うまく笑えただろうか。よくわからない。だけど、そんな自分の泣きそうな笑顔を見て、柘榴の目からも再び涙が流れ落ちた。それは徐々に嗚咽を伴い、柘榴はその場に崩れ落ちて顔を覆った。泣き崩れた柘榴を抱き寄せて、由乃の瞳からも堪えていた涙が溢れ落ちるのがわかった。それでもその涙が流れるままに、由乃は腕の中で嗚咽する柘榴をしっかりと抱き続けた。

 そんな二人を、奈落は少し離れたところから見守っていた。

「……流石は、奈落さんの妹さんと言ったところですわね」

 バス停を元の場所に戻した利一が、奈落の側に近寄る。馬に乗ったり暴れる奈落を押さえつけたりしたせいだろうか、その女給服は随分と土埃に塗れ汚れきっていた。しかし、その隣に立つ奈落も着物で暴れたせいだろう、着付けが崩れきってひどい有様だった。

「……いや、ある意味では私よりも大人だよ。私はすぐ情に流される」

「あら、わかってらっしゃるんですね」

「そういう言われ方をすると腹が立つな」

 すでに日は暮れて、空に登る月が天鏡沼に写り込んでいる。散り落ちた桜の花びらが湖面に漂う様はさながら絵画のようで美しい。

 だが、その美しさは妖艶ささえ伴い、人の心を惑わせるのかもしれないと奈落は思った。

「そういえばお前、あの時和葉に言ったのは……アレは、経験則だろう?」

「……なんのことです?」

「しらばっくれるな、『吸血鬼』」

 奈落の言葉に、ピクリと利一が反応した。そんな利一の様子に、奈落はふんと鼻を鳴らした。

「やっぱりか。あの事件はもう五〜六年も前になるか? 私も伝え聞いた程度だが」

「何故、そう思いました」

「じい様がお前に『処方』している紅だよ。確か赤鉄鉱だったな。あれは鉄分が多く含まれているから、口に含んだ時に血のような味がする」

「……流石ですね」

 低い声でそう呟くと、利一はぺろりと自分の唇を舐めてみせた。その赤い唇の、紅を舐め取るように。

「でも俺は、誰も殺してませんよ。……いっとき、血液しか飲めなくなっていた頃がありましてね。血液嗜好症へマトフィリアになっていたらしいのですが」

「……今は?」

 奈落の問いに、利一は口元に指を当ててにこりと笑う。その仕草に、奈落はまた鼻を鳴らして苦笑いした。

「せいぜい、私の血は飲んでくれるなよ」

「えー?」

「えーじゃない、えーじゃ! 不満そうな顔をするな!」

 そう言って奈落は利一を軽くどつく。利一はやや不満そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。

 遠くで互いに涙を流し合う二人の少女。その涙は天鏡沼へと流れ込み、やがて真珠へと姿を変えるのだろうか。奈落はそんな想いに耽った。


 それは、まさに女神ウェヌスの涙と言うに相応しい。

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