四話

 鶏冠石……砒素の急性中毒というものは、なかなか壮絶なものだった。

 倒れたまま涎を流して譫言うわごとを繰り返す雫を、和葉はただ呆然と見つめていた。そこには美しさなどかけらもなく、手足をばたばたと動かし踠き苦しむ様は、それまで興奮の絶頂にいた和葉をすっと冷静にさせるものだった。

 いくら美しい女性と言えど、毒を煽った後というのはこれほどまでに醜いものなのか。

『和葉……さん……』

 しかし、顔面蒼白にして、意識も潰えようとしている女性が、手を伸ばして自分の名を呼ぶというのは、これはこれで良いものだ。

『一緒にって……二人で龍になろうって……言ったのに……』

 その雫の言葉に、和葉は口角が歪むのを抑えられなかった。そしてその雫の暴れる両手を抑えつけ、涎を零すその口に接吻した。その唇は吐瀉物で濡れて苦く、砒素特有の刺激臭がした。

『許して下さい……私は愛しい貴女が死にゆく様を、どうしても見たくなってしまったのです』

 その時の雫の絶望の表情は、きっといつまでも忘れないだろう。ああ、これこそ私が望んだものだ、と和葉は気持ちが高揚した。下腹部に熱すら篭りそうだ。いや、今完全に和葉自身が熱く滾っているのがわかった。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。やがて、雫は動かなくなった。その瞳は瞳孔が開き、荒くなっていた呼吸は緩やかになったのち、完全に止まった。

 あまりの愛しさに、しばらく雫の亡骸を眺めていたその時だった。少女が一人、駆け寄ってくるのがわかった。あれは、以前に雫から紹介されたエスの妹。想い人だというのは知られたくないと雫に言われ、婚約者だと紹介された嘉月柘榴だった。

 思わずその場から離れて、成り行きを見守る。柘榴はその手に手紙を持っていた。大方、ここで心中する旨を「妹」に知らせていたというところだろうか。

『雫さん……やってくれましたね……』

 和葉は、ぎり、と下唇を噛む。これだから、女というやつは難解だ。

 さあ、この後始末をどうやってつけようか。




 気付くと、由乃はいつの間にか来ていた利一の手によって、ソファから解放されていた。和葉は既に白岾に取り押えられ、柘榴も佐久間の手によって解放されている。利一が呼んできたのだろうか、森夫婦も駆けつけていたが、二人は必死に荒ぶる奈落を抑え付けていた。

「大丈夫ですか、由乃さん」

 利一が心配そうに由乃に声をかける。何が何だか未だに訳がわからないが、とりあえずこくこくと由乃は首を縦に振った。

「わ、私よりも、柘榴先輩は……?和葉さんに殺されそうになっていたの……」

 言われて、利一は柘榴の方を振り返った。柘榴は少しぐったりとしていたが、由乃の方を見て大丈夫だというように小さく頷いた。それを見て、由乃は心から安堵した。

「良かった……」

「それよりも、とにかく由乃さんは、奈落さんに無事を伝えて下さい!もう、森さんたちでは抑えきれそうにもないみたいです」

 その言葉に、はたと由乃は姉の方を向いた。現れた時に手にしていたバス停は既にボロボロの状態で打ち捨てられ、今にも森の拘束を振りほどいて尚も和葉に食ってかかるのではないかという勢いだ。

「うぉらぁぁ! 森、この手を離せぇ! 白岾、そいつを一発殴らせろ! こんなん腹の虫が収まらんわぁ!」

「馬鹿ですか! 馬鹿なんですか貴女は! 何処から持ってきたんですかそのバス停は!」

「この倉庫のすぐそばだ!」

「公共物じゃないですか! あんた警察の人もいるのに何やってるんですか!」

「えっ、ちょ、極楽堂さん! そのバス停そこにあったやつですか!? 後で貴女からもお話伺いますからね!」

「うるさああああああい!」

「っていうか、なんなんですかこの馬鹿力……!」

「石薬屋を舐めるなよ、小説家風情が! 毎日どれだけの石を運んでると思ってる!!」

「……言いましたね!?」

 すると、辛抱耐えられなくなったらしい森が、顎で文無あやなしをどけさせる。察した文無あやなしはさっと二人から離れると、それを見計らって森が奈落の腕を掴み、そのまま背を向けて奈落を投げ飛ばした。所謂一本背負いだ。

 ドスンと奈落が落ちた音に、その場が一瞬静まり返った。奈落は何が起こったのかわからないといった顔で呆けたまま倒れている。

 由乃は事の成り行きを唖然と見守っていたが、はっと気が付いて奈落に駆け寄った。しかし、着ているドレスの裾が邪魔でうまく歩けない。転びそうになりながら駆け寄ろうとする由乃に、奈落は我に返ったのか体をさすりながら上体を起こした。

「由乃! 大丈夫か由乃!」

「お姉ちゃん!」

 奈落に駆け寄った由乃は、そのままの勢いで奈落にしがみ付いた。すぐに抱きとめられた姉の腕の温かさに涙が溢れてくる。酷く不安で、酷く辛かったのだと、由乃はその時に気付いた。

「お姉ちゃん……! 怖かった……!」

「馬鹿者! ……無事で良かった……」

 そんな二人の様子を、溜息をつきながら森は眺めていた。白岾は和葉を抑えたまま、未だ唖然としている様子だった。

「……人一人を軽々と……」

「学生の折は柔道を学んでましたのでね。いや、女性だったのでなんとかなったようなもんですよ……さて」

 そういって、森は白岾が抑えつける和葉の元へ近づいていく。両手を合わせて指をぼきぼきと鳴らしながら。

「……おい。芳崎和葉。何か言う事はあるか?」

「……」

 森に問い詰められて、和葉の目が泳ぐ。しかし、森はその和葉の顎を掴み、無理矢理に自分の方を向かせた。

「お前は俺を侮辱した。いや、作家全てを侮辱したようなもんだ。成る程、自分の物語が読者に影響を及ぼしていく様はさぞや気持ちが良かっただろうよ。それは俺もわかる。お前はただ自分の欲望を満たしたいがためにその筆を使った。そのやり口は流石だよ、やろうと思ってできるもんじゃない。……だがな」

 そう言うと、森はその手に更に力を込めた。和葉は痛みに顔を歪ませたが、お構い無しだった。

「仮にも作家を目指してる奴が、虚構と現実を見誤っちまうのはこっちも迷惑なんだ。お前、俺の書生どころか、今後出所したとしてもこっちの世界に来れると思うなよ。全力で俺が潰してやるよ。……ったく、こんな臭え書斎作りやがって、胸糞悪りぃ」

 そういって、森はその手をようやく離した。そしてその場を離れようとした時、和葉が口を開いた。

「貴方には、わかりませんよ。私の事など……」

「あん?」

 和葉の呟きが耳に届いたらしい森は、止めを刺しかねない眼光で和葉を睨み付けた。それを真っ正面から受けてしまった和葉は、生唾を飲んで怯み上がる。

「……ったく、わかりやすい奴だな。女相手にはあれだけ悪ぶっておいて、これだけ男に囲まれたら押し黙るなんざ、三下もいいところだ」

 和葉を抑え付けながらその様子を見守っていた白岾しろやまは、侮蔑の籠った口調で言い捨てた。

「まあ、わからなくもないですよ」

 それまで様子を伺っていた利一が口を開いたので、視線が利一に集まった。急に注目を浴びて少し利一は居心地が悪そうにしたが、そのまま言葉を続けた。

「理想の異性像を追い求めることそのものは、誰でも心当たりがあるんじゃないでしょうか。それそのものは否定はしませんよ、好きにやったらいい。……ですが、相手の承諾を得ないのは屑ですねぇ?」

 そこまで言うと、利一は和葉にそっと近付いて何かを耳打ちした。一瞬、和葉が目を見開いて利一を見返す。利一はにっこりと笑って、その場をそっと離れた。

「あ、そういえばすみません勝手に早馬をお借りしてしまって」

「……えっ?あ、ああ、いや……」

 呆気に取られて利一を眺めていた白岾しろやまが、声をかけられて我に帰る。

「いやあ、びっくりしましたよ。利一さんが馬で猪代荘に現れた時は……馬なんて乗れたんですねぇ」

「わたくし、育ちだけはいいものですから。うふふ」

 由乃は森と利一の会話をぼんやりと眺めながら、そういえば利一はあの鼓梅の兄であった事を思い出した。地主の家の子となれば、道楽で馬ぐらい乗るのかもしれない。

 しかし、利一が何か和葉に呟いてから、和葉も白岾しろやまの様子もおかしかった。由乃は白岾しろやまに近付いて、そっと訪ねた。

「あの……さっき利一さんが何か耳打ちしていたの、聞こえました?」

 由乃に尋ねられた白岾は、なんとも言えない漫然とした顔をしていた。

「……あまり、女学生のお嬢ちゃんに話せるような事じゃないな」

「えー。教えてくれたっていいじゃないですか」

 そう言って何気なく頬を膨らませると、白岾は一瞬だけ表情を崩して、溜息をついた。

「流石あの極楽堂さんの妹さんと言うべきか……あんな事があったばっかりなのに、妙なお嬢ちゃんだな」

 そして、和葉を抑え込むので塞がってる両手を見て、顎で由乃を呼び寄せる仕草をする。由乃は白岾の口元に耳を寄せると、白岾はこう囁いた。

「『うまくやりなさいよ。そんな事もできないなら、狂気など貴方にはまだ早い』」

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