四話

 左足が痛い。足を進める度に左足全体に鈍痛が走る。

 なんでこんなに自由の効かない体なのだろう。由乃は柘榴を追いかけながら自分の体を呪った。せめて姉と同じような鉱石体質であったなら、店を手伝ったり鉱石の加工工場などで働く職業婦人としての道もあったかもしれないのに、由乃の嗅覚が拾うのはなんの役にも立たないものばかりだ。しかもそのせいで、兄は死んで自分は左足を骨折する羽目になった。

 だが、ゆっくりでも走れない事は無い。問題は、柘榴を見失わないかどうかだ。幸いにして柘榴は走る気配はない。しかし、かなりの早足でどこかへ向かっていた。

 一体どのぐらいの時間、どのぐらいの距離をそうして追いかけていただろう。追いつく事もできず、しかし見失う事もなく。いつの間にか柘榴は、とある寺院の敷地内へ入っていった。目の前の観音像には目もくれず、墓地の方へ迷いなく進んでいく。

 やがて柘榴は、ひとつの墓の前で立ち止まった。

「雫……先輩……」

 柘榴の呟く声が聞こえてきた。ようやく追いついた由乃は墓に目をやると、そこには月宮の文字が掘られていた。月宮家の墓であるのだろう。

 由乃が柘榴に声をかけようとしたその時、柘榴は両手で顔を覆って墓の前に座り込んでしまった。肩が震えている。嗚咽すらせず、ただ踞っているだけだったが、柘榴からは酷い匂いがした。怒り、悲しみ、そして強い嫉妬。

「あの婚約者だけなら、まだ耐えられた……だって、婚約者は貴女が望んだ相手ではないと言っていたから。だけど、だけど想い人ってどういう事なんですか。ならば何故、貴女は私と……共に死ぬなどと……だったらいっそ、私も貴女と共に逝きたかった!永遠に貴女を、私だけのものにしてしまいたかった!」

 それらの匂いは先程から感じてはいたものの、柘榴に近付いた事で強烈に由乃を巻き込んでいた。由乃は耐えられず、その場に座り込む。すると、ようやく気が付いたように柘榴がゆっくりと、由乃の方へ顔を向けた。

 柘榴の顔を見て、由乃は胸が締め付けられた。柘榴は酷い顔をしていたが、その目からは一切涙など流れていない。泣いていると思った。それなのに、柘榴はまるで涙など枯れ果ててしまったように、ただ顔を歪めているだけだった。

「柘榴……先輩……」

「本当はね、由乃さん……私も貴女のように髪が長かったのよ。雫先輩が、私の長い髪を美しいと褒めて下さるから、私はずっとこの髪を、手入れして、綺麗に伸ばしていたの……だけど、雫先輩はもういない。私は生き残ってしまった。それならせめて、私の髪を共にと……あの時私は、この髪に自分で鋏を……」

 そう言って柘榴は、自分の髪を無造作に掴み上げ、まるで引き毟るのではないかと思うほどぐしゃぐしゃとかき回した。

 ああ、それで。時々柘榴がその髪に触れるのは、そういう事だったのだ。初めから由乃になど、入り込める余地などなかった。それなのに。

「……滑稽だわ。結局雫先輩は、私の事など見ていなかった。……笑いなさいよ。こんなに滑稽な話なんてないわ!」

「柘榴先輩……」

「笑いやしないよ」

 その時、背後から姉の声がした。いつの間にか奈落が、二人の後を追いかけてきていた。

「笑いなどするものか。貴女は必死に、それこそ命をかけて雫さんを愛していたのだ。そんな貴女を美しいと思いこそすれ、誰が笑うものか。笑う奴はこの私が張っ倒してやる」

 奈落の言葉に、柘榴がその唇をきつく噛み締めた。まるで泣いているような顔をしているのに、それでも涙を流さない彼女は、一体どれだけの苦しみを味わったのだろう。

 そしてこんな時、やはり姉には敵わないと、由乃は思うのだった。




 濃い真珠煙管の香りが店内に立ち込める。それと同時に、柘榴の気持ちも落ち着いてきたのか、さっきほどの強い感情の匂いはしなくなっていた。

 とりあえず休んでいくようにと、姉は柘榴も連れて店に戻ってきた。柘榴は椅子に座ってずっと真珠煙管を喫んでいる。由乃は柘榴の匂いに当てられてふらついていたため、寝椅子で体を横たえていた。

 さっきからずっと、二人とも何も話す事はなかった。由乃は自分がもどかしくて堪らなかった。何故さっき、自分は何も言えなかったのか。本当は柘榴を慰めようとしていたのに、何も言葉が出てこなかった。そしてそんな時に自分は、自分の想いの報われなさを思っていたのだ。

 人は、誰かを想い、想われて生きている。少なくとも、由乃が今まで読んできた小説の中では、最後はそうやって想いの方向が向き合って、幸せな結末を迎えるものが多かった。しかし、現実とはままならないものだ。由乃は柘榴を想い、柘榴は亡くなった雫を想い、そしてその雫は……誰か他の男性を想っていた。こんな事があるのだろうか。

 ぼんやりとそんな事を考えていると、ふわりと湯気の香りが漂ってきた。奈落が鉱石茶を淹れたグラスを盆に載せて持ってきていた。

「……とりあえず、これでも飲め」

 由乃の前に出されたグラスは、真珠の入った桂花茶だった。ちゃんとその隣には蜜の瓶が添えられていて、由乃は思わず僅かに笑った。

「今日は、あったのね。この前、おいちさんが見つけてくれてたものね」

「……ああ」

 思えば、姉も不思議な人間だ。姉には千代というエスの妹がいるものの、彼女を束縛する事はない。祖父から半ば無理やり当てがわれた利一という男も、まんざらではないのだろう。だが、付かず離れずの関係を続けているように見える。

 だが、皆がそんな風に心地よい距離を保っていられる訳ではない。姉は自分よりも人生経験の豊富な大人だ。だが、自分は一介の女学生に過ぎない。由乃はもどかしさを飲み込むように、鉱石茶に口をつけた。

「柘榴さんには、こちらを」

 そう言って、奈落は柘榴にも鉱石茶のグラスを差し出した。しかし、柘榴のものは由乃のものと違うように見える。グラスの中にちらりと見えたのは、臙脂色に近いような深い紅色の石だった。

「……これは?」

「柘榴石……柘榴さんと同じ名前の石です。鎮静作用があるので、少しは落ち着くかと思います。仏桑花ブッソウゲの花茶で少し色付けしてありますが、酸味がありますから疲れもとれると思いますよ。宜しければどうぞ」

「柘榴石……」

 そう呟くと、柘榴はグラスに口を付けてひと口飲み込み、ふう、と溜息をついた。だいぶ落ち着いてきたらしく、もう柘榴からあの感情の匂いはしなくなっていた。

「すみません……お恥ずかしいところをお見せしました」

「いえ……お気になさらないでください」

 そういうと奈落は一瞬、壁の方に目線を向けて苦笑いした。そこには「虎目屋 月篠」と書かれた千社札が貼ってあるのを、由乃は知っている。

「……貴女ぐらいの年の頃に、報われない思いをした事がありましてね。……つい他人事とは思えず、口を出してしまいました。こちらこそ差し出がましい事を言ってしまってすみませんでした」

 姉が女学生だった頃、由乃はまだたった五歳だった。だから、その時に何があったのか詳しいことは知らない。姉が偶にぽつりと話すのは、自分の方を決して向いてはくれない相手をずっと慕っていたという、ただそれだけだ。

 これまで、その話をする時の姉の眉間の皺に、どんな気持ちが隠れているかなど想像もしなかったのに。今なら、姉の気持ちが少しだけわかるような気がするのだ。

 柘榴はまた少し、真珠煙管を口にして吸い込んだ。そしてその蒸気を吐き出し、その煙を眺めながらポツリと呟いた。

「天鏡珠……そういえば、真珠煙管にも使われている天鏡珠は、女神の涙と言われているのでしたね」

「ええ、そうですね」

「極楽堂さんの今日の着物の柄の龍……天鏡沼の龍神伝説……あの時、『二人で龍になりましょう』と言ったのは……あれは、雫先輩だったかしら……」

 柘榴のその言葉に、由乃はどきりとした。二人で龍になりましょう、その言葉はもしや。

「柘榴先輩……もしかして記憶が……」

「いいえ……いいえ、思い出せないわ。でも……そう。雫先輩は、櫛名田比売の事をまるでウェヌスの様だと言っていた」

「ウェヌス?」

 聞き慣れない言葉に由乃は聞き返したが、柘榴はまるで由乃の言葉など耳に入っていない。途方にくれていると、奈落が補足を入れた。

「西洋の女神の名だ。ビーナスとも言われる。真珠はビーナスの涙という別名もあるから、言い得てはいるな」

 成る程。天鏡珠が女神の涙と言われるのは龍神を慰めた櫛名田比売に由来したはずだ。それなら、櫛名田比売がビーナス、つまりウェヌスのようだというのは頷ける話だ。

 月宮雫は随分博識な女学生だったのだと、由乃は感心した。しかし、それと彼女の人となりというのは相対しないのだろうとも思った。少なくとも、柘榴が居たにも関わらず別な想い人の存在があったというのは、由乃には不実だというふうに感じる。

「……私にとってのウェヌスは……雫先輩だけでした……」

 しかしそう呟く柘榴の虚ろな目に、由乃はただ無力感を募らせるばかりだった。

 どんなに不実な相手でも。柘榴にとっては唯一の「お姉様」だったというその現実が、由乃にはやるせなかった。

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