五話
「すみません、今事務の女性が休んでいるもので……私が淹れたんですけれども」
和葉がにこにこしながら目の前に置いた煎茶を見て、由乃は隣の柘榴と一瞬目を合わせ、そして和葉に対し曖昧に笑って返した。
何がどうなってこうなったのだろう。由乃が柘榴と共に来ていたのは、芳崎工業だった。この辺りでは大きな会社である芳崎工業はその建物も広く、立派な工場を構えている。二人が今いる応接室も、西洋風の小洒落た部屋だった。
思い詰めた柘榴に懇願されて一緒に来ることになったのだが、その表向きの理由が由乃には青天の霹靂だった。流石に由乃は何度も止めたのだが、もはや意を決した柘榴はその決意を変えようとはしなかった。
「まさか、断られ続けていた私の申し出を受け入れて頂けるとは思いませんでした」
手にしていた盆を両腕に抱いて、ややはにかみながら和葉は呟いた。
「……これまでの無礼をお許し下さい。嘉月製造所は、まだまだ小さな会社です。芳崎さんのような立派な後ろ盾ができるのは有難いと、父が申しておりました」
そういって、柘榴は出された煎茶に口をつけた。
そう、柘榴は和葉の求愛の申し出を受けると言い出したのである。しかしそれは、思うところあっての事だった。模造品の煙管に使われていた鶏冠石を卸していたのが芳崎工業だったという事は、そもそもの根幹がそこにあるのではないかと思い偵察に伺うためだと言うのだ。もし何もなかったとしても、嘉月の家としては願ったりの話である。だから、何も問題は無いと柘榴は言っていた。
しかし、由乃は柘榴の危うさを感じていた。あまりにも自らを顧みない方法であり、自暴自棄になっているとすら思える。そんな由乃の心配を余所に、柘榴は今まで由乃には見せなかったような落ち着いた微笑みを見せていた。
「今日は、芳崎工業を見学させて頂けるんですよね? 由乃さんも芳崎工業のお仕事に興味があるそうなので、ご一緒させていただいたんですが……」
唐突に話を振られて、由乃は慌てて柘榴に話を合わせた。
「芳崎工業さんでは鉱石薬も卸していらっしゃると伺ってましたので……」
「そう言えば、由乃さんのお姉さんは石薬屋を営んでらっしゃるんでしたね。私はあまり家業に関わる事は無いんですが……まぁ、わかる範囲でしたらご案内しますよ」
そう言うと、和葉は部屋の隅に一度戻っていった。先程から気になってはいたのだが、そこには由乃も見慣れたものが置かれていた。
「水晶焜炉……使われているんですね」
由乃が声をかけると、和葉は目の前の水晶焜炉にちらりと目を向けた。そしてそこから菓子皿を持って、二人のテーブルへと戻ってきた。
「一応うちは石も取り扱う会社ですのでね、水晶焜炉も置いています。流石に極楽堂さんのような鉱石茶はお出しできませんが、煎茶を淹れるだけでもこちらの方が美味しいと言われているので」
そう言ってまた微笑むと、二人の前にその菓子皿を置いた。和葉が差し出したその皿に、由乃は思わず声を出した。
「あ、琥珀羹」
「そうです、かず屋の。ここのお菓子は美味しいですよね、饅頭と迷ったのですが」
そう言って和葉はにこにこと笑いながら、二人に茶菓子を勧めた。由乃は、そう言えば先日結局琥珀羹を食べ損ねた事を思い出した。内心で和葉に感謝しつつ、透明な水色の琥珀羹に手を伸ばす。表面の砂糖のさく、という歯触りと、中の甘みが緊張を溶かす。由乃はそのまま、出された煎茶にも手を伸ばして一口啜った。
その様子を、和葉は満足そうに眺めていた。
「今日はここから離れた別な工場を案内させて頂きます。私はこれから、車を準備してきますね。後ほど案内のものが参りますから、お茶でも飲みながらお待ち下さい」
そう言うと、和葉はにこりと笑って会釈し、部屋を出て行った。
由乃の中の和葉の印象は、少し怯えたような、それでいて掴み所のない男性といったところだったのだが、今日は随分とよく笑うのだな、と思った。それも、片恋していた柘榴が応じてくれた事に起因するのだろうか。由乃は再び茶に口をつけた。水晶焜炉で淹れると味が良くなるとの事だったが、あまり繊細な味に頓着しない由乃には違いはわからなかった。少し鉱石臭がするように思うのだが、それの事を言っているのだろうか。
「柘榴先輩……本当に、いいんですか」
「ええ、どのみち行き遅れてお父様に迷惑をかけるよりはましだわ。それに……気になるのよ。何故芳崎工業が鶏冠石を、月宮のおじさまのところに卸していたのか」
柘榴は、そういってまた茶を口にしていた。琥珀羹の方には手を付ける様子はなかった。
「でも……柘榴先輩は、あの……雫先輩の事が……」
由乃の言葉に、柘榴は手にしていた茶碗をぐっと握りしめるのがわかった。しまった、言わない方が良かっただろうか。そうは思ったが、由乃は今でも柘榴の判断が最良だとは思えなかった。
「……もう、いいのよ」
そう言うと、柘榴は茶碗の中身をそのまま飲み干した。そして茶碗を茶托に戻す。由乃はぐっと口をつぐんで、手元の茶碗に目線を落とした。
嘘だ。そのぐらい由乃でもわかった。しかし、だからと言ってどうすればいいのだろう。何故自分は、そんな事も思い至らないのだろう。或いは姉なら、こんな時もっとうまいことが言えるのだろうか。
案内の者に呼ばれるまでの間、結局琥珀羹は由乃しか口につけなかった。
「わあ……私、車に乗るのって初めて……」
会社の外に横付けされた自動車に案内されて、由乃は感嘆の声を漏らした。
「父の車ですけどね。米国のフォードという車だそうです。先に乗っていて下さい、私はちょっと荷物を取りに戻ります」
和葉はそう告げ、由乃と柘榴がフォードに乗り込んだのを確認すると、また会社の中に戻っていった。
由乃と柘榴の間に気まずい沈黙が流れていた。いや、気まずいと思っているのは由乃だけだろうか。柘榴は車の外の景色を眺めている。少し眠くなっているのだろうか、欠伸を噛み殺しているのが見て取れた。
手持ち無沙汰で由乃も外を眺める。すると、門の外から背広の男が一人、こちらの車に気付いて近寄ってくるのがわかった。
「やっぱりそうだ。今日来るって言っていたものね、和葉の許嫁」
男は車に近付いて、由乃と柘榴に声をかけてきた。和葉のことを呼び捨てにしているということは、芳崎の身内の人間だろうか。
「あぁ、そうだよね。名乗りもせずにごめんよ。俺は和葉の兄で、ここの営業をしてる和茂っていいます。君がそうかな、嘉月製造所の」
「あ……お兄様でしたか、失礼しました。嘉月柘榴と申します」
「よろしくね、柘榴ちゃん。しかし、いいなぁ。こんな綺麗なお嬢さんが和葉のお嫁さんかぁ」
へらりと笑って車にもたれ掛かり、勝手に柘榴の手を取って握手をする。柘榴が困ったように曖昧に笑っているのがわかった。
「俺も婚約者がいたんだけど、あんな事があったからなぁ。まぁ、会った事もない
和茂の言葉に、由乃はやや違和感を感じた。「俺も許嫁がいた」? 「和葉に先を越される」?
柘榴も何かを感じたようだった。一瞬由乃と目を合わせて、また和茂の方に目線を戻した。
「あー……俺さぁ、婚約者に死なれちゃったんだよねぇ。まぁ、事故死みたいなもんだったらしいんだけど。雲水峰の女学校に通っていたそうだから、もしかして君たちの知ってる人かも。月宮って言う……」
「……えっ?」
どうも話がおかしい。和茂が話しているのは、まるで雫の事ではないか。柘榴が眉を潜めて、恐る恐る和茂に尋ねた。
「それは……もしかして、月宮雫さんの事でしょうか……」
「そう! やっぱり知ってるんだね、学校で有名な人だったのかな?」
「え……だって……雫先輩の婚約者は和葉さんだったのでは……?」
柘榴の言葉に、今度は和茂が訝しげな顔をした。
「えっ? 和葉に婚約者ができるのは君が初めてだよ。まぁ、色々遊んではいるようだけど、そこはまぁ男の甲斐性だから目を瞑って……」
和茂の言葉に、由乃は酷い目眩を感じ耳が遠くなってきた。和葉は雫の婚約者ではなかった。考えてみれば、自分がその話を聞いたのは柘榴からだ。ならば何故、柘榴は和葉が婚約者だと思っていたのか? そして、何故和葉も自分が婚約者であったと振舞っていたのか?
その時、由乃は見てしまった。音も無く和茂の後ろに近付いてきた和葉が、分厚い辞典を持って大きく振りかぶったのを。
ごつりと鈍い音がして、和茂の後頭部が殴打された。和茂がよろめきながら和葉の方を振り返る。
「和葉、お前何を……!」
和茂に言葉を続けさせまいとするように、和葉は和茂を更に殴打した。和茂は崩れ落ちて、フォードに寄りかかりながら踞った。あまりの事に声が出ない。そして、目眩が酷くなっているように感じる。
「兄さんが来るとは思ってませんでした……面倒な事になっちゃいましたね」
そう言って、和葉は由乃に目を向けてにやりと笑った。おかしい。何かがおかしい。頭の奥が警鐘を鳴らしているが、体が少しも動かない。
和葉は呻りながら頭を押さえて身悶えする和茂を蹴り飛ばすと、素早く運転席に乗り込んで後部座席の二人のほうを振り返った。和葉がぱらぱらとめくっていたのは鉱石薬の辞典だった。
「体が動かなくなってきているんじゃないでしょうか。先ほどのお茶に黒縞瑪瑙と煙水晶を盛らせていただきました。どちらも、強い睡眠薬だそうですね。わざわざ薬効を高めるために水晶焜炉まで使ったんですよ」
そう言って辞典を鞄にしまう和葉の言葉を聞いて、由乃は柘榴に目を向けた。柘榴は既に意識が遠退いているのか、目を閉じて脱力し背もたれに崩れ落ちている。
「何故……そんなことを……貴方は一体……」
やっとの思いで声を絞り出したが、呂律が回らなくなってきている。そんな様子の由乃を見て、和葉はさも嬉しそうに微笑むばかりだった。そして、懐から何かを取り出す。それは、あの紅い模造煙管だった。和葉は由乃の前で、それに口付けて見せた。
「私の
名前を呼ばれて、由乃は和葉を睨みつけようとする。しかしその瞬間、和葉はフォードのエンジンをかけて急発進し、その勢いで由乃の体は柘榴同様背もたれに崩れ落ちていった。
意識が薄れていく刹那、由乃の鼻孔を嫌な匂いが擽った。それは、和葉の歪んだ感情。そしてそれは、どこかで覚えがあるものだったが、由乃はすでに思い出す事ができなくなっていた。
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