三話

「あれ? 奈落さん、そこ、どうしたんですか?」

「……ん?」

 奈落が、利一に指差された手元に目を落とすと、右手の人差し指から血が滲んでいた。

「なんだ……? あぁ、さっき水晶を砕いていた時に石で切ってしまったかもしれないな。手袋をするのを忘れてしまっていたようだ」

 由乃たちの会話を知ってか知らずか、奈落は多分に漏れずいつの間にか怪我をしていたようだ。しかしことも無げに奈落は呟くと、傷口をぺろりと舐めて鉱石茶の準備を続けようとした。

「ちょっと、またそんな適当な事をして。鉱石茶の準備ならわたくしでもできますから、きちんと包帯なり巻いて下さいませ。一応、飲食物を提供しているのですから!」

 こういうところに、利一は口うるさい。奈落は心底面倒臭そうな顔をしたが、女給姿の利一に睨まれて渋々薬棚から包帯を探し始めた。幸いにして、この時間の天河茶房はあまり人も入っておらず、利一一人でものんびり回すことができた。

 その時、外から車のエンジン音が聞こえてきて、店の前で止まったのがわかった。この商店街に車が止まるのは珍しい事だ。奈落と利一はやや緊張した面持ちで目を合わせる。しばらくすると、車から降りてきた二人の男がドアベルを鳴らして極楽堂の店内に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 奈落が声をかけると、片方の男が奈落の方にちらりと目を向けて、店内をぐるりと見回しながら歩み寄ってきた。

「もし。ええ……旦那さんが、この店の店主ですかね?」

 着流しに角袖外套。そしてハンチング帽という出で立ちは、最早如何にもといった感じで大体想像がつく。

「ええ。私がこの店…極楽堂鉱石薬店の店主、極楽院奈落です。何かご用でしょうか?」

 男の言葉に奈落が応じると、男は眼鏡の奥でやや面食らった表情を見せた。

「なんだ……女か」

 どうやら声色で奈落を女性と認識したらしい。敢えて男装しているので別に慣れてはいるのだが、その男の言い方に奈落はやや気分を悪くした。

「……ええ、紛らわしい格好をしていて申し訳ありませんね、刑事さん」

 男はまた面食らった顔をした。本人は緊張感を持った表情をしているつもりらしいが、どうにも抜けた男だ。

「どうして、そう思いました?」

「こんな商店街のしがない薬屋に、自動車なんぞでやって来た旦那さんが、角袖を着てらっしゃる。まぁ、そうそうある事じゃないですよね。だから、刑事さんかなと思ったわけなんですが」

「……流石ですね」

 そう呟くと、男は懐に手を入れ、角袖の内ポケットから旭日章があしらわれた革の手帳を取り出した。所謂警察手帳だ。

「馬場平署の白岾しろやま惣次郎そうじろうです。こちらは佐久間。お伺いしたい事があります。お時間よろしいですかね?」

 馬場平署は雲水峰坂町うづみねざかまちを含む、この辺りを管轄している警察署だ。後ろにいた部下の佐久間という男が奈落に軽く会釈した。白岾しろやまと名乗った男の言葉に、奈落は小さく溜息をついた。

「……仕方ありませんね」

 そう呟くと、奈落は利一に目線を向けて顎で指示した。利一は小さく頷くと、店の外に出て営業中の札を裏返し、準備中として掛け直した。




「……これは?」

 テーブルの前に利一が置いた鉱石茶を、白岾しろやまは胡散臭そうに手にとって眺め回した。中には深い青色の瑠璃が入っており、茶はその石と同じような、澄んだ紺青色をしている。

「鉱石茶です。ここで提供している……まぁ、要は薬茶ですよ」

「こんな青い茶など見た事がないが…」

「その色は薄紅葵ウスベニアオイの花を使っています。珍しい特性のある茶でしてね……まぁ、どうぞ」

 そう言って奈落は白岾しろやまに鉱石茶を勧めたが、白岾しろやまは顔を顰めるばかりで口にしようとはせず、そのまま茶托に戻した。奈落は眉を顰めたが、特にその不快感は口には出さなかった。

「単刀直入にお話しします。おい、佐久間。あれを出せ」

「はい」

 佐久間が小脇に抱えていた鞄から、手拭いで包んだ何かを取り出した。佐久間が手拭いを開くと、中から出て来たのは紅い模様が入ったびいどろのような硝子煙管……非正規の真珠煙管だった。

「これに、心当たりはありますかね?」

「……非正規の真珠煙管、現物を見るのは初めてですね」

「ほう」

「うちでは正規品しか取り扱っておりませんからね。噂には聞いた事がありましたが」

 そう言うと、奈落は「失礼」と言って席を立ち、カウンターの奥で何やらごそごそと探し回ると、見つけたそれを手にとってまた戻ってきた。その手には飾り気のない硝子の煙管。嘉月製造所で作られた正規の真珠煙管を持って二人の前に戻ってきた。

「これは私の私物ですが、うちで取り扱っている正規の真珠煙管です。うちでは真珠煙管はこれしか取り扱っておりません」

「では、こちらの紅い煙管は心当たりはないと?」

 白岾しろやまの言葉に、奈落は小さく溜息をつく。

「こちらも困っているのですよ。女学生の間でその非正規品が流通しているようでしてね。何度か問い合わせ頂いておりますが、私は医師から正規の手続きを取った方でなければこの真珠煙管をお売りすることはありません。非正規品などもってのほかです」

「……」

 白岾しろやまの目が、片眉だけ顰める独特の表情で奈落を睨むように見つめた。奈落は奈落で、その手に自分の真珠煙管を持ったまま、上目遣いで白岾しろやまを睨み付ける。

「……いや、失敬。この紅い煙管の流通経路を探っておりましてね」

 先に目線を外したのは白岾しろやまだった。奈落は軽く鼻を鳴らすと、手にしていた煙管をテーブルの上に置いて椅子の背もたれに体を預けた。

「真珠は、強過ぎはしないものの精神に作用する薬です。下手に小説や活動写真などで取り上げられたものだから、その見目麗しさも相待って、多感な女学生にもてはやされるようになってしまった。そういう下地がありますから、流通しやすくなってしまっているのかもしれませんね。お察ししま……」

「いや……」

 白岾しろやまが奈落の言葉を遮った。奈落が訝しがると、白岾しろやまはテーブルの上に置かれた赤い方の煙管をトントンと指で叩いた。

「それだけの問題ではなくなってしまったんですよ。最近、女学生が咳嗽や血痰、喘息発作など、まるで結核のような症状で病院に駆け込む事が多いのです。調べてみると、その女学生に共通していたのが、この赤い煙管だったのです」

「……病院?」

 不審な顔をしていた奈落だったが、白岾しろやまに促されて佐久間が出した箱の中の石を見て目を見開いた。丁寧に木の箱の中に入れられていた石は鮮やかな紅色。それはまるで、赤い煙管の模様に入っているものと同じような色合いだった。

「……鶏冠石」

「流石石薬屋ですね、見ただけでわかりましたか」

 実際には、奈落はその嗅覚で嗅ぎ分けたのだが、一般人には鉱石体質者の嗅覚の事はあまり知られていない。故に白岾しろやまは、奈落がその石の外観で種類を判別したと思ったようだった。

「砒素の硫化物を主成分とする鉱物、鶏冠石。これがその煙管の紅の正体です。この煙管を使って真珠をむと、真珠を溶かす薬液が煙管の表面も溶かして、緩やかに砒素の成分を吸引する事になる。この煙管を使ったものは、慢性の砒素中毒になっていくというわけです。砒素は経気道で長期的に摂取が続くと、まるで結核のような症状が現れる…そう。女学生たちに現れていた症状です」

 白岾しろやまの言葉に、奈落は青ざめて言葉を失った。言われてみれば、最近は女学生から咳や嗄声の薬を求められる事が多い。季節の変わり目による風邪の類と思っていたが、女学生ばかりが、というのは不審に思っていたのだ。

「この煙管を作っていたのは……確か、月宮硝子店だったと……」

「ええ。ですから月宮硝子店も調べました。ですが、処分したの一点張りでしてね。実際、月宮硝子店には在庫の一本もありませんでしたよ」

「……」

「何せ、不審な点が多すぎましてね。それでこうして、薬屋や医療機関も探っているのです。……そういえば、常盤診療所はご存知ですか?」

 まだ動揺を隠しきれない奈落は、唐突にその名前を聞いて不審な目を白岾しろやまに向けた。

「常盤……常盤風吹ですか?」

「ええ。これからそちらにもご協力頂く予定でしてね」

「風吹が、何か」

 ここまで話してきて、初めて感情を剥き出しにした奈落に白岾しろやまはまた、あの片眉だけを顰める表情を見せた。

「……ご存知無いのでしたら、私の口からそれは言えませんな」

 店内に沈黙が訪れる。奈落は髪を掻きむしって溜息をついた。店の奥で、そんな奈落の様子に口を出したそうに利一が口元を歪ませていた。

「……女学生の間には、サナトリウム文学が流行していますね。真珠煙管もよくそれらの物語に登場します。ただ、見た目だけが好まれているのかと思いきや……その紅い煙管には、まるでそのサナトリウム文学に入り込んだような症状が現れるという訳ですか……」

 苛立ちを隠せない口調で奈落は白岾しろやまを睨みつけた。白岾しろやまに非がある訳では無い、それでも自分の周りで起こっているであろう何かへの憤りを何処かにぶつけずには居られなかった。

「奈落さん」

 利一がそっと控えめに、奈落に柚子の蜜漬けを差し出した。

「少し、甘いものでも口にして落ち着いてください。宜しければ白岾しろやま様もどうぞ」

 その声に、白岾しろやまはまた片眉を顰めた顔を、今度は利一の方に向けた。

「……もしや」

「あっ、よくお気づきになりましたね?はい、わたくし男です」

「店主は男装の女で、女給は男か……いかにも女学生が好きそうな店だな」

 白岾しろやまの言葉に、奈落は立ち上がって言い咎めようとしたが、利一はそれを片手で制して白岾しろやまににこりと微笑んでみせた。

「お褒めに預かり光栄ですわ。折角ですから白岾しろやま様にお見せしたいものがありますの」

 そう言うと、利一は持ってきた柚子の蜜漬けを白岾しろやまの鉱石茶の中にひと匙入れて掻き混ぜた。青い鉱石茶は次第にその色を変え、淡い桃色と変化するのを白岾しろやまは呆気に取られて眺めていた。

「……これは」

 その白岾しろやまの表情を見て、奈落はやや冷静さを取り戻した。

「それが先程お話しした薄紅葵の茶の特性です。時間の経過や、こうやって柑橘の汁を入れることで色が変化するのです。……まるで、夕刻の空のようにね」

 白岾しろやまはしばらく薄紅葵の鉱石茶を眺めていたが、おもむろにグラスを手に取ってその茶に口を付けた。そしてほんの少し啜ると、再び茶托へとグラスを戻した。

白岾しろやま様は、奥様はいらっしゃいます?」

「なんだ、藪から棒に……長らく独り身だったが、去年妻を娶りましたよ」

「まあ、そうなんですね! ……その時、何も贈り物はされませんでしたの?」

「……何が言いたい」

「いいえ……でも、わたくしたちは……いえ、奈落さんは、贈り物をされて喜んだ時のような女性の笑顔をこそ大切になさっていると思うのです。貴方は女学生と嘲いますが……あなたの奥様だって、色を変えるお茶のように小さな驚きを喜ぶのではないですか?」

 そう言ってにこにこと笑う利一に、白岾しろやまは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「食えない奴だな。……正直、私は鉱石薬というやつが嫌いでしてね。大体石薬屋というのは呪い師のような輩ばかりですし、効果がはっきりしている西洋医学の薬と比べて、どうにも曖昧だ。毒にも薬にもならんと思っていたのですよ」

 そう言って笑う白岾しろやまに、しかし奈落は皮肉を込めた笑顔で応じた。

「おやおや、言いなさる。薬屋に対して毒にも薬にもならないとは、莫迦や阿呆と言われるよりも侮辱されているようなものですよ」

「……これは失敬。親をそういう胡散臭い石薬屋の薬で亡くしましてね。どうにも信用ならんのですよ……おい、佐久間。帰るぞ」

 白岾しろやまはハンチング帽を手に取ると、無造作に頭に乗せて店の玄関に向かった。佐久間は慌ててその後を追ったが、暖簾の前で白岾しろやまは立ち止まり奈落と利一の方を振り返った。

「……思い出しました。妻が宜しくと言っていたのは、貴女のことですかね、極楽堂の二代目さん」

 白岾しろやまの言葉に、奈落は訝しがる。利一の方も首を傾げて、奈落と目を合わせた。

「『虎目屋』の『月篠』といえば分かりますかね。いや何、今ここに妻の千社札がありましたのでね」

「なっ……!!」

「……去年、私が身請けしましたので、今は白岾しろやま 篠子しのこと名乗っておりますが……そのお顔は、お心当たりがおありのようだ。元気でやっていると、そう伝えてくれと、頼まれていたのを思い出しました。……では」

 そう言うと、白岾しろやまは店を出た。後を追う佐久間を見送った後、車のエンジン音が遠ざかった頃に、奈落は吐き捨てるように呟いた。

「クソっ……! だったらあんな奴、白湯でも出しておけば良かった!」

 色の変わった薄紅葵ウスベニアオイの鉱石茶が、柚子の香りを放ってゆらゆらと揺れていた。

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