二話

 遠い、記憶だ。


 由乃は、奈落と手を繋いで歩いていた。その少し前を、祖父の恭助が歩いていた。その頃の恭助は着流しと黒い中折れ帽を被っていて、今の姉と同じような姿をしていた。もっとも、姉が店を継ぐ時に祖父の服も貰っていたので、同じ姿をしているのは当たり前なのだが。

 染夜の葬儀が終わってすぐの頃だ。自分はまだ幼く、姉はまだ女学生だった。姉は髪も長く、矢絣の着物に袴、そして雲水峰うづみね高等女学校の徽章をつけていた。自分は姉のおさがりの木綿の着物を着て、姉に手を引かれて歩いていた。

『……いいのか?奈落。お前まで晶刺しょうさしを入れる必要はないんだぞ?確かにお前の体質はこの界隈では珍しい生まれつきのものだが、晶刺しょうさしを入れる程その体質のせいで生活に困っている訳ではなかろう』

『こんなに小さい由乃が体に刺青を入れるんですよ。同じ体質を持つ姉として、何もしないでいることはできません。……せめて、痛みを共有してやりたいんです』

『じゃから、その役割は儂がやると言うのに。嫁入り前の体をわざわざ傷付けんでも』

『それは由乃だって同じです。それにじい様の体にはもう晶刺しょうさしが入っているでしょう。それ以上入れるんですか?』

『ったく、減らず口ばかり叩きおって』

 姉と祖父の会話は、なんだか難しくてよくわからなかった。ただ、これから痛い事をされるらしいという事だけはわかった。怖くなって、繋いだ姉の手を握る手に力がこもる。それに気付いた姉は、足を止めて自分の顔を覗き込んだ。

『……どうした、由乃?』

『こわい……』

 気付くと、自分は泣き出していた。姉はしゃがみこんで泣きじゃくる自分を抱きしめ、なだめるように背中を叩いていた。

『こわい……こわいよおねえちゃん……これからどこにいくの?いたいのいやだよ……』

『そうだよな……怖いよな、由乃。でもな、これを我慢すれば、由乃が楽になるんだよ。今、いろんな匂いがして嫌だろう?あの時から、何度も気持ち悪くなって倒れているだろう?だから、これは治療なんだよ。由乃の体にお薬を入れるんだ』

『いやだ、こわいよ……』

『うん。そうだな。お姉ちゃんも怖いよ』

 姉の言葉に、しゃくり上げる声を止めて姉の目を見る。一部分だけが欠けたような不思議な姉の目は、哀れむような、辛そうな色を滲ませていた。

『由乃だけ痛いのは不公平だからな。お姉ちゃんも一緒に痛いお薬を入れるんだ。一緒だよ、由乃』

『いっしょ……ほんと?』

『あぁ、本当だ』

 少し前の方で、祖父が帽子を少し目深に被ったのが見えた。

『そうだ。由乃は蝶々が好きだったな。一緒に蝶々を描いてもらうのはどうだ?』

 姉の言葉に、何とは無しに頷く。本当は、姉は蝶々が好きではない。それでも自分のためにそう言ってくれているのがわかったからだ。

『よし……いい子だね、由乃』

 そう言って、もう一度ぎゅっと抱きしめられた。そして姉が離れると、自分も泣きはらした顔を袖で拭い、できる限り気丈な振りをしてまた姉と手を繋いだ。


 遠い、記憶だ。


 昔、姉と手を繋いで歩いた道を、由乃は今一人で歩いていた。姉はあまり体に晶刺しょうさしを入れると仕事に支障が出るので、由乃のように毎年入れたりはしない。それに、女学校に入ったあたりからは姉に付き添ってもらうのも恥ずかしくなったので、一人で行くようになっていた。

 商店街から離れた、少し如何わしげな繁華街。この近くには花街もある。まだそれほど治安が悪いわけでは無いが、女学生が一人では訪れないような場所だ。セーラー服姿では悪目立ちするので、由乃は木綿の着物を着ていた。姉のお下がりでも良かったのだが、利一が私物を貸してくれた。正直、利一の着物の方が愛らしいものが多くて由乃は気に入っている(それが男性として如何なものか、という事はともかく)。今着ているものも、小さく可憐な菊があしらわれた淡い色合いの、由乃好みのものだ。濃紺の市松模様の帯を締めて、大人っぽくまとめている。長い髪もまとめ髪にして、極力女学生らしさは出ないようにしたつもりだった。

 そんな、普段なら少し浮き足立つような装いも、これから晶刺しょうさしを入れに行く為と思うと気が滅入る。由乃は小さく溜息を付いた。

 繁華街の片隅にその店はあった。『刺青屋 時雨』。店と言っても下の階は煙草屋で、煙草屋の看板の隣に小さい表札のような看板があるばかりだ。

「こんにちは。時雨さん、いますか?」

 由乃は煙草屋の主人に声をかけた。紙巻を燻らせる老人男性は、由乃の声に目を細めてしばらくまじまじと見ていたが、やがて合点がいった顔をして紙巻の灰を灰皿に落とした。

「誰かと思えば、極楽堂んとこの孫娘か……随分別嬪になったもんで、わからんかった」

「ふふ、ありがとうございます」

 実は去年も同じ事を言われているのだが、それは言わないでおく事にした。偶に会う老人というものは、大体いつも同じ事を言うものだ。

「時雨なら、上にいるよ。何やら準備をしていたが、そうか。お嬢ちゃんがくるからか」

 それを聞いて、由乃は老人に軽く頭を下げると、店に上がり奥の階段から二階に登った。

 時雨は五歳で初めて晶刺しょうさしを入れてからの長い付き合いになる刺青師だ。やはり元々は祖父の知り合いで、年の頃は由乃の父よりも少し若いぐらいだろうか。由乃の周囲は大概変わり者の人物が多いのだが、由乃は時雨ほどに変わった人物を見た事がない。

「こんにちは……時雨さん?」

 階段を登って、時雨の部屋の前で声をかける。返事はない。そっと扉を少し開けて中の様子を伺うと、何やら荒い息遣いが聞こえてきた。

「……あの……時雨さぁん」

「はちじゅう……ろくっ……! はぁっ……はちじゅう……ななっ……!」

「……」

 その男は、薄暗い部屋の中で腕立て伏せをしていた。黒い股引きに晒しのみ纏い、筋骨隆々とした上半身は派手な和彫が施されていて、その華やかな肌の上を玉のような汗が流れていくのが見えた。

「し・ぐ・れ・さ・ん!!」

 由乃は扉を大きく開けて、今度は語気強めに声をかけた。声をかけられた男ー時雨はようやく由乃の存在に気付いたらしい。腕立て伏せを中断すると、首にかけていた手ぬぐいで顔の汗を拭きながら由乃の方に向き直った。

「やあ、由乃ちゃん。お待ちしてましたよ。ちょっと早く準備ができたものでね、暇つぶしに運動をしていたところだ」

 そういって時雨は爽やかに笑う。姉よりいくらか長い髪を後ろで小さく結び、その容姿はまるで歌舞伎役者か何かのように見事に整っている。しかし、威圧感のある筋肉とその体に彫られた派手な和彫は、開国前の江戸でならさぞもてはやされただろうが、大正デモクラシイ後の現代では些か前時代的だ。

「……彫り物、また増えました?」

 由乃は汗だくで腕立て伏せをしていた点には触れず、とりあえず目に入った時雨の腕の鬼子母神を指して聞いた。

「おっ、よくわかったね。そう、いいでしょ? この鬼子母神の子どもを見つめる表情がね、慈愛に溢れながらも艶っぽく表現できたと思ってるんだよ」

「……はぁ」

 自分で聞いておいてなんだが、由乃は晶刺しょうさしのことがなければ刺青になど関わる事はなかったわけで、あまりその彫り物の美学に興味があるわけではない。会話の緒を探っただけなのだが、きらきらとした目でその隆々とした右腕を見せる時雨はそんな由乃の思惑など御構い無しだった。

「よし、じゃあ早速始めようか。女学生に刺青を入れられるなんて俺もそうそうある事じゃないからね、毎年の由乃ちゃんの晶刺しょうさしが楽しみなんだよ。瑞々しいその肌に彫っていく背徳感は堪らないね!」

 まるで下心のなさそうな爽やかな笑顔でそんな事を口走る時雨に、由乃はげんなりした。

「勘弁してください……私は一応堅気なんですよぅ。毎年痛みに耐えるのは結構辛いんですから……」

「ははは!ごめんごめん! でも、痛みというと君のお姉さんを思い出すなぁ。彼女に晶刺しょうさしを入れた時、今の君ぐらいの年だったと思うんだけどね。堅気であんなに痛みに耐えられる人は初めてだったよ。男でも叫び出す人がいるんだけど、殆ど声をあげなかったからね!」

「姉は痛みに鈍いんですよ。いつのまにか怪我してることが珍しくなくて」

 大体、姉本人よりも先に由乃の方が怪我に気付くことが多かった。女学校の帰り道で側溝に足を取られて転んだ時、本人の体感的に大した痛みではなかったらしいのだが、帰宅した時には着物を血まみれにしていて賊の類に襲われたのかとちょっとした騒ぎになったものだ。そのぐらい姉は痛みに鈍かった。

「そうなのかい? でも、たまにいるんだよそういう子も。この前由乃ちゃんよりも若い子に晶刺を入れたんだけど、その子もそうだったんだよね」

「私よりも? ……大丈夫なんですか、それ」

 そう言って由乃が訝しげな表情を見せると、時雨はにやりと笑って刺青の針をひとつ手に取った。

「五才で晶刺を入れた由乃ちゃんが、何を言ってるんだい?」

「は……ははは……それもそうですね」

 思わず、由乃はびくりと身震いをして後ずさりした。その時、手にしていた風呂敷包みを思わず握りしめたが、それで姉から持たされたものを由乃は思い出した。

「そうだ。これ、お姉ちゃんからです。今回の晶刺しょうさしに使う水晶末です」

 由乃は風呂敷包みを開き、中から薬瓶に入った白い粉末を取り出して時雨に渡した。

「あぁ、ありがとう。奈落さんにお願いしていたんだ」

 そういうと、時雨は薬瓶を受け取って手にしていた針と共に道具箱の中に入れ、その隣から薄手の作務衣を手にとって由乃に渡した。晶刺しょうさしを入れるための着替えだ。相変わらずにこにこと笑っている時雨に笑顔を引きつらせて、由乃はその作務衣を受け取った。


 本当に気乗りしない。だが、止むを得ない。これを受けなければ自分は生活に支障をきたすのだから。

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