鴉花珠と朱煙管

一話

 自室の文机で本を読んでいた少女は、突然酷い咳が止まらなくなった。読んでいた本を文机に置いて咳き込んでいたが、しばらくすると落ち着いてきて、手元に置いていた茶碗に水差しの水を汲み咳で荒れた喉を潤した。

 一息ついて少女は自嘲気味に微笑む。最近こんな咳が出ることが多くなってきた。まるで今読んでいる小説の主人公のようだ。結核で隔離されてしまった薄幸の青年。彼女は青年の心の闇に触れるたびに胸が高鳴った。早く読み進めたいと思っているのだが、残念ながらこの小説は途中で止まっている。書きかけのものなのだ。

 なんとももやもやとした気持ちを抱えて部屋の窓を覗き込んだ。窓からは遠くの街路に植えてある桜の花が見える。会いたい……あの人に会いたい。嫁入り前の娘がそんな風に思うのははしたないことだろうか。あの物語の主人公そのもののようなあの人への、ただの憧れか。それともこれは、体とともに心も弱っているのかしら。

 そんなことを考えながら窓の外を眺めていると、家の門の前に人影を見つけた。

 どきり。あの人、あの人だ。あの髪型、あのいでたち、間違いない。彼女が食い入るようにその人影を見ていると、彼は少女の方に目を向けてにこりと笑い、小さく手を振った。彼女の心臓は飛び跳ねんばかりに高鳴り、慌てて部屋を出た。しかし階段を降りる足音は、家人に悟られぬよう忍ばせながら。

 そっと家の扉を開けて外に出る。門の前にその人の姿を見つけると、少女は跳ねるように駆け寄って行った。

「危ないですよ、そんなに走っては……また、咳が治っていないのでしょう?」

 彼の言葉に、少女は胸をときめかせた。自分を心配してくれている、その言葉が何よりも嬉しい。

「大丈夫、大丈夫です。ああ、お会いできると思わなかった……」

「小説の続きを持ってくると約束していたからね。ほら、ここにある」

「まあ、嬉しい……続きをとても楽しみにしていたのです」

 彼女の言葉に、彼は少し困惑したような微笑みを見せた。

「……妬けてしまいますね。その小説は、私よりも貴女の側に長くいることができて、そんな風に貴女に楽しみにして貰えるなんて」

 少女は頬を赤らめた。なんてことだろう、こんな風に妬いてくれるだなんて。

「いいえ……いいえ、この中の彼が……あなたのようで、文字を追う毎にあなたのことを思い出して、あなたに会える時間を夢想していたのです……だから、今日会いに来てくださってとても嬉しいのです……」

 頬を染めてまくし立てる彼女を愛しそうに眺めて、その人は少女の手をそっと握った。二人はしばらく見つめ合う。やがて、その人は少女の手の甲にそっと唇を落とし、手にしていた封筒を彼女に手渡した。

「愛しい人……貴女となら奈落タルタロスに落ちるのも怖くはありません……」

少女はただぼうっとして、その人の瞳から目を離せなくなっていたが、ふとあることを思い出して顔を顰めさせた。

「……嫌だわ。私、あなたに謝らなければならないことがあるのだったわ。折角取り寄せた真珠煙管を女学校の先生に取り上げられてしまったの……ごめんなさい」

 少女の告白に、その人は小首を傾げた。その仕草が彼女には機嫌を損ねたように見えて、少し怯えた目で少女はその人を見上げていた。

「見つかってしまったのですか……」

「目敏い先生で……」

「仕方がありませんね……小説の資料に取り寄せたものですが、私のものを差し上げますよ」

 その人の言葉に、少女は驚いた表情を見せた。

「よいのですか?」

「……今度は、見つからないようにして下さいね?」

 そう言っていたずらっぽく笑うその人の笑顔に、また少女は頬を赤らめて微笑み返した。しかし、家の方から自分の名前を呼ぶ声が聞こえてくると、慌ててその煙管を懐へとしまい込んだ。

「大変……もう! もう少しお話したかったのに……また来て下さいますか……?」

 少女がそう尋ねると、その人は微笑んで手を振った。

「もちろんですよ、私の愛しい読者様。小説の続きを書いたら、またお持ちします」

 そう言ってその人は踵を返すと、暗い夜道へと消えていった。少女は見送りたい気持ちで後ろ髪を引かれつつも、また足音を忍ばせて家の中へと入っていった。




 商店街や住宅街から離れた、閑散とした雑木林の中に常盤診療所はあった。

 風吹は旅の荷物を開きもしないまま、診察室のベッドに横たわっていた。やる気なさげに溜息をひとつつくと、唐突にげほげほと咳き込む。

「っはぁ……成る程ねぇ……」

 風吹は息苦しそうにそう呟くと、ベッドから手が届く所に置いていた薬包紙を手に取り、その中の粉薬を口の中に流し込む。そして心底面倒臭そうに起き上がると、机の上の水差しに直接口をつけて、ごくごくと薬を流し込んだ。

 白衣の袖で口元を拭うと、ふらふらと診察室を出てこの診療所の数少ない病室の一室に向かった。

「おや、風吹サン。もう体調は良くなりマシタか?」

 ベッドの側にいた白い作務衣の男が片言で風吹に話しかける。その前のベッドには、一人の老婆が横になっていた。

「ああ、心配かけたね落霞ラオシア。旅の間診療所を見ててくれてあんがとさん」

 落霞ラオシアと呼ばれた男は満面の笑みで風吹の言葉に応える。

「トンでもないです!行き倒れていたワタシを拾って頂いたのデスから、このクライ当たり前デス!」

「あそー。まあこっちは万年人不足だからね。医療の心得があるならこっちもいてくれると助かるよ。どうだい?玖珂のばあさん、調子は?」

 照れからなのか、尚も風吹を褒め称えようとする落霞ラオシアを諌める。片手をふらふらさせながら、風吹はベッドに横になっている老婆に声をかけた。

「ああ……先生。痛みがね……楽になりました……」

「そう、良かった。また痛くなってきたら言ってね、お薬使うから」

「ありが……と……」

 そう言ってくしゃくしゃの顔を、泣きそうな笑顔で更に皺を増やす。その表情に風吹は一瞬辛そうな目をしたが、直ぐにへらりと笑って見せた。

「せんせ……には……お世話になるからね……。こんな老体で……手伝える事があるなら……言ってください……」

「……うん。ありがとう。じゃあ、後でお願いするよ。落霞ラオシア、あとよろしくねぇ」

 今のやりとりに何か言いたげな落霞ラオシアを制して風吹は病室を出た。そのままさっき居た診察室に戻ろうとしたが、足早に進めていた足を突然止めて、風吹は廊下に立ち止まった。

「メメントモリ……か」

 診療所内に鈍い衝撃音が鳴り響く。風吹の小さな拳が壁に打ち付けられていた。小さく肩を震わせて、じっと床に目線を落とす。しばらくその状態が続いたが、やがて風吹は一息ついて顔を持ち上げた。

「わかってるよ、春乃……母さんがお前を捨ててまで選んだ道だ。泣く資格なんか、僕にはあるもんか」

 誰へとも無くそう呟いたその時、診療所のチャイムが鳴り響いた。風吹は音のしたほうをぼんやりと眺め、やがて心底面倒臭そうに玄関に向かった。

「ごめんねぇ、今ベッドは埋まってるんだ。治る病気ならよそへ……」

「久しぶりだな、風吹」

 風吹が玄関を開けると、そこにはやたらと背の高い背広の男が立っていた。髪は練香油できちんと整えられて、背広やタイの上質さから身なりのいい人間であることが伺える。風吹は男の顔を見上げると、次第にわなわなと表情を引き攣らせて口をぱくぱくさせていた。

「……六堂」

 風吹が六堂と呼んだその男は、ただじっと風吹の顔を見つめていた。何やら不穏な空気が、二人の間を流れていた。

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