六話

 目が覚めると、横になっている自分の上に何か重いものが乗っている事に気付いた。嫌な重さではない。首を起こしてそちらの方に目を向けると、自分が横になっている布団の上に姉の奈落が手を伸ばしてもたれかかっていた。

「お姉ちゃん……」

 姉は肩に旅館の羽織をかけて、眠っているようだった。由乃は奈落を起こさないよう、そっと上体を起こした。

「あ、目が覚めた?」

 少し遠くから風吹の声がした。風吹は部屋の脇に寄せられたちゃぶ台で茶を啜りながらこちらを眺めていた。

「風吹さん」

「びっくりしたよ。旦那が酔い覚ましに外に出るっていうからついてったんだけどさ。そしたら君たちがいて、由乃ちゃんが目の前でいきなり倒れるんだもん。旦那の瞬発力を見せたかったよ。君が倒れた瞬間に、下駄が脱げるのも気にしないで駆け出したからね」

「……」

 風吹の言葉に、由乃は朧げに昨夜あった事を思い出しつつあった。

 周りを見回すと、部屋にいるのは由乃と奈落と風吹だけだった。障子から漏れる光を見ると、既に日が昇っているようだ。

「柘榴さんは?」

「ずっと寝ずに君を見ていたよ。悪いことをしたと言ってた。でも、さすがに辛そうだったからね。さっき顔を洗っておいでって言って、大浴場に行かせたんだ」

「そうですか……」

「……まぁ、何があったのかわかんないけどさ。とりあえず僕が診る限りは大事ではなさそうだったからそのまま連れてきたんだけど……とりあえず、気がついて良かったよ」

「すみません……ご心配をおかけしました」

 由乃が、ばつが悪そうに呟くと、風吹は曖昧に笑って茶碗をちゃぶ台に戻した。風吹がこんな表情を見せるのを、由乃は見たことが無かった。

「柘榴ちゃんが戻ってきたら、朝食に行こう。昨日の男の子も来てるんだ。あと、森夫婦も謝りたいって言ってた」

「えっ?」

「まぁ、保護者としてね」

 風吹の言葉に由乃はきょとんとしたが、大きく伸びをして目が覚めたらしい奈落の怒涛の過保護によって、その疑問は後回しにされることになった。



「由乃さん! 大丈夫でした!?」

 朝食会場に着くなり、文無あやなしが由乃に駆け寄った。本当に心配そうに顔を覗き込む文無あやなしに、由乃はなんだかこそばゆいものを感じた。

「文無さん……すみません、大丈夫です。体にはおかしいところはないらしいので……ええと……」

 こんな時、どう説明したらいいのか。鉱石体質はそこそこ人に認知されてはいるのだが、由乃の場合はまた違う。それを人に説明するのはなかなか難儀だった。

 由乃は傍に寄り添っていた姉に助けを求めるように目線を投げかけた。

「あー……妹も晶刺しょうさしを入れてるのはご覧になりましたよね。昨日、外に出ていてどうも『其れ』に酔ってしまったらしくて」

「ああ……」

 納得した様に文無あやなしは森と顔を見合わせた。なるほど、全て話さなくてもいいのか。内心由乃は奈落の大人の対応に関心した。

 奥の方で、和葉が肩身狭そうに目線を落としているのが見えた。由乃の目線に気付いた春子は、森を突いて促した。

「あぁ……改めて紹介するよ。来年の春からうちで書生をしてもらう芳崎和葉君だ。なんだか昨夜は彼がデリカシィのない事を君と柘榴さんに言ったようですまなかったね。ほら、君も謝りたまえ」

 森に紹介された和葉は、気まずそうに一度目線を由乃の方に向けると、心許なく目線を泳がせた。

「……昨日はすみません。エスというものが、男の私にはよくわからなくて……下世話な勘違いをしてしまっていたようです」

「……いえ、あの状況は、誤解されても仕方ありません」

「誤解?」

 由乃の言葉に、奈落が少し棘のある口調で聞き返した。まずい。自分の中では疚しさしかないあの状況を、姉にどう説明すればいいのか。

「奈落さん、由乃さんは私を慰めて下さっていたんです。波の音で、あの時の事を思い出してしまっていて……」

「思い出す?」

 和葉が、柘榴に聞き返した。

「えぇ……雫先輩が亡くなっていた時のことを……」

「あぁ……そうですか。そう、言っていましたね」

「あれを見られれば、そう思われるのも無理はありません。私たちにも責はありますの」

「そうですか……」

 まだ奈落は腑に落ちていないような表情で由乃を見た。由乃は作り笑いで応じたが、姉の表情は余計不審そうなものになるばかりだった。うまく誤魔化せない自分がもどかしい。

「さぁ、立ち話もなんです。朝食をいただきましょう」

 由乃たちの後ろからやって来た利一が声をかけた。その後ろには面虎も控えている。

「折角なので、和葉くんのぶんも準備してもらいましたよ。いいよな?メメ」

「あー…印宮堂で支払ってくれるならいくらでも」

「おいふざけるなよ、俺が編集長にどやされるだろう!」

 面虎の明るい声が話題を反らしてくれて、由乃は心底安堵した。朝食の膳はどれも美味しそうなものばかりで、由乃はようやく自分の空腹に気付いたのだった。



「……おや? 風吹がいないな」

 由乃たちが帰り支度をしてラウンヂに集まっていると、ふと奈落がそう呟いた。

「後から行くと聞いたので、鍵はお渡ししてあるのですが……」

 柘榴の言葉に奈落は眉を顰めた。時間的にはもう旅館を出なければならなかったからだ。

「ったく、あいつは何をやってるんだ……」

「あっ、お姉ちゃん。私呼びに行くわ。もしかしたら持ってきた小説を忘れているかもしれないの」

「ふむ、では頼む。会計は先に済ませておくから、とっとと連れて来てくれ」

「了解!」

 そういって由乃は小走りで部屋へと急いだ。後ろから姉が「気をつけろ、走らなくていい!」と大声を出したのが聞こえて、由乃は慌てて速度を緩めた。

 奥の階段を登る。昨夜と違って人の賑わいが少なくなった旅館の中は、湖の波の音がよく聞こえた。宿泊した階にたどり着き、由乃は部屋へと足を進めた。

 ふと、真珠煙管の匂いが鼻腔をくすぐった。由乃は昨日の事を思い出して胸が切なくなったが、しかし柘榴は下のラウンヂに姉たちと一緒に居たはずだ。別な部屋で、誰かが吸っているのだろうか。

 そのまま部屋の扉に手をかけると、由乃はある事に気付いた。真珠煙管の匂いがしているのは、この部屋だという事に。

「……えっ」

 部屋の中にいるのは、風吹のはずだ。彼女は真珠煙管をんでいただろうか。いや、んでいたとしても何も不思議な事はない。彼女は医者であるし、姉と懇意にしているのだから煙管はいくらでも入手できるだろう。何も問題はない。それに、もしかしたら柘榴が吸っていた真珠煙管の残り香かもしれない。

 由乃は僅かに躊躇したが、意を決して扉を開いた。

 履物を脱いで襖を開ける。すると、奥の窓際で真珠煙管をんでいる風吹の姿があった。

「……あれ? 由乃ちゃんどうしたの?」

 風吹は突然開いた襖に驚いた様子だったが、相手が由乃だと気付いていつものへらりとした笑いを浮かべた。

「あ、あの……あっ、お姉ちゃんが。もう出る時間だから、早くって」

 由乃は動揺を隠しきれず、しどろもどろになりながらそう伝えた。

 どうしよう。これはどういう状況なのだろう。由乃は狼狽えていた。風吹が喫煙していた真珠煙管は、姉の店で取り扱っている正規品ではなかった。先日、峯澤に叱責されていた女学生が使っていたのと同じ、紅いびいどろのような美しい真珠煙管だ。風吹はそれを、隠しもせずに吸い続けていた。

「あぁ、もうそんな時間か。ありがとう由乃ちゃん」

 そう言って、吸いさしの真珠と薬液を灰皿に落とすと、手ぬぐいで煙管の火皿を拭いてそれをしまった。荷物はもうまとめられてあるらしい。風吹はそれに手を伸ばそうとして、思い出したように中を漁った。

「そうだ……これ、由乃ちゃんの本だろ? 森さんの小説」

 そう言うと、風吹は手に取った本を由乃に手渡した。それは、確かに由乃が持ってきた森の小説だった。

「忘れてるみたいだったから、後で渡そうと思ってたんだ。駄目だよ、森さんのフアンなんだろ? 大事なものじゃないか」

「え、えぇ……ありがとうございます」

 由乃は本を受け取っても、呆然と風吹の方を見つめていた。

「……なに?」

「あ、あの」

 聞いていいのだろうか。何故姉と懇意にしている彼女が月宮硝子店の紅い煙管を使っていたのか。正規品ではないあれは、姉の店では取り扱っていないはずだ。

 すると、由乃の動揺を察したらしい風吹が荷物を持ったまま唇の端に笑みを浮かべて、由乃のすぐそばに近づいてきた。由乃は何故か、本を胸に抱えて動けなくなっていた。

「今見たものは、秘密だよ」

 風吹は一言そう告げると、立ち尽くす由乃を置いて部屋から立ち去っていった。


 部屋の中には、風吹がんでいた真珠煙管の匂いが漂っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る