第90話 鉄甲竜、堕つ
ざあざあと降り
リヴァイアサンがその長い長い身体を巻き上げ、大質量の大津波を叩きつける。大質量が伴うのは圧倒的な "重さ" だ。トフンガーは体勢を低く構え、押しつぶさんとばかりに迫りくる水の壁を凌ぐ。
雨に混ざって飛び散った多量の水しぶきが水面を叩く。一寸先すら見渡せない土砂降りの中で、水晶の瞳が怪しく瞬いてみせた。
「目にもの見せてやる」
両の手で翼の一対を鷲掴み、全身のシリンダーをフル稼働させる。擦れ合う金属の音と、甲高い悲鳴。巨竜の筋繊維が、ぶちぶちとグロテスクな音を立てて引きちぎられていく。
「こいつでくたばれ!」
左の拳を高速回転させ、断面へと叩きつけた。肉が飛び散る。しかし、白く引き締まった竜の身は想像以上に手強いようだ。張り裂けてなおその役割を手放さず、強い力で自らの肉体に入り込んだ異物を締め付ける。
肉と肉に直に挟まれた巨人の拳は、音を立てて歪み始めた。トフンガーの痛みを感じる。咄嗟に腕を引き抜くと、歪んだ拳にリヴァイアサンが噛み付いた。軋む装甲。砕ける五指。前腕の中程からへし折られ、内部のフレームが剥き出しになった。
だが、決してただで転ぶような二人ではない。逆流する腕の痛みを必死にこらえ、未だ健在な右の拳で
轟く悲鳴。間髪入れずに蹴りを入れた。長く伸びた身体が海面に叩きつけられる。
不意にバランスが崩れた。海中に没した長い尻尾がトフンガーの足を絡め取ったのだ。大きく海中に引き込まれ、その場で無様に尻餅をつく。
それを尻目に再び陸へと進みだすリヴァイアサン。水中を手で探り、その尻尾を掴んで引き止める。陸に上げるわけにはいかないのだ。
「ふんばれ、トフンガー!」
関節がギシギシと音を立てる。リヴァイアサンの掻き分けた水が機体を叩き激しく揺さぶった。とめどない水音。だが、手応えはある。
――競り勝った!
今一度、リヴァイアサンの巨体を引き上げる。引いた縄のように制御を失ったっそれは、ズルズルと海面を擦り上げて悲鳴をあげた。
ケリをつけたい。
右手で宙ぶらりんになった顔面を鷲掴みにし、装甲が割れてささくれ立った左腕を何度も叩きつける。鋼鉄の破片が頑丈な皮膚を突き破った。聞き飽きた悲鳴が闇夜に轟く。
「トドメだ、くたばれ!!」
一度引き抜いた左腕を、今度は高速回転させて叩きつける。
「喰らえ! ハリケーンミキサーパンチ!!」
二人で声を合わせ、即興で命名した技を叫ぶ。しかしその腕は空を切った。急にトフンガーの体勢が崩れたのだ。
足を絡め取られた。しかしリヴァイアサンは目の前に居て、苦悶に雄叫びを上げている。こんなに力強い締め上げなどできるはずがない。
まさか――
大口を開け、水面からまろび出るもう一つの影。その威容をなんと呼べばいいのか、ソフィアの知識がガリアへと流れ込んでくる。
「レヴィアタン……!」
リヴァイアサンの写し身。古代、大渦竜に滅ぼされた文明が畏れ慄くあまりその姿を二つに幻視してしまったことで、認識として実体化させてしまったのだという。人の心に映り込む恐れはある種の災い。災害そのものである災魔とは、既存の生物や魔物とは魂のステージが違うのだ。
だからこうして目の前に現れる。
二本の尾がそれぞれトフンガーの両腕を締め上げた。これでは動けない。関節から響き渡る不快な音。悲鳴が甲高いのは、災魔もVMも同じらしい。
機体のダメージが伝わってくる。いくつかの筋繊維が断裂し、シリンダーからは油が漏れ出していた。振りほどこうにも機体の自由はとうの昔に奪われている。
続く断裂。
深刻なダメージを負った左腕が、遂に崩壊した。
目標を達成したリヴァイアサンが、陸上へと突き進む。レヴィアタンを振りほどけ無いトフンガーにそれを追いかける術はなかった。
海面を突き進むリヴァイアサン。その巨体が、遂に港へと叩きつけられる。このままでは、街が。
その時だった。
遠い遠い山々から、張り裂けそうな咆哮がこだまする。
ガリアはその声の主を知っていた。
「……ネマトーダか!?」
北の山々に潜む災魔、鉄甲竜ネマトーダ。それが今、確かに吼えたのだ。
しかし奴は寝床から離れないはず。まさか災魔の存在に刺激を受けてしまったのだろうか。絶体絶命のピンチに、ガリアとソフィアは思考を極限まで巡らせた。
そうこうしている間にも、リヴァイアサンは港を破壊する。そこへ加わる嵐の如き大気流。ネマトーダが――
暗闇に紛れていてもなお、その威容が掻き消されることはない。圧倒的な存在感は、行き着く間もなく迫りくる。もはやこれまでか。
空気を揺るがす咆哮が、分厚い雲を切り裂いた。
ネマトーダの前腕が、リヴァイアサンの顔面に叩きつけられる。
悲鳴と咆哮。波間に舞い降りたネマトーダは、異様に発達した両腕でリヴァイアサンを捩じ上げた。虚ろに開いた大渦流の口から、大粒の泡が漏れ出す。
状況が理解できなかった。
すっかり雲の晴れてしまった星空に響く、極大の咆哮。
ネマトーダはリヴァイアサンを投げ飛ばし、海面に叩きつける。巻き上がる水しぶきを切り裂いて、鋭い爪で喉笛を引き裂いた。赤黒い血潮が海洋に流れ込み、水面を異様に染める。
あの時と同じ眼光が、ギロリとこちらを睨めつけた。
来る。
避けそうなほどに大きく開かれた口腔から、淡い光が漏れ出す。ブレスだ。しかしマトモな防御をすることもできず、ただただそれを甘受するしかない。
夜の闇を、白いブレスが貫いた。
しかしその先にあったのは、トフンガーではなくレヴィアタンの姿。翼の一枚を貫かれ、拘束を緩め悲鳴をあげる。
……ようやくわかった。
ネマトーダは、縄張りに踏み込む竜の存在を許さない。しかし凡百の竜であれば、境界を犯さない限り気にも留めないのだ。だが、災魔は違う。
それは知覚範囲に存在するだけで脅威足り得るからだ。トルネードクラスが災魔と渡り合えるように、災魔もまた災魔を討つことができるのだから。
トフンガーから離れたレヴィアタンに向かって歩き出すネマトーダ。組み合う二体の災魔。レヴィアタンの牙がネマトーダの肩に突き刺さる。更に長い体が胴体を締め上げ始めた。
援護しなければ。二人はレヴィアタンの背中に拳を叩きつけた。緩んだ拘束からネマトーダが抜け出し、絡みつく巨体を投げ飛ばす。大渦流が宙を舞った。
構え。上空より飛来した巨体を、トフンガーの拳が貫く。勢いに勢いをぶつけることで硬い表皮を貫いたのだ。右腕ごと海面に叩きつけ、悶た巨体を踏みつける。ぐったりとした頭を脇に抱え、全身の筋繊維とシリンダーをフル稼働させて首の骨を粉砕した。
脅威を排したトフンガーがネマトーダと向き合う。最悪の場合を想定したが、しかし災魔の表情はどこか穏やかに映った。表情筋など封じ込めてしまうであろう硬い皮膚は、しかし意外なほどに雄弁である。
振り返るネマトーダ。もう会うこともないだろう。
しかし、次の脅威はあまりにも早く訪れた。
西の空より迫り来る巨大な飛行物体。ロード・エルカーミラだ。それはネマトーダに艦首を叩きつけ、肩口の傷にアームを突き入れた。肉を引き裂く不愉快な音が辺りに響き渡る。
悲鳴を上げるネマトーダ。援護に入る間もなく、エルカーミラは目的を達したらしい。傷口から、脈打つ物体――ネマトーダの心臓を引き出した。
闇夜に紛れるエルカーミラ。倒れ込んだネマトーダに、ガリア達は駆け寄らずにいられなかった。
ほんの僅かな共闘。しかしそれでも、感じ得るものがあったのだ。
消えゆく命の輝きに、そっと寄り添う。普通の生物や魔物であれば心臓をえぐり出されればすぐに死んでしまうが、災魔は作りが違うようだ。あるいは膨大な残存魔力がそうさせているのだろうか。どちらにせよ、奇跡はほんの一瞬しか起きない。
ネマトーダの瞳が、徐々に光を失っていく。濁った瞳孔。絶える呼気。
その日、三体の災魔の息の根が絶たれた。
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