第3話 猫がいうには
「君は優しいですねぇ」
「馬鹿にしてんのか」
のんびりとした声で他人事のようにそういった黒猫に、むきになってしまう。
……よく見たらこいつ、結構太ってないか?
「いやいや、優しいですよ。その彼女さんのことも、幼なじみさんのことも、嫌って、憎んで、顔も見たくない。それが普通でしょう」
「そう思えないから困ってるんだろ。
「どうしてですか?」
「いや、気まずくない?フラれたのにさ」
黒猫はキョトンとした顔をしている。表情がわからないのに、不思議と雰囲気があるのはなぜだろう。
前足を使って毛繕いをしようとしていたとき、その猫の首に青い首輪が見えた。黒い毛に、深い青だから今まで気付かなかったが、どう考えても人の手で付けられたものだろう。
「お前、飼い猫なのか?」
「……昔の話です。今は正真正銘の野良ですよ」
「逃げたのか?」
「違います。死んだんですよ。私を飼っていた人は」
あたたかく優しい、懐かしむような響きを含んだ声に、背中がすぅっと冷たくなった。
「生まれた頃のことは、正直ほとんど覚えていませんが、多分野良だったのでしょう。最初の冬が来る前に、その人に出会いました」
黒猫がいうには、その人は病気の男性だったという。
「今思えば、私を拾ったとき既に、余命幾ばくもなかったのだと思います」
「そう……なのか。いくつくらいの人だったんだ?」
聞いてから、聞かない方がよかったかもしれないと後悔した。けれど猫は、あまり気にしていないようだった。
「とっくに成人していたように思います。子どもがいてもおかしくない歳だったかもしれません。身体が弱く、働いてはいませんでしたが、ときどき姉だという女性が来て、いろいろと世話をやいていました」
「……どれくらい、その人と暮らしてたんだ?」
この質問に、猫は初めて少し迷った様子を見せた。今度こそ、聞かない方がよかったかもしれない。
「どれくらい、だったんでしょうか」
そういって考えている間、俺は黙っているしかなかった。猫は、首を少し動かしながら、記憶を辿っているように見えた。
やがてまた、ゆっくりと口を開く。
「1年、たっていたかどうかわかりません。でもきっとそれくらいでしょう。最後の方は、日に日に彼の具合が悪くなっていくのがわかりました。そして、いつも私に謝っていました。『ごめんな』と」
そこまでいうと、俺の方に向きなおり、小さく笑った。「どうして、君がそんな顔するんです」と。
自分の輪郭がここにあると、それまで忘れていた。
「え、俺どんな顔してた?」
「泣きそう、というか泣いている人を哀れんでいるような」
「うそ、ごめん。……ていうか、そんな話、させてごめん」
「……どうして、人間は謝るんでしょうかね、彼も君も。私が勝手に話しているのですから、気にする必要はありません」
また「ごめん」といいそうになって、あわてて黙った。
「でも、私はそんなあの人が好きでした。彼は、死を前にしながら、とても幸せそうに生きていた」
「……幸せそう?」
「ええ、とても。本を読んだり、音楽を聞いたり。ときどき、お世話になった人に、手紙なんかも書いていたみたいです。晴れた日は、庭に座って何時間も私を撫でていたりもしました。……直接聞いたわけではありませんが、混乱や絶望の類いは、もうとっくに
乗り越えていたんだと思います」
それって、乗り越えられるものなんだろうか。俺にはわからない。死なんて、今の俺には遠すぎる気がする。
「私が喋れるようになったのは、彼が死んでからです。だから、彼の意志を受け継いだようなものかもしれませんね」
「その人とは話せなかったのか」
「……話せたとしても、何をいえたでしょうか。私には、彼から学んだことが多すぎる。彼の前で、偉そうに語れることなどなかった」
「そうか」
「でも、お礼くらいは、いえたかもしれませんね」
「……そうかもな」
ああ俺、何やってるんだろ。
彼女に振られたこと、電車に乗り遅れたこと、今日起こったことが、頭の中を通り過ぎた。なんだかすごく、すごく、小さなことに思えた。それでもその小さなことに、予想外に傷付いている自分が、情けなかった。
「太陽が沈んで夜が来る。目が覚めれば朝が来る。そうやって巡る日々が自分にあることが、彼にとっては何より大切なことでした。君にとって、今日は最悪な日かもしれません。その最悪が、明日も続くかもしれません。けれど、そうやって一日一日、たくさん苦しんで、楽しんでください。いつか、何より大切なことに、気付ける日が、きっと来ます」
猫の声は、心地よかった。
俺は、無言で頷いた。
隣で猫が小さく笑った気がした。
それからは、一人と一匹、風に揺られながら、駅を眺めていた。寒かったけど、それはあまり気にならなかった。
「さて、そろそろ俺は行くよ。電車の時間だ」
気づいたときには、もう1時間近くが経とうとしていた。
「お別れですか。それもまた、縁ですから、仕方ありませんね」
何となくだけど、また会おう、とは思えなかった。これはちょっとした寄り道で、明日から、お互い自分の生きる場所があると。相手も同じように思っているようだった。
「最後にひとつ。もし電車に乗り遅れそうになったら、全速力で走ってください。例え駄目でも、そんなのは駄目だったときに考えればいい」
「わかってるよ。少なくとも今日、走って駄目で、お前に会えた。だから、あんま後悔してないよ」
「それからもうひとつ」
「……ひとつじゃなかったのかよ」
「……これは私の独り言です。君を見ていてくれる人は案外近くにいたりしますよ。自分のことが情けないときもね」
そういって、猫は意味深に笑った。
「?」
「いえ、一般論です」
なんだか少し気になった。
「なぁ、俺もひとつ聞いていいか?」
「どうぞ」
「お前、名前は?」
「名前、ですか。私を飼っていた人は、私のことをアトラス、と呼びました。それが名前ですかね」
アトラス、なんだか猫らしくないな。
「今、猫らしくないと思ったでしょう」
「思ってない」
「……」
「思ってない」
「……まぁ、いいでしょう」
思ったけど、同時に、こいつにピッタリの名前にも思った。根拠はよくわからなかったけど。
「じゃあな、アトラス」
「ええ、お元気で」
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