水曜日9 天獄と地獄
《おはようございます。9:23をお伝えします。社畜の皆さま。お疲れ様でございます》
《今日も不幸をいっぱい収穫して気力をつけよう》
朝っぱらこんなクソツイートをして、ベッドから身を起こした。
本当にどうしようもないクソ野郎だな。と、自虐しながら、いつものお薬を飲もうとテーブルの上にある袋の中からコンサータ錠のシートを取り出したが、全て抜け殻になっていた。愕然。昨日の午前中に予約していた病院をすっぽかしていたことに気づく。昨日のマジックショーの日程とダブっていたにも関わらず、病院の予約日の変更を忘れていたのだ。ああ、どうしよう! コンサータがもうない! どうしようあれがないとわたしは何もできないどうしようどうしようどうしよう!
と、パニクってしまったが、すぐに落ち着いて《ま、どうでもいいや》と、思った。そして、布団に入って眠ろうとした。
が、やっぱりどうでも良くないような気がして、病院に電話して今日の午後に予約を取った。中年女性の声で「今週は予約で埋まっております。予約外の診療で良ければ可能ですが。だいぶお待たせることになります」と、言われた。どうせやることもないので「それでも全然構いません」と、応えた。っていうか新年早々に精神を病んでるサラリーマンが世の中にたくさんいるんだな。おめでたいことだ。ざまあみやがれ。こんな世界、さっさと滅びてしまえ。と、ほくそ笑みながら、そういえばわたしも大学卒業後にサラリーマンになったわけだけれど後輩(っていうか、研修中に退社)の新人さんが、軍隊研修みたいなのを受けている最中にスーツとシャツを脱ぎ捨てて、半裸になって叫びながら外に出て行ったという話を後輩くんから聞いて、ああ、わたしもこんなクソ会社はすぐ辞めようと思って、その翌日にフロアマネージャーに退職届けを出したが、人手がどうとかなんとか色々言いくるめられて実際に辞めるまで3ヶ月後もかかってしまったけれども、なんとか地獄から抜け出すことができた。めでたしめでたし。
で。その後は一年間、実家で引きこもってニート生活して、最初は天国のような自由を謳歌していたが、両親と色々揉めて実家を出て行くことになって、なんとか警備員の仕事にありついて住む場所も見つかった。こうしてわたしは無事に自立することに成功した。っていうか、ぼくもやればできるじゃん。と、その時は思った。で、新しい環境で社会人の真似事をしながら、なんとか生きながらえていたのだけれど、ある日の朝、顔を洗おうと鏡を見た時に自分がオッサンに変わりつつあることに突然気づいたのだ。なんて醜い顔をしてるんだろう。と、恐怖を感じて、早くなんとかしなければならないと思った。わたしは中学生の頃から夢見ていたことを決行することにした。
去勢手術して、女性ホルモンを身体に入れて綺麗な女の子になる!
性同一性障害の診断書がなくても去勢手術をしてくれる病院をネットで探してメールしたらあっさりOKの返事が来た。そこは美容外科のクリニックだった。やってみればなんでも楽勝なんだなと思った。そして会社に有給の請求をして、去勢手術をした。日帰り手術。二日後には普通に仕事ができるというので、普通に出勤して棒振り警備をしていたが、その最中に股間がヌルッとするのを感じて下を見ると、赤い液体がポタポタ地面に落ちていた。わたしは血で染まった紺色のズボンの股間を制帽で隠しながら上司にどうしようもないほど気分が悪いと言って早退させてもらった。その後も部屋の布団に大の字になって数日間、我慢していたが出血が止まらず、いつのまにか股間が狸のキンタマみたいに膨れ上がっていた。さすがにもうダメだと観念して、医者に緊急の電話をかけて翌日大掛かりな再手術をすることになり、そのまま一ヶ月も会社を休んでしまった。会社から電話がかかって来て、調子はどうだとか社交辞令的に労われた後で「出社時に診断書を出して欲しい」と言われて、ギクッとした。去勢手術のことが会社にばれたらヤバイと思って去勢手術を担当した美容外科医に相談して内臓疾患だかなんだかとテキトーな診断名を記載してもらってそれを会社に提出することとした。おかげで会社には自分のキンタマを取ったことがバレずに済んだ。
で、体調も復活。仕事復帰して、最大のピンチを切り抜けた。去勢もして生まれ変わったようなウキウキ気分で警備の仕事を続けていた。それからしばらく経って、おっさんだらけの現場に若くて背の高い男の子が入隊してきた。一目惚れだった。わたしはその子のことが好きになってしまった。
その時のわたしは去勢して女性ホルモンを入れていることで自信を取り戻し、男性を好きになることに対して罪悪感を感じなくなっていた。半年後。わたしが好きになってしまったその男の子が退職することになった。わたしは彼を引き止めようとした。「もう辞めるの? っていうか、やめんなよ、君がいなくなるとジジイばかりでつまんなくなるじゃん」とわたしが彼に言うと、他のおっさんたちとウマが合わずやってられなくなったと言った。で、その時に、ついポロッと告白してしまった。後にも先にも人生で他者に対して愛を表明するのはこれが初めてだった。
「あのさあ、こんなこと言うとびっくりすると思うんだけど、ぼくはきみのことが好きだったんだ。愛してた」
彼は困った顔をして「でも、オレ男だから......」と言った。
わたしは「そうだよね。ははは。変なこと言ってごめんな」
それであっさり終わった。
そういうわけで、わたしもここで仕事をする意味を失ったような気がして、彼が退職して1ヶ月後にわたしも警備員を辞めた。その時にわたしは自分から「オカマバーで働くことにしたので仕事を辞めます」と、隊長に伝えた。辞めてすぐに歌舞伎町にあるオカマバーで仕事をはじめたが、どうにも雰囲気に馴染めなかった。先輩後輩の上下関係の厳しさや、お会計の金勘定がうまくできなくて、接客の時にもつい「ぼく」という一人称を使って大御所の先輩に注意されり、ウンザリだった。何が大御所だよクソが。と、今だったら思えるのだけれど、そのときのわたしは右も左も分からない迷える子羊のように精神的に脆く、すぐに泣いていた。店に入って一週間後、自分にとって決定的な出来事が起こった。新人警察官の集団が店にやってきて、わたしもその席に着いた。そして、しばらくして隣に座っていた新人警官にいきなりキスされて口に舌を突っ込まれたのだ。わたしはパニックになってしまった。それまで一度もキスなんてしたことがなかった。キスというのはせいぜい唇をくっつける程度のことだと思ってた。なのに、他人の男の舌が自分の口の中に入ってきて、引っ掻き回されて、身体を真っ二つに引き裂かれるような恐怖と違和感を覚えて、接客中だったにも関わらず、わたしは無言で席を立って、バックヤードで泣きじゃくってしまった。
翌日、マネージャーに辞めさせてくださいと頼んだ。そして、店長と話し合うことになった。「もう少しがんばれない?」と言われたが「ごめんなさい。もう、自分が何なのかよく分からないんです」と伝えると、店の規定で、1ヶ月以内で退職した場合は、給料が出ないということを説明されて、「ほんとうにやめていいのか?」 と、再度聞かれる。わたしはニコニコしながら「はい、辞めます」と大きな声で伝えた。「分かった。でも、もしその気になったらいつでも戻ってきていい」と、席を立つ時に店長に言われた。「きみはメンタルが弱すぎるんだよ。心を強く持って欲しい」と言われた。うるせーバカ。と、思って、わたしは普段着に着替えずにキラキラした露出の激しいドレス姿とロングのウィッグを付けたまま店を出た。アルタ前にある駅前の窪んだ空間で刺青をしたニイちゃんに「うちで働かない?」と声をかけられて「すみません。ぼく男なんです」と言ってウイッグを脱ぎ捨てて、そのまま駅に向かった。電車に乗ってる時にまわりの人たちが興味本位でわたしのことをチラチラ見ていた。頭のおかしい人を見るかのように。
その後のわたしは駅前の道端で女装をして、子供の頃に覚えた手品などをして小銭稼ぎなどをした。まさに河原乞食。これがわたしが大道芸人になるきっかけだった。
しかし、結局は家賃を払うこともできなくなって、両親に泣きついて実家に戻ることになった。実家に戻ってからは、性懲りも無く警備会社に就職して、何度か警備会社を転々としながら、ようやく落ち着ける職場を見つけてそこで五年間勤めた。
休日は女装して手品をして稼ぎ、平日は男として警備員の役割を果たす二重生活。楽しくもあり、苦痛でもあった。自分がどっちの性別なのかますます分からなくなっていった。
結局、そんな二重生活も破綻して、肉体も精神もボロ切れのようになって、今ではこれこのように精神障害手帳を持った病人として、毎月精神科医に診てもらっているというわけだ。
ああ。ごめんなさい。日記を書くつもりが、ただの自分語りになってしまった。
今日は病院に行って帰って来るだけの一日だったので、たいして書くことがなくて、テキトーなことを書いてしまった。そういうわけで今書き散らした自分語りはきっと嘘にまみれている。自分が美しく見えるように加工してしまっている部分がある。ほんとうのことを客観的に書き残そうとしても、醜い股間にイチジクの葉を巻きつけるように、汚れた自分を綺麗に見せかけようとしてしまう。だから、これはフィクションだ。この日記は、『わたし』という主人公にとって都合の良いファンタジーなのだ。そして、主人公のわたしは、そのファンタジーを事実だと信じてしまっている。どうしたらわたしはこの幻想から抜け出して現実の世界に抜け出すことができるのだろう?
もう、病院に行く時間だ。わたしは歯を磨いて病院に行く準備をしている。先月からつけ始めたこの日記をCD-Rにコピーする。この日記は、医者に見てもらおうと思って書き始めたものだった。わたしの性別違和についての状況を明確に伝えるために自己の観察記録として残していたのだ。
そして、なぜわたしがこの恥ずかしい記録を、大勢が見られるようなネットサイトにupしているかというと、書き続けるためのモチベーションを保つためだった。
わたしは昔から異常なほど飽きっぽい。何か理由がないと一つの物事を続けられない。というか、こうやって強引に動機をつけても、その動機にすらウンザリして途中で投げだしてしまう。
けれど、最近ツイッターやLINEでわたしの日記を読みたいと励ましてくれる人たちがいるおかげで、なんとか書き通すことができた。
家を出る。駅に着く。電車に乗る。一度だけ乗り換える。現地の駅に着く。病院のビルの階段を登る。扉を開く。暖かさを感じてホッとする。受け付けて診察券、国民健康保険証、自立支援医療受給者証を提出する。緑6番の札をもらう。緑の札は予約外の患者用。
確かに今日は人が多かった。いつもは2、3人なのに、今日は10人くらいいた。待合室にいる人はみんな普通の人だ。はたから見ると精神を病んでるとは思えない。男性と女性が半々くらいで、だいだい30代から50代までの人たち。カウンセリングを受ける人、診察を受ける人、注射を打ってもらう人。みんなそれぞれ違う部屋に入って、そして出て来て受け付けで会計を済ませる。わたしは1時間くらい経ってから呼び出された。
診察室2番に入る。挨拶をする。レキソタンを一日3錠に増やしてから肩の痛みが消失したことを話して、そしてCD-Rをカバンから出した。
「これ、先月から書いてる日記です。その日の細かい状況を書きました。自分の性別違和にかんしても。ただ、5万字くらいあって」
「え、そんなに?」と、先生が笑いながらいう。
「すみません。時間があるときでいいので。口で説明するよりはこっちの方がいいとおもって。弟と五年ぶりに再会したことも書いてあります」
「その時はどんな気持ちだった?」
「わたし弟と小さい頃から仲が悪かったんです。いつもいがみ合ってました。で、全然会ってなくて。わたしも会いたくなかったし、弟には子供もいて。それに弟はわたしが去勢して女性ホルモン入れてることも知らないんです。でも、弟が部屋に来て、わたしのこと心配してくれて。そのあとで、布団の中でずっと泣きじゃくりました」
「その時、何が悲しかったの?」
「自分が弟みたいに家庭を持つ大人にはなれないって、今更気づいて。自分が憎んでいた弟は、もしかしたら自分が一番理想としていた姿だったのかもしれないって思って。今の自分は絶対に手に入れられない姿を彼が手にしていることに嫉妬していたことに気づいて。でも、そんな弟のことを愛していることにも気づいて。それが悲しかったんです」
先生が優しい顔をしていた。この精神科医の先生が人間らしく見えたのは、今日が初めてだった。先生は「そのことも全部かいてあるの?」「はい、出来るだけ細かく」「分かりました。これは読ませてもらいます」
「あ、あともう一つだけ」
「なに?」
「サインバルタ飲んでるけど効いてるのか効いてないのか分かんないんですけど......」
「飲んでください」と、笑いながら即答されて「すみません」とわたしも笑った。
そして、帰り際に先生が言った。「クイーンって知ってる?」「名前だけは」「多分知ってるはず。ゲイの話で、ボヘミアンラプソディーって映画。今すごい流行ってて観るといいよ」と勧めてくれた。流行っていると聞くと見たくなくなる性分なのだけれど、「分かりました。今度観てみます」と、応えた。わたしは先生にいつもありがとうございます。と、お礼を言って診察室を出る。いつものように受付で診察料金を払って処方箋を受け取り、薬局で薬を受け取って財布からお金を出して、二千円の出費は痛いなあ。と、思いながら、目の前に見える駅まで歩く。駅の階段の右端に、いつも見かけるホームレスのおばあちゃんが丸くなって座っている。わたしは自分の弱さと自分の恵まれた環境を呪ったフリをしながら、ホームレスのおばあちゃんに背を向けて、反対側にあるエスカレーターで、上にある改札口に登っていった。
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