火曜日8 手品のタネとわたしの仕組み

 電話の呼び出し音で目を覚ます。クソだるいiPhoneの黒いディスプレイの中に0429から始まる番号が埋まっている。寝ぼけているのを自覚しながら必死で声を整えて「はい。アリス(注:わたしの芸名)でございます」と、電話に出る。相手は1/19にマジックパフォーマンスを依頼してくれたお客さんだった。


「あ、いつも大変お世話になっております」


 と、わたしはアワアワしながらiPhoneを耳にベタッと押し付けながらベッドから身を起こしてリビングにフラつきながら歩いてグチャグチャなテーブルの上からメモ用紙とペンを探すのだけれど見つからずチクショウ!


 仕方がないので床に置いてある手品用のガマ口バッグの中から油性のシャーピーペンを取り出して、近くに落ちていた空の処方薬の袋の裏面に言われたことをメモする。


 入り時間は午後5:30。控え室。食事用意あり。CD使用可能。ワイヤレスのハンドマイクあり。


「はい。承知いたしました。それでは当日はどうぞよろしくお願い致します」


 わたしは薄汚れた冷蔵庫に向かってヘコヘコお辞儀しながら電話を切った。iPhoneは9:47を示している。電話の応対だけで疲れ切ってしまった。今日は夕方にマジックのショーとテーブルホッピング(注:各テーブルを回って目の前でマジックすること)をやらなければならないのに、もうヘトヘトになってしまった。フローリングの床にへたれこむ。冷たい感じ。シャツとトランクスのだらしない格好。剥き出しの腕と脚の肌は血が通っていないような青白い色。筋肉はほとんどなく、ぶよぶよしている。とにかく寒い。トイレに行きたい。冷蔵庫の淵にもたれかかりながら立ち上がる。トイレの前の右側にある黄ばんだ洗面台にヒビが入っているのを視認しながらドアノブを引いてトイレに入って便座に座る。フォークナーの響きと怒りという小説でクェンティン・コンプソンという登場人物がトイレの便器かなんかを白鳥と描写していたことを思い出しながら、しかし、黒ずんだ便器の中の汚れを見て《こんなんスワンじゃねーよ。醜いガチョウだ。バカ》、穢れたガチョウに座りながら小便をする。下半身にぶら下がっている短く小さな醜い棒の先っちょから黄色い液体がジョロジョロ流れ出る。先っちょが暴れないように、人差し指で押さえつけながら。

 トイレットペーパーで棒の先端に残っている黄色い水滴を軽く拭いて便器の底へ落っことす。銀色の9をひく。黄色い水とそれを含んだシワクチャの紙が暗いトンネルに吸い込まれて消えていく。


 幼い頃のわたしはトイレの流れる音に恐怖を抱いていた。学校のトイレでクラスメイトに気づかれないように(だって自分の身体からこんなに腐った物体が詰まっていることをしられたくなかったから)、ウンコをしたあと水を流すのが怖くて動けなくなってしまった。誰かが来る前に早くここを出なくちゃいけない。結局、どうしたらいいか分からずにウンコを流さずに男子トイレを逃げ出した。そのすぐあとで誰かがトイレで「ウンコだー!」と、騒いでいる。わたしは耳をふさぐ。ぼくじゃない。ぼくじゃない。あんな汚いものがぼくの身体に入っているわけはないんだ。


 そして成人した今でも他人の家でウンコをするのが嫌で仕方がない。だから出かける前には食事を控える。


 トイレを出て手を洗って口をゆすぐ。


 テーブルに散らばっている錠剤シートに一粒だけ残っているコンサータ。サインバルタとレキソタンはサボって飲んでない時があったので結構余っている。ちゃんと飲まないと。パキパキ錠剤を抜いて口に放り込む。冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出す。直飲みする。甘いウイスキーが飲みたい。


 布団に潜る。今日の宴会の開始時間は19:00で、まだ全然余裕でヘーキヘーキ。だから布団でぬくぬくする。母が玄関を隔てた向こう側のリビングからラップに包まれたサンドイッチの皿とコーヒーを持って来てくれた。『働かざる者食うべからず』という聖書の言葉が頭をよぎる。うるせーバカ。と、思いながら「ありがとう。ごめん」とサンドイッチとコーヒーを受け取って、床に置いてストーブのスイッチを押す。火がつくまでちょっと時間がかかるので、布団に潜ってダンゴムシみたいに丸くなる。瞼がとろけるように下がっていく。このうるさい世界を全て無視して透明な存在になりたい。

 ストーブがガタガタ騒いでボッという音を響かせる。わたしはベッドの布団から脚を出す。寒い。嫌だ。布団から出たくない。と、思った。が、コーヒーだけは飲んでおきたい。掛け布団を蹴り飛ばし、やっと起き上がる。火のついたストーブの前に膝を立ててしゃがみ込む。剥き出しの腕と脛に火が直接当たって熱くて痛い。といって、ちょっと離れると寒くて冷たい。上着を羽織ればいいのだろうけれど、羽織るのが面倒くさい。諦めて中途半端な位置で、中途半端な寒さを感じながら床にあぐらをかいてコーヒーを喉に流し込んでいく。とても苦い。でも、それが心臓を動かす動力になってくれる。サンドイッチは食べずにラップがかかった状態のまま放置する。帰って来たら食べよう。


 昨日の夜に充電していたBOSEのポータブルスピーカーをコンセントから外して、キャリーバッグに強引に押し込む。ベットのある部屋の隅っこにあるプラスチックの下着ケースからストッキングと黒いトランクスと黒いブラジャーを出す。ブラジャーはやっぱりつけたくない。そう思ってケースに戻した。残りの下着は、テーブルの下にあるキャリーバッグの上に放り投げた。ナイスな感じ。


 出かけるまで全然時間あるのでギリギリまで眠ることにする。一旦ストーブを消して布団に潜る。コンサータは覚醒作用があるので眠くならないはずなのだけれど、一緒に飲んでいるレキソタン(筋弛緩作用がある)のせいだろうか? ボーッとする。

 ボーッとしながらも眠ることもできず、ツイッターでクソツイートをしたりファンタジーライフオンライン(注:スマホアプリの課金ゲーム)の日課をこなして、3時くらいまで布団の中でゴロゴロする。


 シャワーを浴びる。ムダ毛の処理。身体の洗浄。耳の裏。おへその中まで。風呂場を出る。ドライヤー。乾くのが遅い。面倒くさい。めんどうくさい。メンドクサイ。めんどい。今日のわたしはやりたいことをやりぬけるだろうか。いつも家を出る前は、やってやる。ぶちかましてやる。と、思っているのだけれど、本番ではいい子ちゃんで無難な演技をしてしまう。今日もきっとそうなってしまう。


 歯を磨いている最中にノックの音。こちら側の世界に母が顔を出す。

「送って行こうか?」母がいう。

「ひょうひてくれるとひゃすかりゅ」そうしてくれると助かる。あと五分待って。ありがとう。


 イソジンで口をゆすぐ。水を口に含んでクチュクチュして、鏡をみて歯を「イー」っとする。ところどころ白いカケラがついてる。歯石。わたしは唾液が出やすい体質らしく歯石がつきやすい。と、どこの歯医者に行ってもよくいわれる。


 すべての準備が整う。忘れ物はないか。わたしは度々iPhoneを忘れる。ポケットを触る。四角い塊がちゃんと入っている。あと、財布。OK。っていうか、そうだ。一番大切な衣装を入れ忘れていた。真っ黒な魔女のようなゴシック調のワンピース。室内の物干し竿にぶら下がったままになっていた。あぶないあぶない。キャリーを開けて詰め込むのが面倒だったのでそのまま羽織る。


 母に準備が出来たことを伝えて車に乗る。車が自宅の庭から動き出す。窓の外から自分の姿が見えてしまうことが怖かった。

 ちんたら歩く婆さん。ウォーキングをするおばさん。犬の散歩をする頭の禿げた爺さん。黒いソックスの短いスカート姿の女子高生。背が高くて肩幅の広い白い靴下を履いた男子高校生。邪魔だ。全員、消えろ。


 駅付近の大通りの電柱付近に、12月何日だかに事故があったらしく目撃した人は署に連絡してくださいと書いてある看板が視界に入る。その立て看板の近くの歩道に白だか黄色だかの粉が撒いてあった。そこで事故った人は死んでこの世界から消えてしまったのだろうか?


 駅の真ん前にある酒屋のあたりで「お母さんごめん、ここで降ろして」とわたしが後部座席から声をかける。車が止まる。重たいキャリーバッグを座席から引きずり出して、外へ出る。「ありがとう。助かった」「きをつけてね」「うん」そして、母の運転する車が走って消えるのを見届けてから、キャリーバッグをゴロゴロ引いて酒屋に入って380円の日本酒を買った。レジにはいつものお爺さん。

 日本酒の瓶の入ったレジ袋を左腕に引っ掛けて駅の方へ。エスカレーターを。改札を。エレベータに乗って鏡の中の自分を。わたしは綺麗だ。ぼくは醜い。反発する二つの感情に嫌なものを感じて鏡から目をそらし、背を向ける。扉が開く。青いベンチに座り、日本酒の瓶のキャップを開ける。白いビニールに包まれた状態のまま日本酒を口に含む。財布からレキソタン (注:抗不安剤)を取り出して、お酒と一緒に飲んだ。飲みすぎると演技に支障が出るので程々にして、飲むのをやめる。


 電車がやってくる。乗る。隣の駅で降りる。自販機横で久喜行きの電車を待つ。中年の男性が自販機の下を覗き込んで、「おかね、おかねー」と言っている。周りの男子高校生やスーツ姿のサラリーマンは、そこに誰も存在していないフリをするかのように目を逸らしている。わたしも目をそらせたかった。でも、目をそらせる自分に罪悪感を感じてしまうのは嫌だった。だから、その人が土下座するようにお尻を突き出して自販機を除き込む様子をジッと見続けた。中年の男性が顔をあげる。わたしと目があった。彼が小声で何か言った気がするけれど、聞き取れなかった。

 久喜行きの電車がホームにやってくる。わたしはその中年男性から目をそらして、背後にやってきた久喜行きの電車に乗り込む。心臓がドロドロするような感じがして、日本酒を煽った。気持ち良かった。


 久喜で降りてJR線に。蓮田まで。降りてタクシーに乗り、現地のお店に。うなぎ屋さん。毎年、先方のお客さんはここで新年会をする。わたしを呼んでくれる。もう四年くらいわたしを使ってくれている。いつも帰りに美味しいうな重をお土産にくれる。この会社のみなさんは、驚くほど好奇心が旺盛で、いつも手品の仕掛けがどうなっているのか本気で解こうとする。

 最初の頃は手品師として対応に悩んでしまうこともあったけれど、今ではむしろそういう風に本気でタネを考え込んでいる姿が面白くてやってて楽しい。笑ってしまう。みんな電設技術者だから職業柄なのか、仕組みを知らずにはいられないのだ。この不思議な現象の仕組みを知りたいのだ。分かる。だって、わたしも自分という現象の仕組みを知りたいから。わたしはなぜここに存在している意味があるのか。わたしが生きて死ぬ意味を知りたい。そんな、絶対知り得ないことを分かっていながら真実を掴みたくて仕方がない。

 けれど、手品のタネは無数にある。同じ現象でも、その仕掛けは無数にある。真実は決して一つではない。わたしの存在の意味もまた無数に存在しているのかもしれない。


 タクシーを降りる。

 お店の自動ドアが開く。中はとってもあったかい。ホッとする。


「すみません」と言って、お店の人を呼ぶ。見知った顔。いつもの女中さん。「いつもすみません。手品師のアリスです。今日はよろしくお願いします」

 そして、風情のある茶室が控え室に案内してもらう。お店の人がわざわざお茶を用意してくれた。お茶をいただきながら化粧をして日本酒をちょっとだけ飲む。手鏡を見ると、ほんのりと頬が赤い。それを隠すためにファンデーションを濃いめに載せる。クラウンがつけるような真っ赤な口紅を塗りたくる。化粧はこれだけ。付けまつ毛は苦手だから、最近はつけない。マスカラも匂いが嫌いなのでつけない。


 ポケットからフリスクをガリガリかじって、お酒の匂いをごまかす。


 準備ができた。


 2階の宴会場へ。司会者の社員さんにアンプを渡してステージにおいてもらう。ワイヤレスのハンドマイクを借りる。宴会場の両扉を開けてもらって、司会者の人がわたしを紹介してくれて拍手をもらい、ステージまで歩く。ステージに立つのは気持ちいい。やっぱり、今日はいつもと違うわたしの本来のやりたいことをやらせてもらおう。


 自分のやりたい演技ができたかどうかはここには書かない。

 でも、ほんとうに楽しかった。

 みんな愛してる。愛してる。

 好き好き大好き。

 超愛してる。


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