土曜日29 バタイユとオナニー

 インターフォンの音。ぼやけた視界の中で世界が存在しているのをなんとなく感じながらTシャツとトランクス姿のまま玄関まで歩いてドアを開けると、郵便局のお兄さんがニコニコしながら立っている。Amazonに注文していた本。ジョルジュ・バタイユの眼球譚。この前、ツイッターでわたしに告白してくれたバイ(両性愛者)の男の子が、この本が面白いと教えてくれたのでAmazonでポチって購入したのだ。


 昨日、その子と夜中にメッセでやりとりした。もちろん、友人として。お互いに孤独な、透明な壁で隔たれたトモダチとして。


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「SNSで疲れてるなら気紛れになんか本読むといいんじゃない?」と彼がいう。


「何がいいかな?」とわたしがいう。


「バタイユの眼球譚。めっちゃエロい」


「じゃあ買うわ」


「買うとか言うとさ、買ってくれないと辛いから。今の俺は誰も信じれねぇからな。失礼なやつでごめんな」


 もしかしたら、わたしが彼をそんな風にしてしまったかもしれない。と、少しだけ思って、違う。わたしのせいじゃない。と、思い直した。わたしのせいだと思い込むことで、わたしは彼の心を支配したつもりになっているのだ。


「なんか電子書籍だと新訳しかないんだけど、これ大丈夫? タイトルが目玉の話って。パンチがきいてないんだけど」


「僕が持ってるのは生田耕作訳だね」


「そっちのバージョンの方が良さそうだな。電子書籍ないからアマゾンでポチるわ。読み通せるか分からないけど。とりあえず今ポチった」


 そして、唐突に彼が話しを切り出す。


「昨日と今日で本屋に行ったり、家庭持ちのバイの方と電話したんだ。そうしたら、大人になれた気がしたんだ。悠々と、よるとあさの歌(超エロいボーイズラブ漫画。わたしが薦めた)を買ったよ。すごく良い声で『カバーは結構です』って言えたよ」


「ハハハハハ! すごい! わたしは電子書籍で買ったからさ。ちょっとさっきの話に戻るんだけどさ、君に相談相手ができて良かったとは思うんだけど、その人変な人じゃない? 大丈夫?」


「45歳でしたね。僕と同じ学年の息子がいる」


「その人の家族はみんな知ってるのかな? 本人がバイセクシャルだってこと」


「教えてはいないみたい。男性が好きってより、気持ちよくなるのも、してあげるのも好きだから、男性の方がどちらかと言えば良い。そんな感じらしい」


「余計なお世話かもだけど、妙なことに巻き込まれないように、それだけは気をつけてね」


「それはしないね。僕の需要とは違うね快感を求めてるわけじゃないから」


「うん。なら良かった。きみはまだ若いから、ちょっと大丈夫かなって。でも、大丈夫そうだね」


「僕はそんじょそこらとは出来が違う」


「だよなw」


「くだらない事で時間をとってしまって済まないね。本を読んで寝るよ。研究室脱出だよ。やったぜ! じゃーね」


「おお、こちらこそごめん。こんな時間までおつかれ。眼球譚読んだら、っていうかわたしが読めたら話そうぜ! また!」


「ありがとう。でも、ヤバイんよ。最近、裏切られすぎて、どうしても人間を信用できない。眼球譚読んでくれたなら、僕はとびきり喜ぶから。冷めた事言っちゃってごめんね。またね!」


「おう!」


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 わたしはこの18歳の男の子に告白され、わたしはきみを愛せないと伝え、きっと、この言葉は彼を傷つけた。

 わたしはこのまま彼とメッセージのやり取りをしていいのだろうか。彼の心の傷を大きく広げてしまうことになるんじゃないだろうか。本当は完全に彼を突き放すべきなんじゃないか。でも、それで、彼が死んでしまったら? ちくしょう。わたしがもっとちゃんとした大人だったらきみを傷つけずに済んだのに。と、自己憐憫に浸りながらAmazonから届いた茶色い封筒をテキトーに破いて中の板を床に放り投げて、中に入っていた文庫本を取り出す。ピンクの表紙の上部にオーシュ卿(G・バタイユ)。表紙のど真ん中に眼球譚とデカデカと印字されている。オーシュ卿というのはバタイユの偽名だ。もともと、この本は偽名で出版されたのだ。卑猥で下劣で犯罪的な悪徳の物語。


 まだ、頭がボーッとしていた。薬を飲んで横になってから本を開く。いきなり主人公が自分の性癖について話し出す。尻フェチであるのは描写で分かるがそれ以外にも、主人公はたぶん、靴下にも欲情を感じているような気がする。急に睡魔。文字がぼやけて読めない。そのまま眠ってしまった。起きたら夜になっていた。


 ツイッターにメッセージが来ていた。

 彼からだ。


「あえて聞く。バタイユ読んだ?」


「ごめん。3ページ読んで眠ってた。主人公が尻フェチだというのだけはわかった。これから読む」


「マルセルって人が出てきてから面白いよ。不健全の塊みたいな本ですし名著ですけど.ほぼ官能小説。しかも、ノーマルな奴じゃないし。村上春樹とか言うやつも官能小説家ですよ」


「村上春樹は羊をめぐる冒険だけ読んで、あとはスカした描写が多くて投げ出した。レキシントンの幽霊? だっけか?の短編集だけ面白かった。まあちょっとこれから読むからまたメッセする」


「えへへへ。楽しみにしてる」


 約束したからには読まなきゃいけないと思ったし、1ページ読んだだけで、作者の感性が自分に共通するものがある気がしたので読みたかった。ただ、読む前にオナニーがしたかった。ここ最近、もう一ヶ月くらい気持ちよくなれない。もう何でもいいから昔の同級生の男子に絞め殺されて泡を吹いて小便を漏らして死んでいる自分を想像しながら擦りまくった。気持ちよくなるまで3時間もかかってしまったが、ようやく生きている感覚を取り戻せた気がする。わたしはピンク色の文庫本を開き、ストーブの前で床にしゃがみ込んだまま読み始める。オナニーしたあとではあるが、わたしは去勢して女性ホルモンを入れまくってるせいか液体がほとんど出ない。そのため、トランクスはたいして汚れていない。だからそのまま気にせず下着姿で読み耽る。


 確かに、ただのエロ本ではなかった。女の尻を見て勃起の止まらない男。性に淫らでありながら強固な意志を持つ大胆不敵にして豪傑な美女。そして、玉子の黄身、白身。眼球。尿。銃。破壊。純粋無垢で性に対してウブな美少女。ページを進めていくうちに、めちゃくちゃな美醜が乱舞していく。過剰な性的行為による破滅衝動。きっとそれは彼らの生きることへの撞着であり、あたかも暗闇に向かって喚き散らす祈りのようにも感じられた。


 第1部のシモーヌの章まで読み終えて、ツイッターを開いてメッセージを送る。


「第1部のⅣシモーヌまで読んだ。美しい。この二人の破壊衝動が美しい。それに対して聖なる存在であるマルセルを憎んでいるのか愛しているのか、矛盾した感情が覆い尽くしていて」


「良いよね」


「いい物を読めてる。ありがとう。教えてくれて」


「それは良かった。でも、残念なお知らせがある.僕はちょっと鬱気味らしい。医者にかかることを推奨された」


「そうするといいよ。カウンセリングを受けるなり、あるいは薬を処方されるなり。早ければ早い方がいいと思う」


「交感神経がダメみたいだ。ご飯を食べた後に無限に苦しくなってしまう。人格が変わるといわれるほど,精神の波があるのはやっぱり良くないみたいだ」


 わたしのせいだわたしのせいだわたしのわたしのわたしのわたしの


「医者にはこのメッセでやり取りしたことや、わたしの文章を読んでトラウマになってしまったことがあるなら、それも話した方がいい」


「うーん。あなたには感謝しかないよ」


「自分は医者じゃないからわからないけど、食べたあとに無限に苦しくなる。ってのがちょっと気になるから、身体壊す前になるべく早く診てもらって」


「ありがとう.お休みなさい。こめかみが押さえつけるように痛いんだ」


「ゆっくり休んで。病院行って。おやすみ。ありがとう。本教えてくれて。おやすみ」


 どうしてだ。どうしてだ。どうしてだわたしの言葉は他人をこんなに傷つけてしまうんだろう。と、苦しいのか嬉しいのか悲しいのかよくわからない感情に陥りながらiPhoneを枕元に置いてトイレに行って便器に座っておしっこをする。オナニーした時に尿道に詰まっていたらしいカウパー液がトロトロ流れ出してから尿が勢いよく流れ落ちて行く。汚らしい。こんなものは美しくもなんともない。だが、反省はしない。後悔もしない。薬を飲んで寝て起きて明日も起きて飯食ってうんこしてクソみたいな人生を死ぬまで繰り返すだけだ。

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