4 ロバート
スコットが部屋を出たあと、アーニーはベッドで横になって、彼のいったことを考えていた。とても調べものを再開する気にはなれない。
アーニーは、スコットについて何も知らなかったことにショックを受けていた。ヴァイオリンに未練があったなんて知らなかったし、そのことで国を恨んでいるなんて想像もしていなかった。たしかに、ヴァイオリンを弾くスコットは楽しそうだった。とはいえ、続けられないことが決まったとき、アーニーには彼があっさり諦めたように見えた。しかし、実際はそうではなかったのだろう。スコットのことだから、きっと色々と策を弄して抵抗したに違いない。それを幼なじみのアーニーにも悟られないようにしていたというのは、スコットらしいといえばスコットらしかった。
一方で、イクエリアが間違っているというスコットの主張は、アーニーにはまだよくわからなかった。ただ、スコットの話を聞いて、イクエリアの外の世界がどんなものか気になるようになっていた。日本へ行けば、スコットのいうことがわかるようになるだろうか? それに、イクエリアを出ることは、スコットが羨むほど価値のあることなのだ。その機会を棒に振るのは、なんとなくもったいないことに思えた。
そこでふと、アーニーは気づいた。彼の生物学的父親であるロバートは、この国を出て日本で暮らしていたのだ。なぜ彼は、この国を出てなお、ナオミの反対を押し切ってまで、アーニーをイクエリアで育てようとしたのだろう?
アーニーは、ナオミにもらった腕時計をポケットから取り出した。それは、見たことのない型の旧世代スマートウォッチらしかった。重量感のあるしっかりとした造りをしている。文字盤部分は全面ディスプレイになっていて、デジタル式で現在の時刻を表示していた。アーニーは、それを腕にはめてみた。
——すると、ディスプレイから時刻は消え、なにか処理中であることを示すインディケーターがぐるぐると回りはじめた。そして、次の瞬間、「DNA認証完了」という文字がディスプレイに現れた。
アーニーはあわててベッドから起き上がる。予期せぬものが表示されたことに加え、アーニーが認証を通ったことに驚いた。ロックの解除された時計を調べる。どうやらそれは、DNA認証して使うハードウェアキーの機能を備えているようだった。かなり珍しい代物だ。そこには、その鍵を使ってアクセスできるらしいインターネット上のアドレスがメモされていた。
アーニーは、自身の情報端末を使ってそのアドレスへ単純にアクセスしてみた。案の定、アクセスが拒否される。次に、時計をペアリングし、それを鍵に指定してアクセスした。すると、今度はアクセスすることができた。
そこには、ロバートの記憶があった。彼に関するあらゆるデジタルデータが、そのアドレスのサーバーに保管されていたのだ。メールやメッセージのやり取り、日記やメモなどの文書、さまざまな時間・場所に撮られた写真や動画、ウェアラブルまたはインプラントデバイスによる各種のバイタルデータ……。そして、「アーニーへ」という言葉とともに、
〈仮想人格〉は、対話型の情報検索インタフェースだ。起動すると、対象の個人を模したアバターが現れる。アバターに質問すると、その個人に関する膨大なデータから質問に該当する情報を探し出し、あたかも本人であるかのように答える。あくまで検索インタフェースであるから、アバター側から言葉を発することはない。もちろん、質問主に与えられた権限の範囲でしか答えは得られない。
アーニーは、〈仮想人格〉を起動した。ロバートとおぼしきアバターがディスプレイに現れる。アーニーは、その顔を見て少し驚いた。たしかに鏡でよくみる自分自身とよく似ていたのだ。
アーニーは少し考えたあと、最初の質問をした。
「どうしてぼくがこの鍵を使えるようにしたの?」
若干のタイムラグののち、ロバートのアバターが答える。「アンフェアだと思ったからだ。私が死んだら、ナオミは君に会いに行き、日本で暮らすべきだという彼女の言い分を話すだろう。そのとき、私の意見が伝えられないのは不公平だと思った」
「あなたの意見って?」と、アーニーがたずねる。
「君は、日本で暮らすことをどう考えている? 君のいまの状況に合わせて話をしよう」
アバターに伝わるのは音声だけだとわかっていたが、アーニーは無意識に首を振った。「ぼくにもわからない。はじめは日本へ行くことなんて考えられなかった。でも、ハウスメイトのスコットは、彼にそのチャンスがあれば必ず行くと言っていた。彼は、イクエリアの仕組みがおかしいっていうんだ」
「たしかに、国がこれほど大規模に子どもを管理する前例はない。ただ、いまの日本のように、子どもを生物学的親だけで育てるというのも同じくらい歴史的に珍しい。人間はもともと共同繁殖の生き物だ。子どもたちは、親だけでなく地域社会とも密接に関わって育っていくものだった。しかし、都市化や核家族化、少子化が相まって、だんだん地域と子どもの関係は希薄化してきている。過去に例がないからイクエリアをおかしいというのであれば、いまの日本だって十分おかしいといえるだろう」
アーニーは、ロバートの言葉に面食らった。日本の子育てもおかしいだなんて聞いたことがない。外国の子育てはみな昔から伝わる古い方法なのだと思っていた。
ただ、外国のやり方もおかしいからといって、イクエリアに問題がないということにはならない。
「スコットは、この国が不自由だといっていた。平等のために自由を奪われているって」
ロバートのアバターはディスプレイの中で首を横に振った。「それは本当の親というものを知らないだけだ。国よりも親相手の方が自由にやれるとは限らない。私の親——君の祖父母——がいい例だ。私が生まれた頃はまだ、すべての子どもが国に育てられるわけではなかった。そして、私の親は私に興味がなかった。私はいつも怒鳴られ、暴力を振るわれていた。しかし、そんな親でも私の衣食住は彼らに依存している。小さな私には、親が生活のすべてだった。彼らに逆らうなんて想像すらできず、むしろ怒られるのは自分が悪いからだと思っていた。最終的に周囲の通報で私は保護されたが、一時は親から引き離されることを私自身が拒んだくらいだ。不自由を自覚できるということは、自由を知っているということだ」
それは、アーニーの想像を絶する話だった。親に当たりはずれがあるいっても、暴力を振るう親がいるとは思ってもみなかった。それも、遠い昔の遠い国の話ではなく、ひと世代前のイクエリアの話だというのだ。
「ナオミもそんな親になると思ったから、ぼくをイクエリアに託したの」
「それは違う」とロバートのアバターが即答する。「ナオミが君を傷つけるとは考えられない。しかし、彼女は彼女で問題があった。彼女の親は、私の場合とは違って、必要以上に子どもに干渉する親だった。ナオミがどんな習い事をするか、どの高校や大学へ進学するかなんかは、すべて親が決めていた。彼女が成人したあとでさえ、どの仕事に就くか、誰と結婚するかといったことまでコントロールしようとした。彼女が外国人の私と結婚するといったときは、それは猛反対された。その時はしぶしぶ認めてもらえたが、君をイクエリアに託すという話になったときは交渉の余地がなかった。ナオミも親の側に回ったが、それは彼女自身の意志というより、親の言うことに背くのを恐れているだけに見えた。最終的には私が押し切ったが、ナオミは初めて親に背いたことをずっと後ろめたく思っていたようだ。彼女の場合も親が世界のすべてであり、大人になっても親の言葉が呪いのように彼女を支配している。そして、彼女はそんな子どもの育て方しか知らず、彼女自身もそんな親になる可能性があった」
「外国の親がそんなにひどいものだとは知らなかった……」と、アーニーは素直な感想をつぶやいた。
「勘違いしないでほしい」とロバート。「今のは両方とも極端な例だ。ナオミが良い親になることも十分考えられる。私が君をイクエリアに託したのは、親になること、君の人生に責任をもつことが怖かったということもある。親としてうまくやっていく自信が、私にはなかったんだ。しかし、いまは——本当は成人したときの予定だったが——君自身で決めることができる。イクエリアと日本、どちらの国籍を選ぶか。そのままイクエリアで暮らすか、ナオミと一緒に暮らすか」
ロバートはそこで一度言葉を切ったあと、ゆっくりと強い口調で念を押した。「ただ、この国を出ることを決める前に考えてほしい。生まれながらの平等というイクエリアの理念のことを。いまはまだ不完全かもしれないが、イクエリアはすべての子どもたちの平等を目指して少しずつ前に進んでいる。日本を選ぶということは、その理念を捨てるということだ」
その言葉を聞いて、アーニーはかつて受けた道徳の授業を思い出した。
「このクラスで一番大事にするルールを一つみんなで考えてみましょう」と、先生がクラスの前に立って言った。「ただし、一つ条件があります。明日朝起きたら、あなたは別の誰かになっています。誰になるかはわかりません。そうなったあとでも、全員が納得できるルールを考えてください」
当時は、先生が何を言っているのかよくわからなかった。自分が別の誰かになるなんて、うまく想像できなかった。ただ、求められている答えが「平等」だということはみんな気づいていて、結局クラスのいちばん大事なルールはそれに決まった。
でも、今なら分かる気がする、とアーニーは思った。明日朝起きたら、ぼくは子どもの頃のロバートになっている。あるいはナオミ、あるいはスコット。それでも納得できるルールを考えるのだ。スコットになって、勉強ができてみんなに尊敬されるようになればいうことはない。けれど、ロバートやナオミになって、親に暴力を振るわれたり束縛されたりするのはごめんだ。他にも、世界にはもっとひどい境遇の子どもがいるだろう。その誰になるかわからない状態で考える決まり。それは、平等以外に考えられるだろうか? 他の誰かのことを考えたとき、平等であることは、アーニーひとりが特別になることよりもずっと大事なことだ……。
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