2 ナオミ
アーニーは、ナオミに連れられて小ぎれいなカフェに入った。人目につかない奥の二人席に座る。
知らない大人、それも生物学的母親になんてついていくべきではないとはわかっていても、アーニーは好奇心に勝てなかった。二重国籍ということも気になったが、それ以上に「他の子とは違う」という言葉が彼をひきつけた。それに、アーニーの肌や髪の色にはナオミのそれと同じ特長が現れており、生物学的母親だというのもうそではなさそうっだった。まあ、アーニーをだます気なら、母親なんて名乗るよりもっとましなうそをつくだろう。
「好きなものを選んで」ナオミがアーニーに店のメニューを見せながらいった。
「お金持ってません」とアーニーは困った顔をする。
「親に遠慮なんてしなくていいの」ナオミが悲しそうにいった。「といってもまだ難しいかしら……。だったら、わたしの話を聞いてくれたお礼として、好きなのを買ってあげる。それならかまわないでしょう?」
初対面の大人から何かをもらうなんて気が引けたが、アーニーはどう言って断ればいいかわからなかった。ナオミはメニューを向けたまま、彼の方をじっと見つめて待っている。アーニーは気まずくなって、メニューをさっと見ると、一番安いチョコレートのケーキとオレンジジュースを選んだ。ナオミは、それに加えて一番高いチョコレートのケーキとコーヒーを注文した。
「離れていても、父親に似るものね……」ナオミが再びアーニーの方をじっと見がらいった。その目はどこか遠くを見つめるようでもあった。
アーニーは居心地の悪さに目を伏せ、気になっていたことをたずねた。
「二重国籍って、どういうことですか?」
ナオミは、その話をするためにここへ来たことを忘れていたようだった。アーニーの質問で我に返ると、「そうね……」とつぶやいて少しのあいだ言葉を探した。
「あなたは、ここイクエリアと日本の二つの国籍を持っている。わたしが日本人で、あなたの父親、ロバートがイクエリア人だったの」そういって、彼女はかばんの中から書類を取りだす。
日本の戸籍を翻訳したものだというその紙には、ナオミの名前とロバートというイクエリア人の夫の名前、そしてその子どもとしてアーニーの名前が書かれていた。また、その紙が正しいものであることを示す、何やら厳かな印鑑付きの書類も一緒だった。
「どうして誰も教えてくれなかったんだろう」アーニーは書類を見ながらいった。
「あなたの周りにいる人たちはきっと誰も知らないはずよ。それが彼の方針だったから……」
「方針って?」そういって、アーニーは顔を上げた。
ちょうどそのとき、注文したものが運ばれてきた。ナオミはコーヒーを一口飲むと、ゆっくりと話し始めた。
「ロバートは、あなたが成人するまで日本の国籍のことは知らせず、他のイクエリアの子どもと同じにするつもりだった」そういったのち、ナオミはあわてて言葉を足した。「わたしは反対だったのよ。わたしとロバートは、日本で出会って結婚した。そして、あなたを授かったのも日本だった。当然、わたしはあなたを日本で産み育てるつもりでいたわ。でも、彼はあなたをイクエリアの子どもにするといってきかなかった。当時のわたしには考えられないことだった。育てる余裕がないわけでも、愛していないわけでもないのに、生まれたばかりの子どもを手放すなんて……。わたしたちは、後にも先にもそれ以上ないほど大げんかしたわ。けれど、最終的にはわたしの方が折れてしまった……」
アーニーは、自分の子どもを育てたいなんて考えの人間が本当にいることに驚いた。イクエリアの外には、生物学的親が育児の専門的知識もないまま自身の子どもを育てる古い慣習がまだ存在するということは知っていたが、目のあたりにするのは初めてだった。
そこでふと、「成人するまで」という言葉が現状と違うことにアーニーは気づいた。
「ぼくはまだ十四歳なんですけど……」
すると、ナオミは悲しげな表情で再び遠くを見つめた。そして、覚悟を決めるように大きく息を吐くと、アーニーの目をまっすぐみて告げた。
「三ヶ月前、ロバートは死んでしまったの」ナオミはそういって、アーニーの様子をうかがう。
アーニーは、父親の死を知らされても特に何も思わなかった。生物学的親などというのは、共通するDNAが多いだけで基本的にはただの他人だ。ただ、ナオミは若くして夫を亡くしたわけだから、それはつらいことだったのだろう。アーニーは気をつかって、できる限り気の毒そうな顔を取り繕った。ただ、それはナオミの期待していた反応とは違うものだった。
「突然こんなこと言われても、わからないわよね……」ナオミは肩を落としていった。「ただ、ひとつ誤解しないでほしいのは、ロバートを失って独りになったからここに来たわけじゃない。これまで何度もあなたに会いにこようとした。でも、いつもロバートに阻まれていたの……」
誤解も何も、アーニーはそもそもナオミがなぜ彼に会いたがっていたのかがわかっていなかった。
「そうまでして、なんでぼくに会いたかったんですか?」
その言葉に、ナオミははっと身を固くした。それは、彼女とアーニーとの間にある溝が、彼女の想像以上に深いものだと感じさせるに十分なものだった。
「あなたを愛しているからよ」少し間をおいて、ナオミが優しく微笑んでいった。
アーニーは、その言葉にぞっとした。愛しているだって? 初対面の人間に、どうしてそんなことが言えるんだ。いや、彼女は会う以前から彼を愛していたのだ。会ったこともない他人を愛しているだなんて、そんなことがあるだろうか?
つぎの瞬間、彼はその違和感を表現する言葉を思い出した。
「それは、〈血縁差別〉だ」
〈血縁差別〉は、血のつながりの有無で扱いに差をつけることを指す。人種や性と同じように、血縁という生まれ持った性質をもとに差別することは、イクエリアの憲法で禁じらている。差別は、イクエリアが重視する平等の理念に反するものであり、もっとも忌むべき行為だった。ナオミは、アーニーが血のつながった子どもだから愛しているのだ。それは〈血縁差別〉にほかならない。
「この国ではそうかもしれない。でも、それはこの国の方がおかしいの」と、ナオミは首を横に振る。「親の愛はかけがえのないもの。美しいものなのよ」
この国が、平等がおかしいだって? アーニーは言葉が出なかった。そんなこと考えたこともなかった。イクエリアの外では、まだまだ不平等がはびこっていると聞いていたが、平等がおかしいなんて考える人が本当にいるとは!
ナオミは、アーニーから反論がないのを、彼女の考えに理解を示したと受け取ったようだった。そして、遠慮がちに続けた。
「――あなたさえよければ、日本で一緒に暮らさない? 日本でなら、あなたはもっといい暮らしができる。あなたはこの国の他の子どもとは違う」
アーニーは、開いた口がふさがらなかった。それは、アーニーにとってあまりに予想外な提案だった。異国の地で初対面の女と二人で暮らすなんて、まったく想像もできない。
アーニーが何か言おうとすると、ナオミがそれを遮る。
「いま答えを出さないで。とりあえず一晩考えてみてほしいの。明日、わたしは日本に帰らなきゃならない。だから、一晩だけ」
アーニーは時間をかけたところで答えは変わらないと思ったが、ナオミは一晩考えてほしいの一点張りで、アーニーの答えを頑として聞こうとしなかった。仕方なく「考えてみます」とアーニーが折れると、ナオミはほっと胸をなでおろした。
「ケーキ、交換してくれない? これは少し大きすぎたみたい」そういって、ナオミは彼女の一番高いケーキを、アーニーの一番安いケーキと交換した。
その後、ナオミは彼女自身のこと、ロバートのこと、日本のことをアーニーに話した。アーニーは、ケーキの対価の分、きちんと彼女の話に耳を傾けた。そうした話を聞く限り、ナオミは悪い人ではなさそうだった。ただ、〈
「最後にこれを。あなたの父親の形見。彼が肌身離さず持っていたもっていたものよ」そういって、ナオミは腕時計をアーニーの手に押し込んだ。
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