透明な血のつながり
フジ・ナカハラ
1 アーニー
その日はこの冬一番の寒さで、教室の中でも指がかじかむほどだった。しかし、年末休み前最後の授業を受ける生徒たちは、指先の痛さなどまるで気にならない。もちろん、授業に集中しているからというわけではなく、長期休みの始まりを告げるチャイムを待ちかねているからだ。
次の瞬間、チャイムが鳴った。先生がまだ話しているので、授業自体はまだ終わっていない。しかし、もう誰も授業など聞いていなかった。あからさまに声を上げる生徒こそいなかったが、その場で軽く伸びをしたり、友だちと顔を見合わせて笑ったり、おのおの今年最後の授業が終わった解放感を味わっている。そういった分かりやすい行動を取らなくとも、みんなどこか表情が緩んでいた。ただ一人、アーニーを除いて。
アーニーの心に引っかかっていたのは、その日の朝に返された統一試験の結果だった。アーニーは学年で一番になることを目指して、それまでになく必死に勉強した。しかし蓋を開けてみると、結果は一桁台どころか二桁、それも二十番台の順位だった。決して悪い成績ではないし、前回と比べれば順位も上がっている。それでも、突出して点数の高い科目もなければ、他の誰も解けなかった問題を解いたということもない。アーニーが目指していたのは他の誰とも違う特別な成績だった。同じような成績が何人もいるようでは意味がない。
「アーニー、帰ろう」と、横から声がした。
アーニーが振り向くと、そこにはスコットがいた。アーニーがふさぎ込んでいるうちに授業は終わっていて、クラスはがやがやと騒がしくなっている。
スコットは、アーニーと同じ
「ごめん、今日は一人で帰りたい」
スコットは「オーケー」といって、それ以上何も聞かず、別のクラスメイトの輪の中へ入っていった。アーニーの気持ちを即座に察してくれるのも、付き合いが長いからこそだ。
スコットは、この学校でもっとも特別な存在だった。今回の試験もスコットが学年で一番だったし、イクエリアでもトップクラスだった。それに、スコットはただ勉強ができるだけではない。今はもうやめてしまったが、ヴァイオリンだって弾ける。それでいて、自身の能力や実績を鼻にかけることは一切なく、みんなに信頼される人格者でもあった。
アーニーは、スコットの方を見ながらため息をつく。一緒に生まれ育ったのに、いったいどうしてこんな差がついてしまったんだろう。幼なじみとしてスコットを誇らしく思う気持ちもなくはなかった。いや、憧れてさえいた。しかし、それ以上に、スコットの横に並ぶと平凡な自分が惨めに感じられるのだった。
アーニーは恐れていた。自分が何者にもなれないことを。スコットには成功の未来がある。どんな分野でもきっとうまくやるに違いない。それに対して、自分はどうだろう? アーニーは、どこにも名前の残らない平凡な人生を歩みたくはなかった。歴史に名を刻み、世界に自分の存在を知らしめたかった。しかし、今のところ歴史に名を残せる兆しはみじんもない。大人たちは、まだまだ無限の可能性があるなんていう。とはいえ、本当に才能のある人間ならば、十四歳にもなると何かしらの目が出ているものではないだろうか。スコットだけではない。スポーツの分野で活躍する生徒はもうプロが目前だったし、芸術の分野にはずでにその道で有名な生徒もいた。これから何にでもなれるだって? ぼくにしかなれないものを教えてくれ。
アーニーは学校を出ると、校区の外へ出る道に向かった。家に帰るには遠回りだが、その道を通れば誰にも会うことがない。アーニーは一人になりたいとき、いつもそこを歩くことにしていた。そうすれば、スコットと鉢合わせて気まずい思いをすることもない。時間をかけてゆっくり歩くことは、考えを整理するのにも役立っていた。
学校からじゅうぶんに離れて、建物の隙間を縫うような細道を歩いているときだった。めったに人に出くわすことがない道の先に、一人の女が立っていた。身なりの良いアジア系の女で、そわそわと落ち着かない様子であたりを見回している。その姿は田舎の細道にまるでなじんでおらず、少なくともこの土地の人間ではなさそうだった。
アーニーは少し歩くペースを落とす。その女は、一本道だというのにどちらの方向にも歩き出そうとはせず、待ち合わせでもしているかのようにただそこに立っていた。そして、アーニーの存在に気づくと、彼の方をじっと見つめた。アーニーは不審に思ったが、女とのあいだに横道はなく、そばを通るしかなかった。
アーニーが近づいていっても、女はアーニーから視線をそらさない。アーニーは、関わり合いにならないよう、顔を伏せて足早にその女の横を通り過ぎようとした。
その時、「アーニー」と女が彼の名前を呼んだ。
アーニーは驚いて女の方を振り向く。アーニーが気づかなかっただけで、実は知っている人だったのだろうか。そう思って女の顔を見たが、見覚えはなかった。
そんなアーニーの様子を見て、女は弁解するようにいった。
「わたしはナオミ。わからないと思うけれど、あなたの母親」
アーニーは、一瞬女が何を言っているかわからなかった。「
ここイクエリアの子どもは、生物学的親を知らない。子どもたちは生まれた瞬間から、国によって一律平等に育てられるからだ。生物学的親は子どもの出生にしか関わらない。それも、多くの子どもが国の管理する精子・卵子バンクから人工的に生み出されるため、生物学的親自身が自分の遺伝子を受け継いだ子どもを知らないことが多い。ただ、中には古来からの方法で男女のあいだに生まれた子どももいる。
「分からなくても無理はないわ」とナオミがいった。「少しわたしの話を聞いてくれないかしら。あなたにとって決して悪い話じゃないと思うの」
ナオミがアーニーの方へ一歩近づくのと同時に、アーニーも一歩後ずさりした。「生物学的親は、子どもに会っちゃいけないはずだ」そういって、ナオミがそれ以上近づくのを止める。
ナオミは、悲しそうに首を横に振った。
「それはこの国の大人に対するルールでしょう。わたしはこの国の人間じゃないから、あなたに会うことを禁じられてはいない」
そして、アーニーの目を真っ直ぐ見て続ける。
「アーニー、あなたもこの国の人間じゃない。いえ、正確にはイクエリア人であると同時に、別の国の人間でもある。あなたは二つの国籍を持っているの。他のイクエリアの子どもとは違うのよ」
他の子とは違うだって?
「どういうこと?」疑問がそのままアーニーの口をついて出た。
その言葉を聞いて、ナオミは微笑んだ。
「ここは寒いわ。どこか暖かいところに入りましょう」
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