2.しかしこの比喩のうちには多くの非類似性があること(第11章)

 私が、ジェネシス・ゲームに参加表明をして、六日間が過ぎた。私はゲームの始まりを待っていた。参加の表明をしたらすぐに認証コードが送られてきて、ジェネシス・ゲームで遊ぶことができると思っていた。しかし、待たされることになった。


 私はその間、食っては寝て、トレイニング・ルームで体を鍛えていた。ジェネシス・ゲームを始めるということで、フェンシングのデータを削除してしまったことが原因だ。ヘッド・ギアには容量が存在するため、そのための対応だった。


 そして七日目、ついにジェネシス・ゲームの連絡が来た。私にとって意外だったのは、私に『外出』許可が出たことだ。


 私の部屋は、四つほどあった。プレイング・ルーム、睡眠スペース、食事スペース、そして多目的ルームだ。五メートル正方形の部屋の多目的ホールを筋肉トレーニング用のマシーンを置いていた。


 『外出』という言葉は知っていたが、私は実際にそれをしたことがなかった。食事スペースの一つの壁面。白い壁の中に、真っ黒な長方形の扉があった。ドアノブなどもついていない黒い長方形の扉。扉と表現して良いのか分からないが、おそらくそれは何処かに繋がっているのだろうということは簡単に予想できることだ。


 根拠としては、私がゲーム・ポイントを溜めて注文した筋肉トレーニング・マシーンの数々。それは私が寝て起きると、翌日には食事スペースの、それもその黒い扉の前に置いてあった。


 「無」からマシーンが生成されていないのなら、別の場所からそれは移送されてきたのだ。そして、それはこの黒い扉の外から運ばれたということ意外には考えられなかった。


 七日目、私は『外出』をする。『外出』をしたら、この部屋には二度と戻ってこられないらしい。七日目、起床してから私は自分の生活スペースを掃除していた。


 私は掃除を始めた。なぜそうしようと思ったのかは分からない。ただ、多目的ルールに置いていたマシーンの全てに油を差してメンテナンスをした。重さの違うダンベル一つずつ丁寧に布で拭いた。ランニング・マシンの床部分を回転させるモーターと接続されたベルトが緩んでいたからそれを新しいのと取り替えた。もう私が二度と使うことはないということは分かっている。だが、私はそれらをメンテナンスしないわけにはいかなかった。


 それに、私は生活補助ロボットも綺麗に拭いた。最近は自動スリープ期間の方が長いが、一番私と付き合いが長いのがこの生活補助ロボットだろう。『豆腐』と呼ばれる食料と同じような形、そして感触のロボットだ。もっとも『豆腐』よりは弾力がある。おそらく、多少の衝撃を受けても壊れないように、弾力のある素材を生活補助ロボットに採用しているのだろう。


 生活補助ロボットは、キャタピラがありそれで駆動する。二本のアームもついていて、それで洗濯であったり、シャワー・ルームの掃除であったり、器用に多くの事をする。


 それに……私に言葉を教えてくれたのも、この生活補助ロボットだった。


 私が弱かったころ、何も出来なかったころ、すべてを助けてくれたのはこの生活補助ロボットだった。


 たとえば『豆腐』の食べ方だ。決まった時間に一定量の豆腐が私の食事スペースに運ばれてくる。今では私は、それを『スプーン』と呼ばれる道具で右手で使いながら食べる。手が汚れなくて合理的だ。実に『スプーン』と呼ばれるこの道具は画期的だ。


 だが、その合理的な道具は、生活補助ロボットが私に使い方を教えてくれたものだ。食事スペースに、いつも豆腐と共に運ばれるスプーン。それが、プレートに乗った豆腐を口に運ぶための合理的な道具だと、生活補助ロボットが教えてくれなければ私は思いつきもしなかっただろう。


 それ以外にも、ヘッド・ギアの使い方を教えてくれたのも、生活補助ロボットだ。私はしばらく考えて、この生活補助ロボットをも布で綺麗にすることにした。この生活補助ロボットは、自分で自分をメンテナンスすることができるといことは知っていた。自分でキャタピラの交換をしたり、時には自分自身で体を分解し、電子回路の交換などをしていた。


 私は、生活補助ロボットの外殻部分を布で拭き取る。そして、さりげなく、ロボットの、私でいうところの後頭部を触る。


 七百日前くらいだろうか。私がフェンシングを選び、そして電脳空間で戦っていた日々だ。中々、上位に進むことができず、負け続きの日々を送っていたことがあった。そのころの私は——今でもそうだが——アバターではなく、私自身の肉体を鍛えることがフェンシングで強くなることだと考えていた。そして、寝る間も惜しんで筋肉トレーニングをしていた。


「睡眠時間です。至急、寝室で睡眠をしてください」


 寝る間を惜しんで筋肉トレーニングをする私に対して、生活補助ロボットが発する警告があまりに五月蠅かった。負けが続いているということもあって、私は持っていたダンベルで生活補助ロボットを殴った。


 おそらく、生活補助ロボットはそのような自体も想定されていて、衝撃に対して弾力のある豆腐のような素材で出来ているのだろう。


 私は布で生活補助ロボットを拭きながら、あの時、ダンベルで殴った痕跡がないかを調べた。僅かな凹みがあった。


 七百日前に戻れるなら、あの時の私自身を止めたい衝動に駆られる。もちろん、そんなことはできようもないが、私はそんな気持ちに駆られる。

「J札幌-ち三二六、『外出』だ。衣服以外の持ち物は持ち出し不可能だ。六十秒以内に室外に出よ」というアナウンスが響いた。


 私は『外出』する。ジェネシス・ゲームの説明では、私がこの部屋に戻ってくるということはない。


 私は、生活補助ロボットに対して敬礼をした。フェンシングの対戦相手に試合前と、そして試合後にする敬礼と同じだ。電脳空間では日常的な敬礼であるが、アバターではなく現実の私がするのは初めてだった。


 生活補助ロボットに対して敬礼をしたくなったのだ。別に、生活補助ロボットとフェンシングの練習をしたわけではない。フェンシングの試合で、お互いの全てをかけて戦ったわけでもない。


 どうして私は、生活補助ロボットに敬礼をしたくなったのだろうか。私が送った敬礼は、心からのものだった。良い試合をした対戦相手に送る、自分をさらなる高みに導いてくれた相手に送る敬礼だ。敬礼は時には形式的なものであるが、決して形式のものではない。心の底からの相手に送る敬礼だ。



「行ってきます、生活補助ロボット」と私は言った。

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