1.最高の本性の存在には始めもなく、終わりもないこと(第18章)
『J:札幌−ち三二六。あなたのゲーム成績が基準値を上回った。君を『ジェネシス・ゲーム』に招待しよう』
私がそんな不可解なダイレクト・メールを受け取ったのは、e-スポーツ・オリンピックのフェンシング部門で金メダルを取った直後のことだった。
私は、悪戯であろうと思った。オリンピックでの優勝が「基準値を上回る」ということなら条件が厳し過ぎると思ったからだ。なぜなら、私が優勝したフェンシングという部門は、オリンピック競技に認定されたのが1896年。それから300年以上、オリンピック競技として採用されているスポーツであるし、競技人口も他の種目と比べて多い。伝統と人気を誇るスポーツである。
「馬鹿げた悪戯だ」と私は呟いた後、ヘッド・ギアを外してシャワー・ルームに向かった。私は汗をかいていた。それもそのはずだ。電脳空間上で相手と対峙するとは言え、早鐘を打つ心臓は私自身のものだ。
私が電脳空間上のアバターを動かそうとするために操作するのは、私自身の電気信号だ。ヘッド・ギアを付ければ私のアバターの右腕が動き、また、逆にヘッド・ギアを外していれば、私の肉体の右腕が動く。電脳空間でも、現実の肉体でも運動をすれば当然、呼吸が乱れるし、汗が出る。下着は汗によってべったりと肌に纏わり付いていてそれが不快だった。
シャワーの冷たい水で私は熱くなった体を冷やす。対戦相手は強敵であった。もう一度試合をしていたら私が負けていた可能性もありうる。最後の相手の突きは、特に鋭かった。
私は石鹸で体を洗っていると、私の股間から出ている猿の尻尾が硬くなっていることに気付いた。良い試合をしたあとに頻繁に起こる現象だ。だが、私はこの現象の対処法を知っている。私は右手で硬くなった尻尾を強く握り、右手を動かす。
しばらくして、脳の回路を焼き切ってしまいそうな快感と共に、猿の尻尾が白濁液を放出した。これが尿とは全く異なるものであることはすでに私は知っている。
だが、それが何なのかは分からない。
その白濁液は排水溝へと流れて消えて言った。いつものことだった。もっとも、管理局から、『変な異物をシャワールームに流すな。再利用処理コストがかさむ』と警告が来そうなものだが、幸いなことに一度もそのような警告は来たことがなかった。
私は再び、体を洗浄する作業へと入った。丁寧に体を洗っていく。これは私にとって大切な行為だった。アバターと現実の肉体を一致させる行為と言い換えても良いだろう。
アバターを良く知るには、自分の肉体を知る以外に方法はないというのが私の持論だ。
私がどれだけの速度で右腕を前に押し出すことができるか。
如何にして上半身と右腕が連動できるか。
私の手首は194度回すことが出来るのか、それとも195度回転させることができるのか。
自分自身の肉体の可能性と、そして限界を知っておく者こそが、電脳空間上で勝利を掴めるのだ。
「C:重慶—零五六から試合の申し込みが来ています。受けますか?」
水が流れ、床にたたき付けられる音の合間から、アナウンスが聞こえて来た。
どうやら私は、オリンピックで優勝して少し舞い上がっていたのかも知れない。試合申込ステータスをOPENにしておいたままだったらしい。普段、私は、面倒な挑戦者からの無用な試合申し込みを避けるために、CLOSEにしたままにしている。オリンピック終了後にCLOSEにしておくべきだった。現時点で私はフェンシングの世界チャンピオンだ。安易にステータスをOPENにしておけば、挑戦者が殺到するのは自明のことだ。
「C:重慶—零五六から試合の申し込みが来ています。受けますか?」と再度アナウンスが響く。
「C:重慶—零五六か」
対戦相手の名前には覚えがあった。アジア国際大会で対戦したことがあった。今回のオリンピックでも準々決勝まで上がっていた。トーナメントの組み方次第では、対戦する可能性があった相手だ。
有象無象の相手ではない。名のあるフェンサーだ。それに、試合の申込を断ると履歴が残る。『勝負を逃げた。トーナメントのクジ運で優勝しただけ』などと言われる可能性がある。それは私にとって面白くない。
「
『感謝挑戦受領。』というメールが届いた。
「いやいや。これもチャンピオンの努めだよ」と私は返信をする。
「我的最後的機会。決定了参加創世遊戯。」
C:重慶—零五六もジェネシス・ゲームに参加するのか、と思いながら私の意識は試合会場へと向かう。
私の意識はアバターと融合した。目を開くとピストの上に立っていた。ピストとは、フェンシングの試合が行われる幅十四メートルの舞台だ。
「
電脳審判の電子音声が響いた。私とC:重慶—零五六は互いに敬礼する。種目はサーブルだ。突きだけでなく、斬撃も有効となる。そしてサーブルは私の最も得意とする種目だ。
「
私はマスクを着用する。フェンシング用のマスクって、電脳空間にダイブするヘッド・ギアと似ていないか?
お互いがスタートラインに前足爪先を着けた。もうすぐ試合が始まる。
審判が、準備は良いか? つまり、「
審判の「Allez!」の声と共に私は右脚を一歩前に出す。右肩を沈めながら滑るようにピストを移動する。手首を左右に振り、それと連動してサーベルが左右に振れる。牽制だ。
私が間合いを詰めようと一歩前に出れば、C:重慶—零五六が一歩下がる。間合いの取り合いである。攻撃と防御が絶え間なく交代し、私が下がればC:重慶—零五六が前に出る。
サーベルとサーベルが擦れ合う金属音が電脳空間に響いている。
C:重慶—零五六の右肩が動き、それに併せてサーベルが私の左肩を目指して突き進んでくる。私は右足を沈み込ませながら右腕を伸ばす。それに併せて私の左肩はC:重慶—零五六に対して斜めになる。
電脳空間が緑色に染まる。私のサーベルがC:重慶—零五六の喉元に突き刺さったからだ。C:重慶—零五六のサーベルが私の左腕の二の腕を切りつける前に私はC:重慶—零五六に有効突を与えた。
「
私は勝った。
マスクを脱ぎ、C:重慶—零五六と握手を交わす。
「良い試合だった」
「再見」とC:重慶—零五六は笑っている。私も笑みを返した。自然に笑える。それは良い試合をしたあとだからだ。C:重慶—零五六は良い相手だった。
先にログアウトしたのはC:重慶—零五六だった。誰もいなくなったピストの上で私は天井を見上げる。
物足りない。だが、対戦相手は最上だ。偶然の試合だったが相手は上位ランキングのフェンサーだ。
私が物足りなさを感じるのは、オリンピックの試合と違って観客がいないことだろうか? 勝利しても歓声が電脳空間を埋め尽くさないことだろうか。万雷の拍手が電脳空間の許容音声量を超えないことだろうか。いや、そうじゃない。私には分かっていた。いや……なんとなく分かっている。
言葉にできない、考えても分からない何かが、私の心の奥底で私を突き動かしている。
ただ、では、私は何を為せばよいのか? フェンシング以外のe-スポーツでオリンピック優勝を果たせば良いのだろうか。具体的に何をすればよいのか思い付かない。もしかしたら、この感覚は、私がフェンシングで頂点に立ったという自己陶酔なのかも知れない。
C:重慶—零五六の「再見」というログを私は見返した。C:重慶—零五六は、私とは違う言語を使用しているが、日常会話なら電脳空間で対戦をしているうちに自然と言葉は憶えるものだ。
「再見」は、私の使っている言葉でも解釈が可能である。もちろん、「再見」が、『さようなら』という意味であるということは分かっている。だけど、私の使っている言語では、こうも解釈できるのだ。
『また会おう』と……。
『J:札幌−ち三二六。君のゲーム成績は基準値を上回った。君を『ジェネシス・ゲーム』に招待しよう』
私は、参加する意志を表明した。
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