第10話



「え、あれ?」

 首を締める力が急に弱まる。酸素が一気に喉に入り、少しむせる。

 目を開くと、男の、涙の跡の残る戸惑った顔が視界に映った。

「なん、だ、これ」

 私はすかさず首の手を外し、一目散に駆け出す。

 あの時、ユウと最後に会話をした時、囁かれた言葉。


『本当に危険だと思った時は、これを使って、身を守るんだよ』


 ユウはそう言うと、私の制服のポケットに、あるものをそっと忍ばせた。

 それは——マッチ箱だった。

「あつ、い……?」

 部屋を出る時に横目で見たのは、姿だった。

 私はそれから振り返ることなく階段を駆け下りて、館の出口に向かって走った。玄関に着くと、急いでドアに手をかけた。

 でも、開かない。

「なんで……」

 何度もノブに手をかけて回す。間違いない、鍵がかかっている。


 青ざめた私の耳に、上から恐ろしいうなり声が聞こえて来た。


「こ、の、野郎おおおおおおおお……」

 背中を冷たいものが滑り落ちた。

 私は急いで玄関から離れ、近くにあった部屋に隠れた。入っていくとそこは部屋ではなく、キッチンだった。暗い中でも、窓越しの月明かりでレストランの厨房のように広いのがわかったが、そこら中に食器や調理器具が散らばり、中には割れたガラスや陶器の破片が交じっていて、足の踏み場がない。

「う……」

 ローファーでわずかな隙間を踏みながら進む。途中に錆びた包丁が落ちていたので、そっと拾った。こんなものでも、ないよりはましだと思った。

 さらに進むと、ダイニングに出た。どうやらキッチンと繋がっていたようで、天井が高くて窓も多く、ボロボロのテーブルクロスの敷かれた長いテーブルが一つ真ん中にある。その周りには椅子が何脚か置いてあったが、ほとんどが朽ちて、座れる状態にはない。

 その時、チェーンソウのエンジンがかかる音が館に響き渡った。

「どう、しよう……」

 思わずポケットに触れた。マッチ箱には、まだ何本もマッチが残っている。けれどこの館を燃やして、煙や炎に気づいた誰かが助けに来てくれたとしても、それで私はどうなるのだろう? 世間で行方不明扱いになっている私が、この事件がきっかけで警察に助けられて保護されたら、一体どうなるのだろう? ユウが「結社の拘束は死ぬまで続く」と言っていたのを考えると、命を狙われることだってありうる。

 そうでなくとも、元の世界に戻ったら、私はきっと、また。

「ユウ……」

 ユウは一体、今どこにいるのだろう。

 その時、キッチンの方からチェーンソウの音が聞こえて来た。私は慌てて、テーブルの下に隠れた。

 やがて、チェーンソウの泣き喚くような爆音が、ダイニングにやってくる。


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