第9話



「お?」



 私のいる部屋のドアが開いた時、私は窓辺で、夜空の月を見上げていた。


「いた……けど、お前でいいのか?」

 顔を声のする方に向けると、どうやら入ってきたのは細身の男の人らしかった。首と肩を覆うように明るいオレンジのスカーフを巻き、同じ色のチェーンソウを持っている。ゴーグルのレンズが差し込む月明かりに光っていたが、それは額に上げられ、顔にかけてはいなかった。目と目が合うと、彼は気だるげに首をかしげた。

「あのさ、お前、状況わかってる?」

 彼は手元も見ずにエンジンをかけた。ギャギャギャ……とチェーンソウが叫ぶように唸る。

「わかってる、と思う」

 爆音に負けないよう、大声を張り上げる。向こうもそうした。

「じゃ言ってみろよ。今これどういう状況だ?」

「あなたは、私を殺そうとしてる。私は、殺される」

「へー、意外とわかってんじゃんか!」

 彼はチェーンソウのエンジンを止め、こちらにゆっくり近づいてきた。

「で、なんでお前は、逃げも隠れもしないの。えらく余裕でらっしゃるね?」

「余裕なんかじゃない。もう、いいの」

「もういい?」

 私の目の前で、顔を寄せながら彼は聞いた。

「もういいって、なんだよ」

 私は怖かったけれど、思い切って、その茶色い瞳を見つめ返した。

「もういいの。私はもう、ここで死んで、いいの」



 彼の眼は、最初驚愕に見開き、次に混乱し、最後にはぽろっと涙を溢した。

「……え」

 私は言うまでもなく驚いた。その涙は、あまりにも無機質に突然に、雨が降るように淡々と流れてきたからだ。そして涙を流した本人自身も、明らかにそれに動揺していた。

「ふ、ふ、ふざけんな……ふざけんなよ」

 そう言うや否や「あああああ」と奇声を発して、チェーンソウの男は部屋中を駆け回り出した。家具という家具をなぎ倒しては破壊していく。ベッドのスプリングをガシャガシャガシャ! となんども叩き、素振りのようにして照明器具を倒し足で踏みつける。

「ふざ、ふざけんな、あ、あ、ふ、ふざけんじゃねえ、あ、ああ、なんで、なんでなんだ、ちくしょう、消えろ、消えろ、消えろ……」

 はあ、はあ、と息を荒げ、ぐったりと項垂れて床にへたり込む彼の背中に、私は言った。

「ねえ、何してるの? 私を……殺さないの?」

「うるせえ、黙ってろ。そこを、動くんじゃねえぞ。少しでも、動いたら、ぶっ殺す」

「うん……」

 少し迷ったけれど、黙って言われるままにした。しばらく彼はずっと、項垂れていた。微動だにしなかった。私は何もできず、それをただ見ていた。その背中はとても小さくか弱く見えて、胸が苦しくなる。

 やがてオレンジのスカーフの彼は、寂しそうに呟いた。

「あのさ。お前、二重人格なんだって?」

「うん」

「だったらなおさら、死にたくないって思うだろ、普通。自分をこんな異常な人間にした奴を、食い殺してやりたいって、思わないのか」

「普通だったら、そう思う?」

「ああ。きっとそう思うさ」

 私たちはまたしばらく、互いに沈黙した。彼はその沈黙を、否定と解釈したようだった。重たい体を引きずるように、彼は憂鬱そうに立ち上がった。

「そんなに死にたいなら、いいよ。一息に死んで、楽になれ。こいつで斬ったら長いこと痛くて苦しいだろうから、特別に手で、首、絞めてやるよ」

「ありがとう」

 お礼を言うつもりなんてなかったのに、口はひとりでに、感謝の言葉を述べていた。チェーンソウを床に置いたまま、身一つで、彼がこちらに歩いてくる。

「こんな地味な殺し方したら、客から苦情が来ちまうな」

 私の首に手をかけながら、ぼやく。私は掠れる声で囁いた。

「これはこれで、情緒があるよ」

 彼は心底悲しそうに笑った。

「なかなか言うね、お前」

 ぐ、と首に回した指に力が入るのがわかった。思った以上に力が強い。細身の体からは考えられない握力だ。彼は本当に、一息で死ねるように努力してくれているのだろう。

 私は、目を閉じた。


 しゅっ。

 

 森に吹く風の音に交じってわずかに鳴った、そんな小さな音を聴きながら。


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