少女の名前

 なんだその反応、と思いつつ少女の言葉を待つ。


「ないよ」


 少女はあっけらかんと答えた。


「ない、だと?」


 あまりの予想外の言葉に、ヴィルディアは目を見開く。


「お前は奴隷の出なのか?」

「どれーってなに?」

「違うのならいい」


 ますます分からなくて、ヴィルディアは眉間に皺を寄せる。


 これが奴隷だというのなら分かるが、奴隷を知らないとなるとその可能性は低い。それなのに名前がないとハッキリと言えるのはどうしてだろうか。


「なら、母親はお前のことをなんと呼んでいたのだ?」

「わたしのこ、とか、はるのこ、とか、むすめ、とか」


 指を折りながら答える少女に絶句する。


 確かにそれは名前ではない。だが、どうして母親が名前を付けないのか、全くもって分からなかった。


 何か理由があるのか、とさらに訊ねてみる。


「どうしてお前には名がないのだ?」

「名前はね、おとうさんが付けるって、ほーりつで決まっているんだって。わたしのおとうさんは、わたしのおとうさんじゃないから、名前付けてもらえなかったの」


 どうやら父親に認知されないと、名前を貰えないようだ。人間には、まことにおかしい決まり事があるらしい。


 ヴィルディアは心底呆れた。


「だからね、おとうさんが名前つけて!」

「わたし、がか?」

「うん!」


 屈託のない眼差しに、ヴィルディアはたじろぐ。


 後々のことを考えると、この少女に名前を与えたほうがいいのは分かっている。


 けれど、ヴィルディアには人間の名前事情なぞ知らない。だから変な名前を付けてしまうのではないか、と不安になってしまう。


 あるのは同情だけ。それ以外の感情はない。そんな少女に対しても、慎重になるくらい名付けというものは大きな責任を孕み、疎かにできない行為だ。


 人間が使う術にも名前を使う物があるし、契約を結ぶときも重要な役割を孕んでいる。


 その他諸々な理由があって、名前は軽く決められないものだ。人の世を生きるのであれば、人間からして変な名前を付けてしまうと馴染めないどころか、虐めに遭う可能性もある。


 それに名は呪だ。名を付けると、その者を縛ってしまう。竜である自分が人間の少女に名前を与える、ということは、少女を自分に縛り付けるということ。


 それを踏まえて、竜である自分には荷が重いと感じた。


 少女の一生を縛り付け、その分の責任を負う。面倒くさいことこの上なかった。


「…………………………………………いいか、前向きに考えろ」


 しばらく逡巡したすえ、ヴィルディアは絞り出すように言った。


「今まで名前がなかったのなら、これから好きな名前を名乗るといい。自分で好きな名前を名乗っている竜もいるくらいだ。わざわざ私が名付けることもない。ほら、いいなと思っていた名前はないか? それを名乗ればいい」


 人間の社会にいた少女のほうが、まだ一般的な名前を知っているのではないか、と淡い希望を込めた言葉であった。


 少女は、うーん、と首を傾げたあと、やや俯き気味になってぼそっと呟いた。


「おかあさんから、名前ほしかったから、考えたことなかったなぁ……」


 哀愁漂う声に、ヴィルディアは言葉を詰まらせた。


 人間にとって名前は親から最初の贈り物だと、聞いたことがある。その最初の贈り物すら貰えなかったこの少女にとって、好きな名前を名乗ることよりも、人から貰った名前のほうが価値があると思っているのかもしれない。


 その考えに至ると、それ以上は何も言えなかった。


(ここにいることを了承した時点で、責任はある、か)


 盛大に溜め息をついて、少女を一瞥する。


 どこかしょんぼりしながらも黙々と果物を食べる少女に、半ば感心しつつ、さて、と考え込む。


(名前……か。我々目線ではなく、人間目線で考えるべきだな)


 長い名前は駄目だ。万人受けしない確率がグッと上がる。それなら短い名前のほうが無難だろう。人間にとって馴染みのない名前でも、短い名前なら変わった名前だと受け流せるかもしれない。


 ちなみにヴィルディアの名前は、ヴィルディア自身が名付けたものではない。昔なじみの竜が名付けた名前だ。


 つまりヴィルディアは竜生で初めて、何かに対して名付けることになったのだ。


(髪が白いからシロ……いや、それは安直すぎる。瞳の色から取るというのも安直だ。身体的特徴でなく、もっとこう、意味のある名前のほうがいいだろうな)


 悩みながら目を瞑る。


(人間はたしか………………子がどのように育ってほしいかという願いを名に込める、だったか。とくにどう育ってほしいなどという願いはないのだが)


 正直勝手に育ってくれ、と思う。そんな風に思っているというのに、願いを込めた名前を思いつけない。


 では、どうするか。


 少女を一瞥する。顔を見て、果汁でベトベトの手を見て。


 そこで、ふと少女が落ちてきたときのことが蘇った。


 気絶した少女を喰おうとしたら、ヴィルディアの前足を掴んできた。

 そのときのぬくもりを思い出していたら。


「リム…………」


 無意識に、そう呟いていた。


「え?」


 呟きが聞こえたのか、少女がキョトンとした顔でヴィルディアを凝視している。

 ヴィルディアは我に返った。


「りむって?」

「古い言葉だ。深い意味はない」


 平静に取り繕う。


 深い意味がないのは本当だ。今はもう使われていないだろう、古の言語、しかも単語だ。


 しかし、それは名案だと自分で感心した。


 短いから覚えやすいし、発音のしやすさは別として、少女もちゃんと言えている。それに一応意味もある。


「うむ、お前の名はリムにしよう」


 告げると少女は目を瞬かせた。


「りむ」


 反芻するように呟いたかと思ったら、次第に照れくさそうに頬を赤らめて、視線を落とした。


「へへへ……わたし、リムかぁ」


 りむ、りむ、と小さく繰り返して破顔している。


 その顔を見て、照れくさくなって視線を逸らす。


 くすぐったくて、胸が少しだけ痛い。けれど、不思議と悪くないと思えた。


「おとうさん!」


 呼ばれて少女改めリムを横目で見やる。


 リムは今まで一番の笑顔を咲かせ、弾んだ声で言った。


「これから、よろしくね!」


 個人的にはさっさと出て行ってほしい、と願っているのだがそのような無粋なことも言えず。


「……ああ」


 と、ぶっきらぼうに返すのが精一杯だった。

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