第4話

 次の日の放課後。

「百子、付いて来いよ」

 机を教室の後ろに運んだ後、百子ちゃんは美咲ちゃんに声を掛けられた。それを聞いた瞬間、私の心臓がぎゅうぅと絞られた。

 百子ちゃんは美咲ちゃんに腕を掴まれ、取り巻きの子たちに囲まれながら教室を出て行った。それを見て、心を落ち着かせるように深呼吸して、覚悟を決める。教室を出て、百子ちゃんと美咲ちゃんたちの後ろを付けた。

 心臓が、バクバクする。運動はしていないのに、持久走大会でゴールした直後みたいな振動だった。

 今日は絶対に止める。そう決めた。百子ちゃんの心を知ってしまった今、助けなかったら絶対に後悔する。

 美咲ちゃんたちは三階に上がっていった。三階は特別教室しかない。放課後に誰かが上がってくることはほとんどないと思う。

 皆が階段を上がりきって、声が遠のいたところで、私も階段を上がった。

 上がりきる前に留まり、息を吐く。今度は階段を上ったせいもあるのか、心臓がとても速くドクドクしてる。うっかり血が口から飛び出てしまいそうだった。今は階段の手すりの下に隠れている。どこでいじめられるのか確認するために顔を出したいけれど、誰かが警戒して振り向いていたら見つかってしまう。そうしたら、まずい。

 そこでハッとした。別に、まずい理由なんてなかった。今から私は、いじめを止めに行くんだ。見つかるとまずいと思ったのは目を付けられるからだ。やろうとしていることと心が一致していない。でも、本能より思いを大事にする。そう決心して、階段の陰から顔を出した。すると、誰もこっちは見ていなかった。そして、美咲ちゃんたちはちょうど女子トイレに入って行くところだった。今日いじめを行う場所は、多分そのトイレだ。

 皆が入り終わるのを確認して、私は立ち上がって最後の一段を上がった。そこから音をたてないようつま先で歩き、トイレに近づく。恐怖心とは別で、いじめる前に見つかったらいじめていないと言われて手出しできなくなるかもしれない。だからまだ気づかれない方が良かった。はっきりいじめの言葉が出たら、いじめを止めようと決心する。

 心臓が強く、重く響いて、血をびちゃびちゃと吐きだしていた。その音が聞こえてしまわないかと恐れながら、トイレの入り口に立った。気付かれないように静かに、深く、深呼吸をする。耳を澄ます必要もなく、中から声が聞こえてきた。

「何日振りだっけ?」

 美咲ちゃんの声だ。

「んー三日?」

「あー結構開いたね。ねぇどうだった? この三日間。楽しく過ごせた?」

「……別に」

 美咲ちゃんの声に、百子ちゃんが答えた。

「えー。もったいなーい。いじめないときぐらい楽しく過ごしたらいいのに。あーでも友達いないのか。しょうがないね。かわいそー」

 あはははっと鋭い嘲笑が飛ぶ。美咲ちゃんの声は、背中に刺さるような綺麗な声をしている。本能的に、自分より強い子なんだと思ってしまう。そして、自覚した瞬間、足がすくんだ。

 ――あ、れ?

 全身が急に冷えてきた。手が震える。

 私は、いったい何をやっているんだろう。まともじゃない。一人の女の子を助けるために、なんでこんなことしているんだろう。しかもその女の子は、私のこと、友達だとも思っていないのに。

 本能が心を沈めていく。常識が、自分を留めてしまった。

 なんで、私、こんなこと……

 ――逃げなきゃ。

「じゃあ、そろそろ始めようかー」

 美咲ちゃんが言うと、次に何かが壁にぶつかる音がした。直後、小さくもう一回音がする。

「うっ」

 同時に聞こえてきたのは、百子ちゃんの呻き声だった。

 その音と声を聞いて、考えが一瞬止まる。私の何かが、その音を聞くように強制しているみたいだった。

「たまには痛いとか言ったら? 泣きもしないし、あんたおかしくね?」

 ――人はいつか死ぬ。早いか遅いかだけ。死にたくないから痛い。でもどうせ死ぬなら、どうでもいい

 それは、痛みに耐えるために、考え方そのものを変えたから。

 無言が数秒続いて、再び鈍い音がした。

「あひっ」

 肺を潰したような、百子ちゃんの声が漏れる。

「なーんか殴っててもつまんないなー。いっつも同じ反応だし。なんかないかな?」

 美咲ちゃんが周りの友達に聞いた。

「脱がすとか?」

「脱がすの? 今更じゃね?」

「それで写真撮るとかは? 最近流行ってるじゃん。大人の人が私たちぐらいの子にエッチな事するの」

「あー。ニュースとかでやってるねー。でも誰に見せるの? 先生に見せたら多分怒られるよ?」

「そういうのが好きな人……かな? ネットを使えば売れると思う。多分」

「あー、ねっとしゃかいだもんね。まあ、取りあえずやってみようか」

 美咲ちゃんがそう言った後、衣擦れの音が聞こえてきた。百子ちゃんが、脱がされている音だ。

「うわー。私たちの作った痣あるよ。これ喜ぶ人いんの?」

「分かんないけど、とりあえず撮ろうよ」

「そうだね。……あー私もってねえから頼むわ。結衣持ってんだろ? スマホ」

「うん。いいよ。……でもみんな持ってるよ」

「え」

「なんで美咲ちゃんないの?」

「お、お父さんがダメっていうんだもん!」

「あ、お、おこらないで。じゃあ、私たち撮るから」

「……おう」

「どこ撮れば買ってもらえるかな?」

「おっぱいだろそんなもん。男はおっぱいが好きだ!」

「だよね。……こんな感じ?」

「どれどれ。いんじゃね? あ、でもこれ男子か女子か分かんないな。顔も映そう。さすがに女子って分かんないと買ってくれないと思う」

「そうだね! さすが美咲ちゃん!」

「私も撮ったよー。どう?」

「うーん。ちゃんと取れてるけど、ランドセルは無い方がいんじゃない? もしかしたら大人かもしれないって思わせた方がいいと思う」

「そうかな? でもこれ小学生が好きって人用に撮ってるんじゃないの?」

「いやいや小学生だけ好きなわけないでしょ。小学生でもありなんだよ、そういう大人は」

「そうなの? そうかな? ……うん、そうだね! さすがだね、美咲ちゃん!」

「ふん。カメラはないけど、男のことならなんでも私に聞くといいわ!」

 そのやりとりの後、シャッター音が止めどなく聞こえてくる。

 カシャ、カシャ。その音は同時に、砂山に見立てた私の心をスコップで割くようだった。

「ねぇ。あんたさ。これでも何とも思わないの? 今度は痛いだけじゃなくて恥ずかしい写真撮られてんだよ? 男にいやらしい目で見られるんだよ?」

「……別に」

 百子ちゃんはいつもの平坦な声で回答した。

「っ。気持ちわりぃんだよ! お前!」

 再び、鈍い音がした。同時に、くぐもった声が届く。それを私は、背中を震わせながら、立ち尽くして聞いて、

 私は――


 ――死を避けようとする理由がない


 ――私が、一緒にいるから。私が、百子ちゃんを守るから。だから、ちゃんと、生きて? 笑って?


「 百子ちゃんを、いじめるなぁぁ! 」


 決心の直後、記憶はなくなり、気付けば私は大声を上げて美咲ちゃんに飛び掛かっていた。

 美咲ちゃんは驚いた様子でこっちを見ていた。美咲ちゃんは不恰好に飛び掛かる私を反射的に受け止めていた。瞬間、涙で目が滲んで前を上手く見れなかった。

 突然現れた私に驚いてどうするか迷っているのか、いじめが見つかって困っているのか、涙を流しながら突撃した私にどう接していいか分からないのか、お互いに無言で掴み合った。

 少ししてから、固まっていた周りの人たちが私の体を取り押さえて美咲ちゃんから引きはがした。

「うう。ううぅ」

 私はそれでもあがいて、美咲ちゃんに向かおうとした。でも、力を入れると、取り押さえる皆も力を強めて逆に何もできなくなった。

「どうしたんだよ、遥」

 美咲ちゃんの、強い人の声。冷静になったらダメになるから、頭を熱くして、荒い声で答える。

「百子ちゃんをいじめないで!」

 私が言うと、美咲ちゃんは一瞬言葉を詰まらせた。そして、言う。

「あんたには関係ないだろ」

「あるよ! 私は百子ちゃんを守るって決めた! 誓ったんだもん!」

「なんで」

 美咲ちゃんの態度に、苛立ちが混じる。意識しない。怖くない。

「友達に、なりたいから!」

「意味分かんねーよ。なんでこんな何の反応もしない奴と?」

 その言葉で、美咲ちゃんは知らないってことを知る。でも、私は知っている。なら、伝えなければならない。知ってもらわなければならない。

「百子ちゃんの反応が薄いのは、いじめられて、辛過ぎて、いつ死んでもいいなんて、本気で思うまでに追い詰められちゃったからなんだよ!」

 言って、私は美咲ちゃんを睨んだ。美咲ちゃんは、

「は? 何言ってんの? こいついじめる前からそうだけど」

 不愉快そうに私に言った。

 私の中で、ずれが生じる。でも、些細なものだ。これまでの百子ちゃんとのやりとりを考えてみれば、私の方が正しいはずだ。

「確かに感情は面に出ない子だけど、死んでもいいなんて、思う訳ないじゃない!」

「思っててもおかしくねぇよ。こいつは」

 私の言葉に、美咲ちゃんは何の後ろめたさもないような顔で答えた。そして、続ける。

「好きなこと聞いたら『何も』。一緒に遊んで楽しかったか聞いたら『別に』。こいつはそういう奴だよ。人のことバカにしたような態度で空気読まずに悪くしてさ。私らがいじめ始まったのはそれからだ。楽しいことに反応しねぇなら、辛い事にも反応しねぇのかなってな。今んとこの反応を見る限り、あん時も悪気はなかったんだろうな。でもさ、ほんとになんとも思ってないなら、どんな酷いことしたっていいだろ? 今の私らはどこまでやれば嫌がるのか、いじめて反応見てんだよ」

「そ、そんな……」

 ずれが大きく、無視できない大きさになる。自分の持っていたイメージと、噛み合わない。

 美咲ちゃんが適当なことを言っている可能性もあるけれど、それらしい様子ではなかった。でも、とにかく何か言わないと、冷めてしまう。急いで、型に嵌った言葉を言う。

「い、いじめはダメだよ! 相手が誰でも!」

 私が言うと、美咲ちゃんは眉間に皺を寄せた。

 あ、やってしまった。本能で悟る。

「知ったかして舞い上がって中身のねぇ正義面してんじゃねぇ。……お前、ムカつくわ」

「あ、」と、美咲ちゃんが、楽しそうな悪い笑みを浮かべた。周りの皆に振り向いて言う。

「なあ。今度は遥いじめてみね?」

 美咲ちゃんの顔を見て、周りはすぐに頷いて乗っかった。悪い予感は当たってしまった。美咲ちゃんは視線を百子ちゃんに向ける。

「お前を助けようとしてくれた遥がお前のせいでいじめられるぞ? それでもお前はなんもしねーの? 見ものだね」

 そう言うと、美咲ちゃんは私の襟首を掴んで百子ちゃんの隣に投げつけた。背中が窓側の壁に当たる。

「ぅあ」

 背中を打ち付けた衝撃で声が漏れる。痛かった。見上げると、美咲ちゃんの顔がある。周りの子たちも見てる。皆、弱いものを見る悪い目を、私に注いでいた。

「じゃあ、まず一発」

 美咲ちゃんが足を上げて私の鳩尾を踏みつけた。

「あぎっ」

 次いで、肩を蹴られる。

 そこで、ほんの少しだけ間が開く。その間で、自分の立場を認識する。私はもう。皆のおもちゃなんだ。奥歯が鳴る。

 怖い。辛い。痛い。寂しい――

「あー、なんだ。飛ばし過ぎたか?」

 美咲ちゃんの、困惑するような声が聞こえた。私はもう、涙を流して丸まって、震えていた。

「こいつやるときのノリでやっちまったからな。まあ、なんだ。お前が守ろうとしたもののせいだ。かわいそうにな」

 美咲ちゃんはそう言うと、私の肩を優しく蹴った。

 百子ちゃんはずっとこれを耐えていた。それはもう、考え方を変えるしかないだろう。じゃなきゃ、耐えられない。

「かわいそうだから、いじめを止める条件を付けてやる。百子が止めに入ったら、止めてやるよ」

 その言葉を聞いて、私は腕で覆った顔から百子ちゃんを盗み見た。百子ちゃんは裸のまま、ボーとした目で美咲ちゃんを見ていた。

 すると美咲ちゃんの足が、私の太ももを蹴った。

「お前の言葉通り、ほんとに考え方を変えなければいけなかったのだとしたら、お前はこいつにとってヒーローだ。最底辺でも隣に立って助けてくれる味方だ。私らも止めてやるって言ってる。さすがに止めるだろ」

 そう言うと、美咲ちゃんは体を丸めた私の膝と顔の間におもいきり足を踏み下ろした。

「うぅ!」

 自分の言った言葉で罪の意識が薄れたのか、本気だった。死の危険に至る恐怖が、背筋を駆け抜けた。

「ほら、早く止めないと、遥がボロボロになるよー? 死んじゃうかも」

 美咲ちゃんの言葉が、本能で予感した感覚を裏付ける。

 ――お願い。お願いだから、助けて、百子ちゃん!

 目が合って、視線で助けを求めた。でも、いつも通り、眠たげな半眼を向けるだけ。百子ちゃんが美咲ちゃんたちを止めてくれる様子はなかった。

 殴られ、蹴られた。服に足跡を付けられた。便器を磨くブラシで顔を磨かれた。トイレの根詰まりを直す黒い吸盤で体に跡を付けられた。スカートをめくられ、パンツにバケツで水を掛けられ写真を取られた。そのまま服を脱がされ、百子ちゃんと同じように全裸に剥かれ、全身を余すところなく写真に撮られた。その後も暴力を振るわれたけれど、いじめがばれないように、肌の露出するところはあまり攻撃されなかった。

 百子ちゃんは全然助けてくれなかった。割って入ってくることはなかった。

 美咲ちゃんに踏みつけられるなか、百子ちゃんに目を向けると、もう私の方は見ていなかった。美咲ちゃんすら見ていなかった。裸にされて散らかされた服を、拾いながら着ていた。背筋にまた、シャレにならない悪寒が走る。

「助けて! 百子ちゃん!」

 私は思わず叫んだ。白いシャツだけ着終わった百子ちゃんが振り向く。美咲ちゃんは見栄えがいいように、私の肩を踏みつけながら百子ちゃんを見た。百子ちゃんは私の目を真っ直ぐに見つめて、


「 どうして? 」


 私の瞳が奥に引っ込んだ。

 どうして、そんな顔で、こんな状態の私を見れるの? 顔はぐちゃぐちゃ。鏡はないけれど、全身、酷いありさまのはずだ。こんなにボロボロの人間が名指しで助けを求めているのに、助けるでもなく、恐れるでもなく、全く、何の反応もないなんて。私は助けるって勇気を出して、ここに来たのにっ!

「痛いの! 苦しいの! 助けて! お願いだから!」

 怒気すら孕んだ声だった。横目に見えた美咲ちゃんが引くほどの、命が漏らした叫びだった。


「 じゃあ、死んだら? 」


 百子ちゃんはそう言うと、視線を外してパンツを取りに行った。動きに動揺の欠片もなく、全身着替え終わってランドセルを背負う。そのまま一瞥もすることなく、トイレから出て行った。


 ――人はいつか死ぬ。だから、どうでもいい。


 気の抜けた息が漏れる。首は重力に抵抗することなく垂れ下がった。全身が柔らかくなって緊張が全部解ける。まるで、安らかに死んでしまったかのようだった。

 ――本当に、どうでもよかったんだ。

 強さなんて全くなかった。考え方を変えて耐えていたなんてこともなかった。ただ、単純に、壊れてたんだ。

 私はいったい、何をやっているんだろ。

 私の意識は全てを手放して、暗転した。

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