第2話

 どこから話せばいいのか…随分前の夏の事でした。日差しが眩しくて、反射した光が指輪を照らしていたのは覚えています。

 何故だかわかりませんが、私は嬉しくて、毎日あの指輪を眺めていました。あの方の左手に光る指輪を見るととても幸せな気持ちになって…


 私がこうなる前は体が動きませんでした。

 あの方とは指輪を貰った日からあの家に暮らすようになって、それ以来ずっと一緒でした。私は体が動かなくても幸せでした。

 寝る前にはあの方が指輪を外してくれて、引き出しにしまっていました。そして朝起きると必ず左手につけて、私に見せてくれました。


 あの方は優しくて、動けない私をきれいに拭いてくれて…とにかく素敵な人でした。

 自分の手の指輪と私の手の指輪を交互に見て、ふわりと微笑んでくれました。幸せでした。


 でもある時から、あの方に見向きもされなくなって、私の視界は真っ暗になりました。あの方が指輪をつけることは無くなりました。大好きな指輪も、あの方も、私の前からいなくなりました。私の体を拭いてくれなくなりました。微笑んで貰えなくなりました。

 結局私は、私と同じようなものが大勢いる場所に連れていかれました。それがどこだったかは覚えていないのですが…そこでは体は拭いてもらえましたが、人が来ても私を覗き込むのは物珍しそうな顔か無関心な顔ばかりでした。あの方のように微笑んでくれる方はいませんでした。


 寂しい、寂しい、あの方に会いたいと思っていたら、私は自由に動けるようになっていました。やっと動けるようになったのです!私は指輪をつけたあの方に会いたいのです!

 ごめんなさい、これ以上のことはわかりません…



 つまり、指輪と人を探して欲しいという訳か…なんだか盛大に惚気られたような気持ちだ。四十を超えて独身の男にはなんだか気まずくて、俺はほぉと間抜けな声で相槌を打った。

 それにしてもこの女の幽霊は、よく見ればなかなかの美人である。先ほどのおどろおどろしい雰囲気はどこへいったのか、淑やかに腰掛ける彼女は、生前は体が不自由だったと言っていたがそれを感じさせない。年齢は十代後半から二十代前半といったところだろうか。小さめの鼻にほんのりと染まった頬は、切れ長の目を持つ彼女の雰囲気を柔らかいものにしている。薄い唇にはナチュラルな口紅。艶のある黒い髪を耳の上あたりで後ろにまとめて結い、アンティークな髪飾りをつけている。茜君はこういう髪型をハーフアップだと言っていた気がする。上品なブラウスと膝下まで丈のあるスカートを身につけているのも相まって、良いお家柄のお嬢様のような感じだ。


 なお、美人だからと言って見とれているわけでは無い。外見も大切な手掛かりなのだ。先ほどの話をまとめたカルテに外見の情報を追記しつつ、彼女に話しかけた。


「話はわかりました。それでは、このご依頼が完了するまでなんとお呼びすればよろしいでしょうか。名無しの権兵衛ではいけませんから。」


 彼女は少し考えてから、少し申し訳なさそうに言う。


『それでは…キョウコとお呼びください。』

「ほぉ、良い名前ですね。呼びやすい。これはあなたのお名前ですか?」

『いえ、今ふと思いついたのです。何故だかキョウという響きが記憶に残っていて。」


 一通りの情報をヒアリングできたところで既に夜も更け十時を回っていることに気付き、今日のところはこの辺りにしておこうと話を締める。


「キョウコさん、昼間は出てこれますか。もし可能であれば明日木曜の三時以降に、あなたに関連が深い場所を見て回りたいのですが。」


 キョウコがええと頷いたのを見て、こう続ける。


「それでは、明日三時にまた当院へいらしてください。休診日ですので、生きている方たちは居ませんのでご安心を。ご依頼代はお気持ちで結構ですよ。では、お大事に。」


 ありがとうございました、と軽く頭を下げて、診察室を出て行くキョウコの背を見送る。全く、普通に立ち去れるのだから普通に現れてくれれば良いものを。それが幽霊の性なのだろうかね。


 やれやれと立ち上がり、我慢していた煙草に火をつけて、窓に向かってふうっと煙を吐く。煙はだんだんと薄くなって、空と馴染んで消えていく。

 俺も死んでしまったら、キョウコのように自分が誰でなんだったのかも忘れて、誰かに助けを求めて彷徨うことになるのだろうか。まぁ考えても無駄なことなのだが。


 明日は駆けずり回ることになりそうだ。もう寝ようと軋む窓をガタガタと閉め、照明を消し、病院の奥にある自宅への入り口に向かう。自宅は病院と廊下で繋がった平屋で、俺は今、生まれ育ったこの家で一人暮らしをしている。

 軽くシャワーを浴びて自室に戻り、畳の上に布団を敷く。布団の上で冷蔵庫から持ってきた缶ビールを呑みながら煙草をふかし、なんとなくテレビを点ける。これがいつものルーティンなのだが、今日は疲れたらしい。早々に瞼が重くなってきた。

 部屋の照明を消し、もそもそと布団に潜り込む。明日はまずキョウコが住んでいたと言う家を訪ねてみようと考えながら、俺は眠りに落ちていくのだった。

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