SF(サラリィマン・フィクション)

イナミ ユキヒデ

第1話 国粋公社【人事評価】

 シュウサクは黒樂茶碗チョウジロウを手に取り、音を立てながらひと口飲む。まったりとした濃茶はまるでトランキライザーのように、彼の手の震えや精神の崩壊を押し鎮める。数瞬前まで脳内を支配していた先の交戦の記憶――禍々しいパンスラヴ社の駆逐艦や死んでいった下級戦闘員ジツヨウたちの姿――がようやく霧散し、彼を戦闘後遺症から解放する。


「お服加減は?」

 父の問いかけに、シュウサクは「いつもどおり、不味いよ」と即答する。

 シュウサクは戦闘任務が終わると必ず、父がひとり暮らしをしているタワーヴィラを訪れ、ヴィラの最上階を一室をまるごと改装してつくりあげたこの茶室で濃茶をふるまってもらうことにしていた。自らの安否を父に知らせるという大義名分をかかげていながらも、実態としては自分自身の荒んだ心を癒す目的の方が大きかった。ふだん心から気を許せる相手のいない彼にとって、多少距離はあっても利害関係のない家族という存在は精神衛生上欠かせないものだった。


 父が「雪月庵」と名づけたこの茶室は広さ四畳半の小間で、わざわざ壁を土壁に塗り替えてびた風情がでるように工夫されている。室内採光は明かり障子と三日月形に切られた天窓だけでまかなわれていて、時の経過とともに微妙な陰影が移ろっていくつくりになっている。

 床の間には青磁の花入れに活けられた蝋梅ろうばいと掛け軸がしつらえられている。掛け軸は、下から真ん中にかけて六つの星をしたがえた恒星系が墨で描かれていて、そこから大きく余白を取って遠景にひときわ薄くもうひとつの星が描かれている。はかなげで消え入るような薄墨で表現されているのは、人類のかつてのふるさとである地球だ。父はその掛け軸がとても気に入っていて、折にふれて床の間に飾っていた。


「このお茶の味がわからないと」父は畳の上についていた手を離して腕組みすると、あきれ顔でそう言った。「今日は抜群にうまく点てられたんですが……」

「通用しなくてもうしわけないとは思うけど」

「飲んですこしは落ち着きましたか?」

「はじめから取り乱していません」

 嘘でもそう言い張る。正直なところ、いつだって交戦直後は自分を保つので精いっぱいだった。生きるか死ぬかのストレスにさらされるなかで、精神は汚水のしみこんだ連続気泡構造体スポンジみたいに内側から腐れていく。シュウサクはこの茶室で父が点てたお茶を飲むことでようやく文字どおり自分を取り戻すことができていた。

 たしかな効能にはちゃんと理由があって、それは「混ぜ物」だった。本人は気づかれていないと思っているようだが、父がお茶の粉に強い精神安定作用のある漢方をこっそり混ぜていることをシュウサクは知っていた。たとえ話ではなく、のは紛れもない事実で、お茶が不味いのも飲む側の味覚がポンコツなのではなく、不純物のせいだった。

「でも、この不味さはまちがいなく健康にいいと思ってるよ。飲むと目がさめたような気分になるし」

」父は注意深く言いなおす。「そもそも毎日眠れてるんですか?」

「四時間くらい」

 軍部局が定めているガイドライン(七時間)を大きく下回っていることを父に指摘されたが、実は四時間というのもはったりで、ほんとうは三時間眠れればいい方だった。せっかく睡眠導入剤の助けを借りて眠りについても、いつも二時間もすると目がさめてしまうのだ。そして、一度起きてしまうと、そのあとふたたび眠りにつくことは決してできなかった。

「眠りが浅いのは過剰なストレスが原因です。私も経験してきたからよく知っている。そして、ストレスの常態化は精神を蝕む。気づいたときには手遅れになっているケースも多い。一度、軍医に診てもらったほうがいいですよ」


 父はシュウサクを見据えたまま気難しい顔をしている。顔の中心で鋭く一文字を描くフラットな鼻に弓なりの眉、それに黒目がちな目はシュウサク自身も色濃く遺伝子を受け継いでいる。

 一方、三日月を仰いだような澄んだ口元はシュウサクのもったりとした厚い唇が並んだ口とは対照的で、きっと自分の口は母に似たのだろうとシュウサクは昔から思っていた。彼は父の三日月口を眺めながら、父と自分がちがう存在なのだというあたりまえの事実をつよく意識する。


「軍医に診てもらうには、必ず上官の承認が必要なんだ。評価に響くからできない」

「上官に知られたくないなら町医者に行けばいいんです。もしくは産業医という手もある。昔の知り合いで腕のいい医者がいますよ」

「軍属以外の医者に診てもらったことがバレたらもっと評価に響く。父さんだってよく知ってるはずだ」

 いつものやり取り。自分が健康診断ドックの申請をあげさえすれば、父にも心配をかけなくて済むことはよくわかっていた。もちろん自分の身体に不安がないわけじゃない。むしろ医学的処置が必要なレベルまで追いつめられているにちがいないと自分でも思っている。でも、せっかくこれまで最速のペースで昇進してきたんだ。ここで自分の人事評価に傷をつけるわけにはいかない。一度躓いたら、あっという間に同期生たちに追い抜かれてしまう。

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