第4話

「由乃。便箋を四つにしよう。席を外してくれないか」


思わず奈落はそんな事を口走っていた。


「便箋はそんなにいらないわ」


「じゃあ便箋は諦めろ。その代わりフルーツパーラーに連れて行ってやる」


「粗茶でもお入れ致しましょうか」


「大丈夫だ、問題ない」


「じゃあ鼓梅ちゃんところに遊びに行ってくるわ。ごゆっくりどうぞ」


大変に賢い妹だと奈落は思った。今度鼓梅も一緒にフルーツパーラーに連れて行く事にしよう。


由乃は笑顔で千代に軽く会釈すると、小走りで外へ駆けて行った。


「あの…大丈夫でしょうか。お取り込み中だったのでは…」


「問題ありませんよ。あれは妹でして。友達のところに遊びに行ったようです」


「そう…ですか…」


バタバタした空気から一転して、静寂が訪れる。とはいえ、奈落は内心動揺していた。昨日の男と女給の睦み合いが頭から離れない。


「…今日は、百香さんは?」


「午前中、お医者様のところに行きまして。馴染みの医院ですので、看護婦さんもよくしてくれるんです。仲の良い看護婦さんにくっついて離れなかったので、その間にお医者様からの処方薬を頂こうと思いまして…」


「あぁ、そうでしたか…え?ということは、うちの薬店をご利用くださるのですか?」


「ええ、特に懇意にしている薬屋はありませんし、折角だからと思いまして」


「…それは有り難いですね」


そういいながらも、奈落は妙だ、と思った。辺氏はこの店を出入禁止にされている。その情報共有が夫婦間でなされていないのだろうか?


いや、あの辺氏と千代の夫が同一人物とは限らないのだ。


「…奈落先輩?」


名前を呼ばれて、どきりとする。別に自分がやましいことをしたわけではないのだが、なぜこんなにも後ろ暗い気持ちになるのか。


すると、千代はふっと、奈落に微笑みかけた。


「先輩がお目の方を作らなかったのは…」


千代の視線に、胸をぎゅっと掴まれたような気がした。何故。何故今その話を…


「あんな可愛らしい妹さんがいらっしゃるからなんですね」


「…は?」


「ごめんなさい、少し聞き耳を立ててしまいました」


一瞬なんの事かわからなかったが、冷静になって思い出した。そうか、さっきの由乃とのやりとりか。


「あれですか…。まぁ、嘘ではありませんが」


奈落は一息ついて、着物の中に隠していた首飾りのペンダントトップを出した。銀の爪の中に収まっている石は、月長石。


「…操を立てていたのです」


千代がじっと奈落を見つめている。その表情は少し強張っているようにも思う。


「噂で聞いたことがあります。奈落先輩には想い人がいて、その方から頂いた月長石をずっと大事に身につけていらっしゃると…」


「…火のないところに煙は立ちません。噂にも正しいところはあるかもしれませんね」


「先輩の想い人は幸せな方ですね。そこまで想われてらっしゃるなんて…」


ブチリ。


千代が言い終わる前に、奈落は首飾りを引き千切った。首飾りは繋ぎ目が無残に歪み、奈落の首には小さな引っ掻き傷が出来た。


「あ」


「もう必要の無いものなのです。私が自分で自分を縛っていただけです」


千代が、奈落に背を向けた。肩が強張り、少し震えているようにも見える。


「…辺 壮吉。それが旦那様のお名前ではありませんか?」


「…はい」


当たっていて欲しくはなかった。だが、それは間違いなく奈落に暴言を吐いたあの男の名前だった。


首の小さな傷がチリリと痛む。


「旦那様を、昨日カフェーでお見かけしました」


千代の首が項垂れる。その肩は確実に震え、今にも崩れそうなほど脆いものに見えた。


抱いてもいいだろうか。奈落はそんな事を考えていた。抱き留めなければ崩れてしまうのではないか。この人を支えて繋ぎ止めたい。気付けば奈落の手は千代の方に伸びていた。


いや、何を考えている。そう思って手を止めたその瞬間、千代がこちらを向いた。目に涙を溢れさせて、縋るような瞳で奈落を穿つ。その瞬間、奈落は千代を抱きしめていた。


抑えていた千代の声が漏れ始め、やがて号泣に変わる。奈落は出来るだけ強く千代を抱き締めた。


どうか。どうかこの手の震えは、彼女に伝わりませんように。

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