第5話

奈落が濡らしたハンカチを手渡すと、千代はそれで目元を押さえた。


「申し訳ありません…お召し物を汚してしまいました」


「いえ、構いませんよ。羽織で隠してしまえば今日のところは目立ちませんし」


千代の気持ちを落ち着かせる為、ソファに座らせて白湯を渡した。涙はおさまった様だが、千代の目元はまだ赤い。


「何と無く…わかっていたのです。以前から帰りが遅くなる事はありましたから」


「お義母様は何もおっしゃらないのですか?一緒に暮らしているのでしょう?」


「…私は石女うまずめも同じですから、私に責があると」


「そんな…」


子どもをもうけているのに、石女扱いとは。男児を産めなかったことは千代のせいではない。第一、夫が家にいなければ子が出来ようもないのに。


「…よく、頑張ってこられましたね」


そう声をかけると、千代はまた目に涙を湛えたが、手元のハンカチでそっと目元を隠した。


奈落には子どもがいないので、実際のところがどうなのか見当もつかないのだが、妊娠・出産の労力がただ事ではない事は聞いている。彼女は既にそれを一度乗り越えているというのに、なんという言い草だろうか。


先程の号泣で彼女が薄く施していた化粧は、だいぶ落ちてしまっている。特に目元は、僅かに赤く腫れてしまっていた。


「ちょっと待ってて下さいね」


奈落は席を立ってカウンターの影にある小さな鏡台のところに行き、手鏡と小さな軟膏入れを手に取った。普段あまり化粧をしない奈落の、数少ない化粧品のひとつである。奈落は蓋を開けながら、千代のもとに戻った。


「涙は落ち着きましたか?少し目を閉じていて下さい」


「え…?」


千代は訝しがりつつも、言われた通りに目を閉じる。軟膏入れの中に入っているのは、青緑色の粉末。奈落は千代に出した白湯を拝借して指先に垂らすと、その粉末を指につけた。


「失礼します」


反対の手で千代の顎を支え、色の付いた指を目蓋の上に滑らせる。指の先に、千代の柔らかい皮膚の感触。奈落は注意深く、千代の目蓋に色をのせていった。


「…確認してみて下さい。如何でしょうか」


指を離して、手鏡を千代に渡す。千代は恐る恐る目を開けると目の前の手鏡を手に取って覗き込んだ。


「これは…アイシャドウですか?」


「孔雀石の粉です。目元が赤くなっていましたので、これで少しは誤魔化せるかと。発色もそれ程強いものではありませんので、きつくは見えないと思います」


「まぁ…よく職業婦人の方がアイシャドウを引いてらっしゃるのは見かけましたが、このぐらいの色付きでしたら確かに私でも違和感はないと思います。…ありがとうございます」


千代は奈落を見上げて薄く微笑んだ。色付いた目元が先ほどよりも僅かに艶を含み、涙で潤んだ瞳が奈落を捉える。なんとも形容し難い衝動が、奈落の背筋を駆け抜けた。


「あら。奈落先輩…血が」


千代が奈落の首元を見て呟いた。先ほど首飾りの鎖で傷を付けた首元から、血が滲み始めていた。


「ああ、血が出ていましたか。後で消毒を…」


「じっとしていて下さいませ」


今度は千代が、奈落の首元に手を寄せた。いけない。衝動的に奈落は千代を引き剥がそうとしたが、反対側の手で奈落の手に指を絡められて、金縛りのように動くことができなくなった。千代の柔らかな髪が奈落の頬を掠める。次の瞬間、首筋に生暖かい湿った感触が当たった。


「ーーーッ…!」


千代の唇が、奈落の首筋に触れていた。そのまま唇が動いて、柔らかい舌が傷口をなぞる。ゾクゾクとした、寒気とも眩暈ともつかない衝撃。痛みの奥で疼くようなその感覚に、奈落は無意識に唇を噛んでいた。


どのぐらいそうしていただろう。やがて千代の唇が離れていって、奈落は大きく息をついた。


「これで大丈夫…先輩!?」


奈落はソファに崩れ落ち、浅い呼吸を繰り返す。突然の事に驚いた千代は、慌てて奈落の顔を覗き込んだ。


「先輩、どうされましたか!?」


奈落の顔は赤く染まり、その目を潤ませている。心臓の音がうるさく、早く打っているのを自覚した。


「大丈夫…です。すぐに…収まります…ので…」


掠れるような声を絞り出す。ああ、今の自分を見られたくない。


千代は、何かに気付いて、そっと奈落の手を握った。


「あの…奈落先輩。先ほど、操を立てている、と仰っていましたよね…」


「…はい」


「失礼な事を聞いてしまうかもしれません。お気を悪くされたら申し訳ありませんが…」


「…なんでしょうか」


「もしかして…先輩は…あの、生娘…で、いらっしゃいますか…?」


瞬間、奈落の顔が更に赤くなる。それが殆ど答えのようなものだったが、奈落は顔を俯けて、絞り出すような声で答えた。


「…はい」


2人の間に妙な沈黙が走る。


つまり、接触に対する奈落の過剰な反応は、経験の少なさに起因するものだったのだ。


くす、と千代の笑う声が聞こえた。奈落は居たたまれず、顔を俯けたまま両手で覆った。


「あぁ、すみません…ごめんなさい、顔を上げて下さいまし…」


「あの…こちらこそ申し訳ありません。ずっと勉強と、石と、商いの事ばかりで生きてきたので…そんな機会が殆ど無くて…お恥ずかしいです」


千代としては、そういう意識でした事ではなかったのだろう。だから奈落は余計に恥ずかしかった。そういう風に感じてしまった事が。


「…奈落先輩は、凛々しく、独特の空気感をお持ちで、私たち下級生はとても憧れを抱いておりました」


奈落はそれを聞いて、幻滅されてしまったのだろうか、と思った。これは余りにも、格好のつかない状況だ。


「だから、先輩のこんな姿、他の方は想像つかないでしょうね。こんな可愛らしい一面をお持ちだなんて」


千代の言葉は奈落の想定外だった。奈落は顔を上げると、薄く微笑んだ千代の姿があった。孔雀石の青緑色が、少し妖艶にすら見える。


「驚かせてしまって申し訳ありません」


「いえ…こちらこそ取り乱してしまいまして…」


自分が施した化粧であるのに、千代の涼やかな目元から目が離せない。気持ちが落ち着かず、未だに動悸の変調が体を支配している。


その瞬間、奈落に千代の体が覆い被さった。腕を回されて、柔らかい体に包まれる。奈落は再び頭が真っ白になった。


耳元で吐息のような千代の囁きが聞こえる。


「奈落先輩…私の『お姉様』になって頂けますか?」


それは、エスの関係を結ぶ誘惑。今の奈落に、それを拒絶する理由も、理性もなくなっていた。


「はい…千代さん」


腕を伸ばして、奈落も千代を抱き返した。腕の震えは、多分気付かれているのだろうと思いつつ。

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