第3話
飲み過ぎた。したたかに飲んでしまった。
なんとか店は開けたものの、完全に二日酔いだ。あの後物思いに耽ってしまい、家でまた飲み直してしまった。普段10日程かけてチビチビやる一升瓶が、すっかり空になっている。その前にもカフェーでそれなりに飲んでいたので、相当な量だ。奈落は元々あまり酒は強くない。普段はこんなになるほど飲む事は無かったが、考え込んでいるうちに無意識に酒が進んでいたようだ。
あの後、辺という姓の男は女給を連れて店の奥に消えて行った。という事はつまり、そういう事なんだろう。女給の肩を抱き寄せ、腰に手を回して、接吻を繰り返していた。ああいう場では別に珍しくもない光景だ。奈落とて、男を気にすることがなければ見逃していた。
だが、男の名は千代と同じ辺だった。
千代の夫は昨日「遅くなる」と言っていた。そこまで考えて、いや、馬鹿なと考えを打ち消す。旦那様の親族の誰かなのだろう。きっとそうだ。
だが、そこまで考えても千代の憂いを帯びた笑みが頭から離れない。
溜息をついて、とにかくしゃんとしなければと思い、酔い止めを調合しようと薬棚に目をやる。
「ええと…解毒作用があるのは蛋白石、翡翠あたりか。吐き気止めは黄玉と…」
奈落は手を止めた。月長石。今一番見たくない石だ。
コレを使うのは今日はよそう。手に取ったそれ以外の石を精製し、調合を始めた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
奥から少女の声がした。店の奥にある階段から、奈落を姉と呼んだ少女が顔を覗かせた。
「由乃。いいところに来た。姉はもう動きたくない。酔い止めを調合しろ」
「げ。様子見に来るんじゃ無かった」
由乃と呼ばれた長髪の少女は、そう言って手摺の影に隠れる。
「お駄賃はこの前欲しいと言っていた竹久夢二の便箋でどうだ」
「やだ、私が欲しいと言っていたのは夢二じゃなくて高畠華宵よ」
「なら華宵でもよい。切手もつけよう。どうだ?」
「しょうがないわねえ」
由乃は手摺の影から再び顔を出すと、指を二本伸ばしてみせた。
「ふたつで手を打つわ」
「良かろう」
由乃は満足気に下に降りて来た。文具で釣られてくれるとは、安上がりというか大変に年相応の少女らしい妹である。
由乃は奈落と一回り近く年の離れた妹で、今年女学校に入学した。奈落の母校と同じ國立こくりつ雲水峰うづみね高等女学校だが、数年前に制服が変わったらしい。奈落の時代は着物に袴であったが、彼女は二本線の入ったセーラー服だ。お姉ちゃんのお下がりを着たかったのに、と本人はむくれていたが、今風のセーラー服も彼女にはよく似合っている。
由乃は奈落から石を受け取ると、石を煮沸したり挽く準備を始めた。奈落ほど石の扱いに長ける訳ではないが、彼女もまたこの家で祖父や奈落の仕事を見て覚えたクチである。由乃の気が向いた時ではあるが、店を手伝ってくれる事もあるので奈落にとっては貴重な人手だった。
「でも珍しいわね、お姉ちゃんが飲み過ぎるなんて。何かあったの?」
「いや…まぁ、あったと言えばあったし、無かったと言えば無いのだが…」
「なによ、煮え切らない言い方ね」
「まぁ、大したことでは無いよ」
「飲み過ぎてるんだから充分大したことになってるじゃない」
「うぐ…」
どうにも、この妹はこういう時勘が鋭い。12歳の割には少々早熟な所がある。
「…なぁ、女学校にはまだ、エスが流行っているのか?」
話題を変えよう。そう思って奈落は由乃に話しかけた。
「えす?…あぁ、お姉様ってやつね。あるわよ。この前鼓梅ちゃんが上級生の方からお声をかけられていたわ」
「ほう。あの娘は大人しいし器量もいいから、有りうるだろうな」
鼓梅というのは由乃のクラスメイトで、何度か遊びに来ているので奈落も面識があった。身内の贔屓目になるが由乃もなかなか器量は良い。だが、きつい印象を与える目元が、少し人を遠ざけているようだ。鼓梅は反対におっとりとした可愛らしい娘で、とても人当たりが良い。彼女は男女問わず人を惹きつける魅力があると思った。
「そうねぇ、でも彼女はあの通り可愛らしいし、お裁縫もそつなくこなすし、すぐに旦那様が決まって学校から離れるんじゃないかしら。見目が良い娘は卒業まで残る事は少ないって聞いたわ」
「まあ、そうだな」
むしろ、卒業まで残る生徒は影で卒業面と言われる。縁談の決まらなかった、器量の良くない娘という意味だ。奈落も自身が影でそう言われていた事を知っている。
「お姉ちゃんはどうなの?話を振ってくるってことは、あったんでしょう?エスが」
内心、しまった、と思った。墓穴を掘ってしまった。
「私には実際の妹のお前がいたからなぁ。別に学校でまで妹を作ろうとは思わなかったよ」
「ふうん…じゃあ、妹にしたいっていうお姉様は居なかったの?」
「…そんな変わり者のお姉様は居なかったな」
「ま、そりゃそうか。はい、出来たよ酔い止め」
由乃が調合を終えた薬を奈落に手渡す。なんとか無事に誤魔化せただろうか。奈落は冷や汗を悟られないように薬を口に含み、薬缶から湯呑みに白湯を注いで、それで薬を流し込んだ。
その時、入り口のドアを開ける音がした。
「はい、いらっしゃ…」
「あの…こんにちは」
そこに居たのは、奈落が昨夜からずっと想いを馳せていた女性…千代が佇んでいた。
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