第36話 正体

 夕方、再び学校に戻った千里は教室で人を待っていた。他に生徒はおらず、身を縮こませながら一人で考え事をする。


 小夜との話し合いを終えて、最初に茜と連絡を取った。写真をきっかけに二人の関係は終わり、それから数時間しか経っていない。しかし、茜はすぐに会ってくれた。


 その一方で、説明を納得してはもらえなかった。全てを正直に伝えたところ、茜には憎悪感しか残らなかったのだ。


 憐れんだ目で一瞥した後、茜は無言で去ってしまった。千里が傷つくことはない。しかし、何度呼吸を重ねても震えは抑まらなかった。


 ただ、感傷に浸っている時間はなく、その後すぐに美波に連絡を取った。その結果、いつものファストフード店で会う約束を取り付けた。


 千里はそこで、美波には写真が送られていないことを知って驚いた。クリスマスイブの写真が意味をなさないことは分かっていたが、別の写真が送り付けられていると推測していたのだ。


 それでも千里は美波に同じ話をした。その間の美波は多様な反応とともに多くの表情を見せた。そして最後は笑顔で落ち着いた。


 千里は美波を裏切った。しかし、それ知っても千里を悪く言わないばかりか、慰めの言葉まで与えた。


 これは直接的な被害を受けていないことに起因するのかもしれない。「それが本当でも、クリスマスイブは一緒にいてくれて自分から全てを告白してくれた。それは私が一番大切だからなんでしょ」美波はそう言って笑ったのである。


 自らの蛮行を何度説明してもその評価は変わらず、新しくやり直せばいいと美波は関係の破綻を拒んだ。できないと伝えても聞いてもらえず、千里は予想していなかった点で話を詰められなかった。


 そうして今、千里は紗花を待っている。紗花は連絡に素早く反応してくれたが、最初は会うことに難色を示した。後になって了承してくれたことに小夜が一枚噛んでいることは明白だった。


 紗花は約束の時間に小夜と現れた。この場に小夜がいる事実は、栞奈を傷つける意思がないことを証明している。これで謎の男である可能性は完全になくなった。


 三人目ということもあって説明は最短で終わり、その結果紗花は涙を流した。小夜は必死に紗花を抱きしめ、千里と同じように謝っている。紗花の姿は二人に苦痛を与えた。


 紗花が落ち着くまで少しの時間が流れる。そうして最初に飛び出した言葉は短かった。


 「嫌い」


 その声は非常に小さく、俯く紗花の顔色は確認できない。しかし、その一言に千里は壊れそうになった。


 「……ごめん」


 隣では小夜も泣いている。そんな小夜には優しい視線が向けられた。


 「小夜がそう言うのなら信じる。だけど、それで北山君はどうしたいの?説明が終わったから、後はその幼馴染と話し合って終わり?」


 「紗花の望むようにする」


 「私に決めさせるの?本当に酷いね」


 「………」


 声を張る紗花は腫れた目で睨む。千里に返す言葉はなかった。


 「小夜、どうしたらいいの?教えて?」


 今度は小夜に話しかける。ただ、声を詰まらせる小夜は何かを話せる状況になかった。


 「私は小夜を信じてる。私のために黙っていたんだよね?……でも、それは間違いだった」


 「ごめんなさい」


 紗花は小夜の手を優しく握る。そして再び千里に視線を戻した。


 「じゃあ、北山君は私のことなんて好きでもなんでもなかった。幼馴染がただ大切で、その人のために私が傷ついても何とも思わなかった。それで間違いない?」


 「それは……その通りだ。栞奈のためならどんなこともするつもりだった。誰が傷ついても気にしないつもりだった」


 「釈然としない言い方はやめて。この期に及んでまだ隠し事するわけ?」


 千里の話し方に紗花は文句をつける。紗花が嫌がるのであればはっきりと伝えるしかない。


 「隠し事はしない。紗花の告白は都合が良いと思ったし、人に言いふらさない性格も好条件だと思った。……だけど、今は苦しくて仕方がない。後悔してもしきれない」


 「それはどうして?人として悪いことをしたから?」


 「違う。紗花が好きだから」


 千里はまっすぐ前を見る。その瞬間、小夜に胸ぐらを掴まれた。


 「私の前でまだそんなこと言えるなんて!?紗花をまだ傷つけたいの!?」


 「そんなつもりは」


 「やめて、小夜。落ち着いて」


 千里がされるがままになっていると、紗花が小夜を引き剥がす。離れてもなお小夜は恐ろしい形相を保っていた。


 「その言葉は嘘じゃない?」


 「誓う」


 「幼馴染が悪人かもしれなくて、その人を好きでいることが許されないから?」


 追及は静かに行われる。千里は大きく息を吸って返答した。


 「栞奈の正体が何であってもこの気持ちは変わらない。迷惑なのはよく分かる。けど、嘘はつかない」


 「卑怯者!……人を騙し続けて何が正しいことなのか分からなくなったんでしょ!?」


 小夜は立て続けに千里を厳しく非難する。紗花はそれを目で制止させた。


 「そうかもしれない。僕の善悪の感覚は狂ってる。間違った正義感なのかもしれない。だけど、この言葉に間違いはない」


 小夜の言う通り、千里は半年以上に及んで人を騙して生活してきた。崇高な理由があったはずだが、今では形容できなくなっている。千里にできることはこれ以上罪を重ねないことだけだった。


 紗花は視線を落としている。しかし、間を置くことなく口を開いた。


 「私は北山君が嫌い。好きになったことを後悔してるし、もう顔も見たくない」


 冷たく吐き捨てられる一言一言が千里の胸に刺さる。今までに感じた何よりも痛い。


 「それに北山君のことは信じられない。……だから、どうやって解決するのか見せて。その言葉が真実だったら恨むことはしない。友人に戻ることもできないけど、それくらいは約束してあげられる」


 事実上の絶縁宣言に千里の頭は真っ白になる。紗花は鋭い視線で確認を求めた。


 「……分かった。そうする」


 千里が了承すると、紗花はすぐに小夜の方を向く。顔を見ることさえ嫌がっているようだった。


 「それで……これからどうするつもり?」


 疲れ切った顔の小夜が問いかけてくる。千里は一つの方針を示した。


 「栞奈と連絡をつける。もし音信不通が続くようなら、故郷に戻って直接会う」


 「それはだめ。なぜなら、私にはずっと連絡が届いてるから。ついさっきもほら」


 小夜はそう言って携帯の画面を見せてくる。その電話番号は千里が知る栞奈のものと一致していた。協力を引き出すためか、栞奈は小夜に対して素性を隠していない。小夜が千里に協力することは予想されていない事態のようだった。


 「私はずっと栞奈と連絡を取ってた。栞奈……つまり男が千里君の周辺を理解できていたのは私が伝えていたから。でも、今は無視してる。だから栞奈は状況を理解できていない」


 「だから僕の連絡には反応できないと?」


 「きっとそう。それに栞奈はとても危険。会いに行けば言いくるめられるかもしれない」


 小夜は栞奈を恐れている。ただ、男と栞奈を重ねられない千里にはその感覚が理解できない。


 「そう言うのならそれに従う」


 自分勝手な行動はもうできない。栞奈の肩を持とうとしたところで小夜はそれを許さず、紗花はそんな小夜に追従する。今は栞奈の連絡を待つほかなかった。


 この日はこれで解散することになった。紗花は小夜と一緒に帰り、千里は一人で極寒の街を歩く。気温は氷点下二桁に近い。寒さと痛みが千里を襲った。


 帰宅した千里はもう一度栞奈に連絡を取ったが、結果は同じだった。留守電を聞いてくれているかさえ分からない。今の栞奈が気になってその日はあまり寝付けなかった。


 次の日、起床した千里はバレンタインで貰ったプレゼントの感想を考えていた。しかし、千里はそれを食べていないばかりか感想を伝えられる立場にいない。寝ぼけた思考を切り替えるのに苦労した。


 ただ、携帯の通知を見て千里は一気に覚醒した。千里が寝ていた僅かな時間のどこかで、栞奈がメールを送ってきていたのだ。内容は手隙に電話してほしいというもので、具体的な用件には触れていない。小さな希望を抱く余地はまだ残っていた。


 すぐに電話しようかと考えた千里だったが、何とか思いとどまって家から飛び出した。何度も滑って転びそうになりながら走り、学校に到着するなり小夜と紗花の姿を探す。連絡は二人と話し合ってからの方が良いと判断したのだ。


 しばらくして一緒に登校してきた二人を見つけ、千里は駆け寄る。その様子を周囲の数人が不思議そうに見つめ、紗花を守るように小夜が前に出てくる。千里は興奮気味に経緯を説明した。


 「栞奈から連絡があった。今日電話してほしいと」


 その言葉を聞いて小夜は目を見開いて驚く。しかし、すぐに千里を脇へ追いやった。


 「どうしてそれを私たちに?」


 怪訝そうな顔になった小夜は、困惑している紗花を引いて千里の横を通り過ぎようとする。千里はそれを遮って問いかけた。


 「電話しても?」


 「勝手にすればいいでしょ?」


 小夜は冷たく言い返す。千里はそんな反応に口を閉ざした。紗花はやり取りをただ見つめている。


 「……分かった。それじゃあ」


 栞奈と連絡を取るにあたり、小夜の協力があれば心強いと思っていた。ただ、それが期待できないのであれば一人で対処するしかない。千里は一人になれる場所を探した。


 しかし、そうして階段を下りていると後ろから腕を引かれる。振り返ると小夜が一人で立っていた。


 「紗花の前でその話題を振らないで。昨日の今日でまだ理解できてないの分かってる?」


 「あ、いやごめん」


 「……それで?どこで話すの?」


 小夜は協力してくれるらしい。千里は校舎裏を選択した。


 「電話の前に一つだけ。私が協力するのは紗花を頭のおかしい人間から守るため。だからここでしっかり約束して」


 目的の場所に到着して、小夜が千里に詰め寄ってくる。千里が頷くと条件を提示した。


 「紗花を危険に晒すような話や約束は絶対にしないこと。それと私の指示には必ず従うこと。分かった?」


 「……ああ。その代わり栞奈が傷つくような話題を振れないことも理解してほしい」


 「栞奈がどうして傷つくの?そんな馬鹿なことは考えなくていい」


 「僕にとってはまだ守るべき人なんだ。もう訳が分からなくなってるのは間違いない。でも、今はまだ」


 どんなに栞奈の悪事を聞かされても、直接的な証拠がない限り気持ちは変わらない。小夜は面倒そうに頷いた。


 「じゃあかけるよ」


 千里は悴む手を動かして携帯を操作し、覚悟を決めて通話ボタンを押す。通話にはイヤホンを使い、小夜と一つずつ共有した。栞奈が電話に出たのはすぐ後のことだった。


 「も、もしもし」


 千里から声を出す。すると、小さな息遣いの後に声が返ってきた。


 「久しぶり。待ってたよ」


 懐かしい栞奈の声。千里はひとまず安心した。


 「何度も連絡してごめん」


 「ううん、私が悪いの。……色々とあったから。ごめんなさい」


 栞奈の声に変化は見られない。小夜が隣で聞いているためか、千里の緊張は尋常ではなかった。


 「声が聞けて嬉しい。でもどうしたの?」


 「実は聞きたいことがあって。……なんて言ったらいいのか分からないんだけど」


 決心していたはずの千里だったが直前で躊躇ってしまう。もし小夜が正しかった場合、掛ける言葉が思い浮かばなかったのだ。


 「言って」


 電話越しに栞奈から催促されると同時に、小夜から肘で小突かれる。千里は一人で頷いた。


 「急に変な話をするけど、去年の春からずっと誰かに脅迫されてて」


 「え……なにそれ?本当に?」


 栞奈の返答は意外だった。小夜も驚いた表情をしており、嬉しい誤算ではあるが考えが纏まらなくなる。


 「それで栞奈に聞きたいんだけど。……どんなことで脅迫されていたと思う?」


 千里から本質的なことは話し出せない。栞奈がもし無実だとして、千里から疑いをかけることはあまりにも酷だからである。本当に事情を知らないのであれば、後から変な電話をしたと謝ればいいだけなのだ。


 「分からない。……あの事件が関係してたりするの?」


 栞奈が事件のことを話題に出す。その時だけは声が震えていた。


 「嫌なことを思い出させてごめん。……実はその通りなんだ」


 「どんな脅迫をされてるの?ちゃんと誰かに相談してる?」


 栞奈は千里を心配して色々と問いかけてくる。千里はそれを聞いてもう一度小夜を見た。栞奈の反応があまりにも小夜の説明と違っていたからである。すると、小夜は携帯を操作して素早くそれを見せてきた。メモ帳には私のことを話題に出してと指示が打ち込まれていた。


 千里が驚いて首を横に振ると、約束を思い出せと追加で打ち込んでくる。千里は従うしかなかった。


 「相談は栞奈が初めて。栞奈に変なことが起きてないか心配で連絡してたんだ。それで……なんだけど、知ってるかどうかだけでいいんだけど、大林小夜って名前に聞き覚えはない?」


 「え……」


 千里が尋ねた瞬間、栞奈は僅かに声を漏らして黙る。沈黙が我慢できなかった千里は言葉を加えた。


 「知らないならそれでいいんだ。その言葉が聞きたい」


 栞奈を試すようなことはできない。目的は真実を知ることだけなのだ。


 「……はあ、そっか」


 千里は淡い期待を抱き続けていた。しかし、聞いたことのない暗い栞奈の声が届いてきて、千里は唾を飲み込んだ。


 「やっぱりもう知ってたんだ」


 先程までとは違い、抑揚のない声が響く。千里は強く目を瞑って全ての息を吐き出した。


 「……説明して。栞奈」


 千里も声が低くなる。希望は全て消えてしまったのだ。


 「大体は小夜から聞いてるでしょ?」


 「違う!栞奈が僕を脅迫していた理由だ!」


 千里は自分を止められなくなる。栞奈に怒鳴ったことは今までになく、ただ胸が痛くなった。


 「それは電話で話したくない。二人きりじゃないと」


 「……時間がかかりすぎるだろ」


 千里は自分の髪を掻きむしる。千里と栞奈は遠く離れていて、簡単には二人きりになれないのだ。しかし、栞奈は小さく笑って言い返した。


 「そんなことないよ?だって、私はもう下手良にいるもの」


 「は?」


 千里は驚きのあまり言葉を失う。栞奈はそんな千里の反応を楽んだ。


 「ね、だから二人きりで話そう?千里が知りたいこと、全部教えてあげるから」


 「……どこがいい?」


 「千里の家は?叔父さん、夜まで帰ってこないんでしょ?」


 栞奈は当たり前のように千里の家の事情を知っている。場所など関係ないと千里は頷きかけたが、小夜はそれを制止して指示を見せてきた。


 「いや、どこかの店だ。駅前か学校の近くか」


 「いいよ。時間はどうする?」


 千里は再度小夜に指示を仰ぐ。小夜は放課後を指定した。


 「今日の四時過ぎ。場所は駅前の……美波とよく通っていたファストフード店。分かるな?」


 「もちろん」


 栞奈は可愛らしい声で笑う。その中には狂気が詰め込まれており、千里は思わず身震いした。


 「他に話しておくことは?ないなら切る」


 「待って。小夜に伝言してほしいことがあるの。約束を破ったから罰を与えるってね」


 「その話は聞いてる。だけど、そんなことは許さない。栞奈、僕は栞奈がそんな人だとは思わなかった」


 他人の犠牲を望まない。そんな弱い人間だったからこそ千里は奔走していた。しかし、栞奈は大きく変わってしまっている。


 「馬鹿なこと言わないで!誰のせいだと思ってるの!?私を壊したのは千里なんだよ?」


 「話は後で聞く。もう切るから」


 栞奈はまだ何かを話そうとする。しかし、千里は逃げるように通話を終了させた。これ以上は聞いていられなかったのだ。


 「これで分かったでしょ?だから今すぐ考えを改めて。私は教室に戻って紗花と一緒にいる。学校に入ってくるとは思えないけど、罰を与えるって言ってきた。それが紗花を傷つけることかもしれないから」


 「……どうしてこんなことに」


 千里はその場に腰を下ろす。冷たい雪が体温を奪っていく。


 「そのことは後で話せばいい。それまでに千里君も準備した方が良いよ。昔の栞奈は知らないけど、今の栞奈は狡猾で凶暴。人前で会うことにさせたのも栞奈の行動を制限するため。……あと、私はこのことを警察に相談するつもり。二人の話が終わるまでは待つけど、そのつもりで栞奈と話すことね」


 小夜はこれからの予定を一通り説明する。千里はそれを黙って聞いた。


 「千里君はどうするの?そこで雪像になってるつもり?」


 「いや……僕も準備がある。協力してくれてありがとう」


 感謝の言葉を述べると、小夜は千里の肩を叩いて校舎に戻っていった。

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