第33話 攻撃

 二月に入って、千里は身の回りを意識した。悪い知らせは耳に入っていない。約束通り、男は栞奈に手を出していないようだった。


 そうとなれば、千里も身を挺さなければならない。現状では男に従うことが最も賢明な判断と言えるのだ。


 小夜の名前を出したとき、男は直接的な返答を避けた。それに対する最も合理的な考え方は千里が間違ったということである。千里の考えだけが知られた結果は男の一人勝ちを意味していた。


 紗花や茜との関係が悪化してから、千里は能動的な関係改善を図らなかった。自分では解決できないと判断して、意味がないと考えたからである。しかし、男の凶暴な態度を目の当たりにしてそうもいかなくなった。


 学校内の雰囲気はいつも通りで、雪国の生活にも慣れた。紗花とはぎくしゃくした関係が続いているが、露骨に避けられているわけではない。しかし、紗花が拒むことで二人きりの時間は減っていた。


 ある日の放課後、状況を打開すべく千里は紗花に話しかけることにした。初詣以降は小夜が紗花のそばについている。しかし、今更そんな小夜を邪魔だと言っていられなかった。


 「少し時間ある?」


 「何の用?」


 帰り支度をしていた紗花に声をかけた瞬間、小夜が割って入ってくる。千里はそれを無視してもう一度聞いた。


 「少し話がしたい。二人きりで。忙しいなら今度でもいいけど」


 「……いいよ」


 紗花は小さく頷き、小夜に両手を合わせる。小夜は嫌悪感を隠さなかった。


 「私は置いてきぼり?」


 「何かあったら話すから。先に帰ってて」


 「……分かった」


 案外簡単に小夜は了承する。千里を睨んだ後すぐに引き下がった。


 「じゃあ、また明日ね」


 「うん、また明日」


 後ろ髪を引かれる思いでもあるのか、小夜の歩き始めはゆっくりだった。ただ、すぐにいつもの歩調となって教室から出ていく。


 「北山君から話しかけてくれるなんて。どこで話す?」


 「教室でもいいけど、どこかいいところある?」


 「それなら食堂にしよっか」


 千里は茜が学校にいないことを知っていて紗花に選択させた。紗花が好む場所の方が上手く話を進められると考えたのだ。


 食堂に生徒は少なく、一部の学生が勉強に使っているだけだった。学期末試験が迫っており、千里や紗花も他人事ではない。その集団から少し離れた場所に腰をおろすと、紗花は千里の向かいに座った。


 「話って?」


 「もちろん、初詣の時のことだよ。あれから色々考えた。今日はそのことで聞いてほしいことがあって」


 千里が意味深な言い方をすると、紗花は少し警戒する。千里は気にしないで話を続けた。


 「実は、紗花が怒った理由が分からなかった。クリスマスの埋め合わせをできなかったのは僕が悪い。それに、せっかく誘ってくれた初詣でも隣で変なことを考えてた。これも僕が悪いって分かってる」


 「それなら、疑問はないと思うけど?」


 紗花は鼻で笑い、千里はその通りだと頷く。本題はその先だった。


 「僕がそんな態度を取ったのは間違いない。でも、紗花が立ち去るときに僕がそんなことを思ってるんだみたいなことを言ってた。その意味が分からなくて。謝るのは簡単だけど、何も分かっていないままなんて意味ないから」


 千里は関係改善を急がなかった理由を説明する。紗花はそれを聞いて眉をひそめた。


 「約束をすぐに忘れる北山君がそんなこと考えられるの?……それに、まだ分かってないなんて」


 疑いの眼差しを受けて千里は首を縦に振る。紗花はため息をついた。


 「私のこと、好きじゃなくなったと思ったの。あんな態度取られたら誰だってそう思うでしょ?」


 紗花は恥ずかしそうに説明する。それを聞いて千里はすぐに納得してみせた。


 「やっぱりそうだったんだ」


 「ほら、分かってたんじゃない」


 頬を染めた紗花が非難してくる。千里は首を傾げて反論した。


 「あり得ないと思ってたから。僕は鈍感だけど紗花は違う。紗花は僕の気持ちを分かってると思ってて」


 「それはあまりにも身勝手」


 「ごめん」


 千里は頭を下げる。その上で溝を埋める作業に入った。


 「で、色々考えたけど直接話した方が早いと思って。僕は紗花が好きだ。このまま冷たくされるのは辛い」


 千里は自分の気持ちを明確に伝える。愛想をつかされているかもしれない。それでも、付き合っている事実を確認したかったのである。


 紗花はそれを聞いて少し唸り、千里の本心を探ろうとする。ただ、目的が不純であっても千里の気持ちは真実である。紗花はすぐに張り詰めた空気を緩和させた。


 「都合よく許してもらえるなんて思わないでよ?私、本当に怖かったんだから」


 強がっていた声が弱々しくなっていく。千里が謝ろうとすると紗花は俯いた。


 「紗花?」


 「それに、今日だって何の話なんだろうって怖かった。最近の千里、私のこと何とも思ってないみたいだったから。別れ話も覚悟してた」


 「まさか」


 涙声の紗花を見ていられなくなり、千里は即座に否定する。鼻をすすって顔を上げた紗花は目を充血させていた。


 「私、千里のこと分かってるつもりだった。でも勘違いだった。あんな難しい顔してこんなこと考えてるなんて思いもしてなかったから」


 「ごめん、困らせたよね」


 「でも気になる。北山君が何を考えてたのか」


 紗花は僅かな笑顔の後に問題を掘り返す。最も触れられたくない質問ではあったが、それでも用意していた返答を使って説明した。


 「実家で揉め事があって。僕が引っ越したのもその関係なんだけど。それで……」


 千里はわざと説明を渋る。複雑な事情だと察してくれれば、紗花にこれ以上の嘘をつかなくて済むのだ。目論み通り、紗花は慌てて手を振った。


 「それならそう言ってよ。踏み込んだりしないし、誤解することもなかったのに」


 「本当にごめん。でも、言いづらくて」


 千里は紗花から視線を逸らす。すると、紗花は優しく声をかけてくれた。


 「それは私も悪い。北山君が言い出せなかったこと、分かってあげられなかった」


 「気にしないで。僕の問題だから」


 顔を上げると口籠っている紗花と目が合う。千里が視線で促すとゆっくりと話し始めた。


 「でも、もし頼ってくれるなら私に相談して。困っているなら助けてあげたい」


 「ありがとう。その時は相談するよ」


 「うん。任せて!」


 紗花は意気込んで胸を張る。千里は深呼吸して心を落ち着かせた。


 「でも良かった。他に好きな人ができたんだって小夜に言われてて、最近は弱気になってたから」


 「そっか」


 千里はそんな裏話から小夜の考えを推し量る。小夜が千里の秘密を伝えない理由はまだ分からない。しかし、小夜がそう言った理由は単純だった。


 「じゃ、帰ろっか。……もう心配させないでよ?」


 「ああ」


 何度目かのできない約束をして、いつものように心の痛みを感じる。ただ、こうするしかないと不必要な感情を排除した。


 それから一週間ほどが経って、世間はバレンタインに突入した。この日はクリスマス同様に危機管理能力が試され、逆転劇の可能性を秘めている。


 その日、最初に接触したのは紗花だった。紗花は前日から楽しみにしておくよう千里に伝えていた。そして言葉通り、紗花からプレゼントを渡された。


 「クリスマスの分も合わせたから、力作になってると思う」


 教室前で紗花から説明を受ける。本当は人目のつかない場所が望ましかったが、堂々と渡してきた紗花は積極性に富んでいた。まるで、千里の逃走を阻止しているかのようである。


 「ありがとう……今すぐ開けたいところだけど、家まで我慢するよ」


 「是非そうして。恥ずかしいから」


 紗花はにっこりと笑い、千里は何が入っているのかと疑問に思う。ただ、中身がチョコレートであることは伝えられていた。


 「これからもよろしくね」


 「こちらこそ」


 周囲の視線が刺さり、千里は小箱を鞄にしまう。周りでも同じ光景がちらほらと見られる。ただ、千里の場合は小夜が問題だった。


 「紗花、もう終わった?」


 「さ、小夜?いたの?」


 小夜の声に紗花は肩を震わせて驚く。小夜は紗花の後ろから一部始終を見ていて、千里を威嚇し続けていた。


 「こんなところで見せつけなくてもいいのに」


 「見せつけてなんてないよ」


 「早く教室に入ろう?」


 小夜はそう言って紗花を教室に引きずり込んでいく。小夜の行動にはいつも肝を冷やしてばかりいる。いつ牙を剥かれるか分からない状況が千里をそうさせていた。


 その日の午後、千里は茜からメールを受け取った。久しぶりだと思いながら確認すると、放課後に部室で待ってるという簡単な文面だった。適当な理由をつけて紗花を先に帰らせた千里は部室に急いだ。


 「久しぶり」


 茜は扉に一番近い椅子に座っていた。部室に暖房は入っておらず、防寒を徹底した姿をしている。


 「寒くない?」


 「大丈夫、来たところだから」


 千里の心配にむすっとした返事が戻ってくる。


 「……まだあの時のこと怒ってる?」


 野暮だと思いつつも我慢できずに聞いてしまう。千里は茜を心配する立場であり、むやみに弱腰になる必要はない。ただ、茜の態度の原因は千里の予想と違っていた。


 「まさか。千里が私を心配してくれてたことは分かってる。あの時は私が大人げなかったの。センターが終わってからそれに気付いて、でもどうやって謝ればいいのか分からなくて」


 「謝るなんて。茜が大変なのはよく分かってた。僕こそ伝えるのが下手でごめん」


 茜の事情を聞いて態度を軟化させる。しかし、そうなると先程の冷たい態度が何に由来するのか気になった。


 「何か言いたげな顔をしてる。せっかくだから言ってよ」


 「……実は午前中、千里が何か貰ってるのを見ちゃって」


 茜は視線を泳がせて両手を擦り合わせる。千里は嫌なところを見られたと動揺した。


 「バレンタインだよ」


 「そっか。……そりゃそうだよね」


 隠すべきではないと考えた千里は正直に伝える。茜は困った素振りを見せた。


 「心配いらないよ。受け取ったのは事実だけど、拒絶するのは良くないと思っただけで」


 「でも、嬉しそうにしてた」


 「そりゃ少しはそんな態度しないと。ただでさえ僕には友達が少ないんだし。それに、いわゆる義理だから」


 千里はあえて苦々しく笑う。社交辞令に嫉妬されても困ると見せかけたのである。すると、茜は申し訳なさそうに謝った。


 「ごめん、そうだよね。久しぶりなのにやきもち焼いちゃって」


 手をパタパタと振る茜は顔を火照らせている。千里はすぐに茜のフォローに入った。


 「嫉妬してくれるのは嬉しいよ。でも大丈夫だから」


 「こんな話するつもりじゃなかったのに」


 茜から肩の力が抜け、千里も頬を緩める。しばらくすると、茜は鞄から一つの小包を取り出して手渡してきた。紅潮した顔は温かそうで千里の手はそちらに向かう。


 「冷たっ!」


 「あったかいよ」


 「違う!早く受け取って」


 催促されて千里は小包を受け取る。大きさ相応の重さをしていて、茜は補足的な説明を行った。


 「これは……義理じゃない」


 「分かってる。ありがとう」


 千里は儀式的なやり取りを済ませる。茜の笑顔から目を背けたくなった。


 「ねえ、今は誰も見てないよ」


 千里が一仕事を終えたと思っていると、茜が顔を覗き込んでくる。上目遣いで両腕を広げる茜に千里は困った。


 「……恥ずかしい」


 「私がするから来て」


 圧力をかけてくる茜はとても魅力的で、千里も仕方なく腕を広げる。すると、茜は躊躇いなく飛び込んできた。


 「ふう、やっとできた」


 「茜?」


 強く抱き締められているように感じるが、お互いが厚着をしていてよく分からない。しばらく千里が固まっていると、茜は元気のない声で話し始めた。


 「私、下手良から離れた大学を受けることにしたの」


 「……そっか」


 茜が元気をなくした理由は色々と考えられる。ただ、千里はその場の雰囲気に流されることにした。


 「それで、こんな話はしたくないんだけど」


 前置きをする茜の表情はよく確認できない。千里がされるがままで待っていると、ゆっくりと小さな声が漏れてきた。


 「結果次第では、もうできなくなるかも」


 「そっか」


 茜の言葉を聞いても、千里は相槌を打つことしかできない。受験が成功するか否かは将来に大きく関わる。干渉するわけはいかないのだ。


 しかし、どのような結果に終わろうとも収束する先は決まっている。三月で約束の期間は終わり、男の判断にかかわらず関係を終わらせなければならない。そんな思惑が茜の未来と上手く重なることは考えられる。そうなれば千里の罪悪感は恐ろしいほどに膨れ上がる一方、茜の傷は浅くなる。この負担は背負う人数が少ない方が良い。


 「……千里から何か言いたいことはない?」


 「言いたいこと?」


 千里が短い応答ばかりしていたからか茜が迫った質問をする。何を求められているのか分からずにいると、茜は千里の手の甲をつねった。


 「冷たい。私は色々考えてるのに」


 「二次試験、頑張って。応援してる」


 「違うでしょ?」


 「好きだよ」


 「もう……もうそれでいいよ。馬鹿」


 茜の抱き締める力が強くなる。それからしばらく、千里は拘束された。


 「さて……」


 どれだけ時間が経ったのか、茜はようやく千里から離れていく。ただ、離れ際に茜の唇が千里の頬に触れた。驚いた千里は半歩下がる。


 「我慢してるのは私だってこと、ちゃんと分かってよね」


 頬を膨らませる茜に千里は何とか笑顔を作る。怪訝そうな顔をされたが、ある程度の改善は達成されたようだった。


 「……またふとした時に連絡するかもしれないけど、いいかな?」


 「もちろん。今度は僕がするよ」


 「嬉しい。待ってるね」


 茜が喜んだ分だけ千里は苦しむ。ただ、それは反対も然りである。時間は残されておらず、終わりはすぐそこに迫っていた。


 その日の午後、同じようなことが美波ともあった。美波とは関係構築が難しかっただけで、それからは安定している。それは、バレンタインでさらに好感度が上がらないほどだった。


 こうして、バレンタインというイベントを味方につけた千里は、しぶとく三人との関係を再び軌道に乗せた。千里の脳内では、男の脅迫が何度も繰り返されている。何があっても栞奈を傷つけさせるつもりはなかった。


 しかし、嵐は前触れなく訪れる。千里はその予兆に気付けなかった。


 バレンタインの翌日、千里は今後の方針を考えながら登校した。今までの方法は決して悪くなかった。ただ、このままでは時間が足りない。


 学校に到着すると、下駄箱で紗花と鉢合わせた。紗花に話しかけることに抵抗感はなくなっている。紗花はまだ千里に気付いておらず、自分の上履きを手に携帯を見ていた。


 「おはよう」


 靴を履き替えながら紗花の横顔に声をかける。しかし、聞こえなかったのか紗花は全く反応を示さなかった。携帯に意識を奪われていて、何かの写真を見ているようである。千里からはよく見えず、不思議に思いながらもう一度声をかけた。


 「紗花?」


 この時の千里は油断していた。紗花が顔を動かしたため、些細なことに注意を払うことさえしなかったのだ。千里は間を繋ぐための適当な話を持ち掛けようとする。しかし、紗花の顔を見て声を詰まらせた。


 紗花はひたすらに涙を流していた。それを拭うこともなく立ち呆けている。


 「こんなの……どうして!?」


 「え……?」


 千里が一歩近づくと、紗花は携帯を持つ手を振り上げる。そして、千里に携帯を投げつけた。千里の腕に当たった携帯は地面を転がる。突然の大声に周囲の全員が注目した。


 「紗花?」


 「苦しいよ!」


 千里が名前を呼んだ瞬間、紗花は上履きも投げ捨てて靴下のまま走り出した。人混みが紗花のために道を開ける。千里は困惑のあまり動けなかった。


 するとその時、小夜が息を切らして千里の後ろから現れた。


 「何があったの!?」


 小夜が説明を求めてくる。それに千里が黙っていると、小夜は落ちていた携帯に手を伸ばす。そして目を見開いた。


 「これ……意味分かるよね!?」


 小夜は携帯の画面を千里に見せつけてくる。それを見て全てを理解した。


 写真は夜の下手良駅前を撮影したものだった。千里と美波が駅前のデジタル時計と一緒に映っており、日付や気温などの情報も同時に表示されている。十二月二十四日の午後八時三十二分だった。


 千里に全てを理解させると、小夜は落ちていた上履きを抱えて紗花を追いかける。千里は何も考えられなくなる。


 状況がひと段落すると野次馬は動き始め、千里を気にしながら自らの教室に移動していく。そして、一分も経たないうちに千里に興味を示す人はいなくなった。ただ、千里はそれを気にしてはいられない。


 これは明確な攻撃だった。

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