第32話 千里の予想
一月は吹雪の日が続き、観測史上最大の積雪となった。千里はそれをただ鬱陶しく感じて、身の回りの問題と合わせて不満の対象としていた。紗花や茜との関係は回復していない。それだけでなく、今では小夜までがこの問題に関与している。
学校が始まって紗花と毎日顔を合わせているが、不穏な空気が二人の間を邪魔をしている。その一番の原因は、言うまでもなく紗花の隣に構える小夜であった。ただ、紗花自身も仲直りを求めていないようだった。
茜は無事にセンター試験を乗り越え、日曜日の夜にその報告を受けた。その瞬間だけは声が上擦っており、千里はそんな茜を鼓舞した。
そのような状況が続く中、月末を迎えると男からの電話も気になり始めた。千里が嘘をつく理由はこの日を乗り越えるためであり、全ては栞奈を守ることに収束しているのだ。
しかし、千里は限界を感じていた。一月は結果を集められなかっただけでなく、悪くなった関係の改善もできなかった。栞奈を守らなければならないが、千里には力が足りない。
電話は自室に一人だった時にかかってきた。接触がなければ警察に解決を依頼する予定だった千里は半ばそれに驚く。
「もしもし」
「やあ、久しぶり」
千里の気分とは裏腹に軽い声が響く。千里は眉をひそめた。
「……どうして電話をかけてきた?」
「どういうことだい?そんなことを言われるなんて心外だ。今更立場を忘れられても困る」
男は冗談交じりに笑う。笑うほどの余裕が男にはあった。ただ、そう考えると男の態度は疑問だった。千里の報告に機嫌を悪くしたことは今までによくあり、それと照らし合わせると齟齬があるのだ。
「進捗は聞かないのか?」
「よほど自信があるのかい?……それとも別の理由があったり?」
男の口ぶりから推測して千里の現状はまだ知られていない。しかし、結論付けるにはまだ早かった。
「僕の一ヵ月を見ていたんだろ?それなら話を急かす理由も分かるはずだ」
外では雪が静かに舞っており、千里はその一つ一つを眺めて心を静める。男の反応次第では最後の抵抗を試みるつもりだった。しかし、男は安易な挑発を回避する。
「……分からない。どうしてそこまで強気になれるのか」
「やっぱりか」
「やっぱり?どういうことだ?」
男は千里の反応を訝しがる。対する千里は重要な事実を把握した。男との物別れはさほど問題にならない。大切なことはどのような決裂が最適かということだった。
ただ、千里は解釈を間違えていた。
「今月の君が上手くいかなかったことは知っている。私がそれを知らないと仮定して話を進めているならば止めた方が良い。それに今日の君はやけに攻撃的だ。……違うかい?」
「だから何だ」
男はお互いの立場を明確にする。今までの千里であれば反発したことを謝罪している。しかし、今日の千里は違った。
「そんな脅迫はもう成立しない。栞奈を傷つけたいならすればいい。……僕の知ったことじゃない」
これからは警察が栞奈を保護する。電話を終えてすぐに通報すれば、男の行動より早く栞奈を守ることができるはずなのだ。そうなれば男の計画は破綻を避けられない。
「どうした?栞奈ちゃんが大事じゃなくなったのかい?それは……困るなあ」
男の声が少し震える。千里の不規則な発言に困惑しているのかもしれなかった。
「あんたは僕を監視しているらしいが、行動全てを把握しているわけじゃない。……殴ることはできなくなるが、代わりに罪を償ってもらう」
「何を考えてる?このことを誰かに話したのかい?」
「教える義理はない。あんたはもう終わりだ」
男は黙りこんでしまう。千里は椅子に座り直して次の言葉を考えた。
現状では男の自首がない限りは問題解決に至らない。そこで、千里は男を嘘で封じ込めることを考えた。男が目論みを諦めるように誘導し、その過程で正体が割れればあとは警察の仕事なのだ。
千里は意気込んで話の続きに入ろうとする。しかしその瞬間、不気味な高笑いがスピーカーから溢れ出てきた。その声は部屋中に響く。
「馬鹿だな……馬鹿だ。この大馬鹿野郎が!」
千里は男の罵声を浴びる。ただ、それを聞いても冷静さを保った。混乱から男が発狂したのであれば好都合なのだ。しかし、男の笑いは計算尽くされていた。
「そんな嘘が通じるとでも?……私を軽く見すぎているようだ。君にそんなことはできない。小心者が見栄を張って情けない」
「そう思うのは自由だ。自分の首を絞めたいなら勝手にすればいい」
「私が君に脅迫を持ち掛けた理由をもう一度教えようか?それは、栞奈ちゃんのことになれば君が必ず約束を守るからだ。裏切ることはできない。絶対に」
男は興奮している。しかし、主張は以前から一貫していた。栞奈を守るためならば千里は約束を守るというあまりにも盲目的な考え方である。
「いつまでも僕が傀儡だと思うな」
男にただ恐怖していたときの千里は、栞奈を人質に取られて抵抗できなかった。しかし、今では男も迂闊に栞奈に手を出せないことを理解している。
「やっぱり馬鹿だ……」
男は何度も呟くが、根拠を説明できていない。それでもなお、男は笑いをかみ殺して千里に警告した。
「君の言う通りだ。賢いなあ。……ということは、私が新しい脅迫を持ち掛けることも分かっていたというわけか」
「新しい脅迫?」
千里は男の言葉を繰り返す。しかし、瞬時の理解は不可能だった。そうして千里が考え込むと男が主導権を握った。
「栞奈ちゃんを殺す」
「それは不可能だ。あんたより早く警察が動けば……」
「それで?それで栞奈ちゃんは安全になるのか?」
男は再び大きな声で笑う。あまりにも薄気味悪い雰囲気に千里は口を閉じた。
「……君の故郷に警察署はない。駐在所が駅前にあるが、君たちの集落まで車で十五分かかる」
男は突然、千里らの故郷の説明を始める。地理的な間違いはない。
「途中に川が二本流れている。二つ目の川にかかる橋の土台は木製で、すぐそばに民生委員を務める鈴木の家がある。灯油タンクは橋に近い道沿いにあって、土手に落とせばちょうど土台のそばだ。火をつければ車両は数キロ下流まで迂回しなければならない」
「……何の話をしている?」
千里は途中で口を挟む。しかし、男は止まらない。
「栞奈ちゃんの家は古い木造で、裏山に近い勝手口の鍵は緩い。事件後に施錠は徹底されたようだが、もともとの立て付けがよくない。蝶番が歪んでいて簡単に扉ごと外せる」
「待て……!」
千里は強引に男を黙らせようとする。壊れかけの勝手口は千里も昔から見ていて、これ以上のことを聞くわけにはいかなかったのだ。
「栞奈ちゃんの部屋は二階の廊下を突き当たって左側だ。扉に鍵はない。……とても可愛い寝顔だったよ」
「黙れ!何の話をしてる!?」
千里はとうとう声を荒げる。ここで男は質問に答えた。
「栞奈ちゃんを強姦して殺すまでの説明だ。君が約束を果たせないならこうするしかない。君が真剣に守りたがる理由が分かったよ。栞奈ちゃんはとても可愛い。だから傷つけないと……」
「嘘をつくな!そんなのあり得ない!」
千里は否定して叫び声をあげる。しかし、急に喉が締まってせき込んだ。
「信じたくないなら信じなくていい。私は何度も栞奈ちゃんと顔を合わせた。起きてる栞奈ちゃんにも、寝ている栞奈ちゃんにも」
「ふざけるな!お前……お前!」
そんなことができるはずない。千里はそう思って勢いよく頭を振る。ただ、それを否定できないことに気付いたとき、怒りに任せて叫ぶしかなかった。反対に男は落ち着きを取り戻している。
「慌てなくていい。今はまだ何もしていない。髪をかき上げ、寝息を聞いていたくらいだ」
「嘘だ……嘘だ!」
千里はまだ信じることができない。しかし、男の説明に間違いはなく、栞奈の家の中まで正しく把握していた。何が本当で何が嘘なのかもはや見分けがつかない。
「混乱するのも仕方がない。身の回りが大変な中で、栞奈ちゃんのことでも君は無力なのだから。……さて、どうする?」
「………」
千里は何も答えられなかった。仮に男が下手良にいると分かれば、即座に栞奈や警察に連絡して自らも故郷に戻る。しかし、男は千里らの故郷にも精通していて、現在の居場所を隠している。結局、男の圧倒的な優位さは変わらなかった。
「私は君が約束を守ってくれると信じている。仮にそう決断してくれれば、栞奈ちゃんに手を出さないともう一度約束しよう。君の了承なしに寝顔を見ないことも約束する」
「都合の良いことを……もしその話が本当なら、僕との約束を破ったことになる。約束を守っている限り、栞奈が危険な目に遭うことはない。そう言っただろ」
「栞奈ちゃんと顔を合わせたくらいで危険などと言ってほしくない。人質として大切に扱ってるだけだよ。栞奈ちゃんは何度も私と会話してくれた。少し怖がってはいたが、それでも優しくしてくれたよ。自分が人質にされているとも知らずにね」
「栞奈……」
「心配しなくていいと言っている。君が約束を果たすまでは私が見守っておくよ。上手くいけば次の春からは君がそばにいてあげられるだろう。全ては君次第だが」
当初に比べて男の行動は大胆になっている。そう感じた千里は男のリスクについて考えた。四月の男は正体が暴かれることを極端に恐れていた。変声もそれに由来したはずである。
しかし、栞奈との接触はその前提から逸脱していた。栞奈に聞けば、誰と接触したか簡単に知ることができる。それに、話が事実ならば男は不必要なリスクを負っていることになる。目的が千里を恐怖させるためだったとしても割に合わなかった。
「……栞奈に近づくな。絶対に近づくな。それを守れるのであれば、こっちも約束は守る」
「条件が違う。君が約束を守るのなら、私も栞奈ちゃんに近づかない。どうやら君は栞奈ちゃんに連絡してはいけないという命令を忠実に守っていたようだからね」
「は……どうしてそんなことが分かる?」
男の約束を取り付けるも安堵は程遠い。男は連絡の有無さえ把握しているというのだ。
「文化祭の後、栞奈ちゃんを追って君たちの故郷に行った。その時に栞奈ちゃんの部屋に盗聴器を仕掛けた。外に出られるようになったとはいえ、栞奈ちゃんは大体の時間を自分の部屋で過ごす。君から電話がかかってきた様子はなかったからね」
「……サイコパスめ」
千里は歯ぎしりして携帯を強く握りしめる。何も知らないまま五ヵ月近くも過ごしていたのだ。
「何度も栞奈ちゃんの可愛い声を聞いた。せっかくだから良いことを教えてあげよう。栞奈ちゃんはいつも君の名前を呼びながらするんだ。それで、終わると泣き始める。悪い男だなあ。そんな栞奈ちゃんを置いて良い思いをしているのだから」
「いい加減にしろよ……!」
「いい加減なのは君じゃないか。そうさせてるのは私だけどね。守ってあげたくなるだろう?それとも、傷ついた栞奈ちゃんをもう一度見たいかい?君のつまらない意地のせいで」
「……約束は三月まで。最後の報告であんたが納得すれば終わり。そうだったな?」
「私は公正に判断する。君の成果を不当に扱ったりしないから安心したまえ」
「その後、あんたは栞奈に干渉できない。約束通りだ」
「そんな約束したかい?……まあ、君が私を満足させられたら忘れるって話だったかな」
結局は男が全てを支配する。男は千里が抵抗できないよう手を回していたのだ。敵う相手ではない。
「仮に僕が約束を守れなかったら?」
「栞奈ちゃんを傷つける。その様子は君に見てもらうつもりだけど、上手くできる自信がないな」
「あんたは自分の身が一番大切だと言った。だから僕を使役した。そうだろう?」
これは男が最初に言っていたことである。しかし、栞奈に手を出せば捕まる可能性は必然的に高まる。男の考えは矛盾していた。
「栞奈ちゃんはとても可愛かった。予想よりもずっとね。だから栞奈ちゃんを自分のものにできるならそれでもいいと思った。栞奈ちゃんを殺して私も死ぬ。その後は知ったことじゃない。君は私の死体でも蹴っていればいい」
「それはあんたの目的に反する。性欲を満たすためだけの非道な行為だ」
千里は荒い息遣いで反論する。しかし、男は千里を蔑んだ。
「可哀そうに。君が正義なのはよく分かるよ。だけどね、私みたいな人間のせいで大切なものはすぐに奪われる。君はそうならないように頑張ればいいが、私はその良さに気付いてしまってね。信じられないとは思うが、昔の私は君と同じで一般的な価値観を持っていたんだよ」
「あんたは同じじゃない。人間の姿をした生きる意味のない狂った悪魔だ!」
「言ってくれるね。でも、そんな評価も悪くない。君が私の言いなりになるのなら」
男はたいそう楽しそうにしている。千里には男の考えが分からない。それは当然のことで、それを悔やむ気にもならなかった。
「でもね、見方を変えれば君も一緒だ。三人から見れば君はサイコパスなんだから。君は栞奈ちゃんを守るという免罪符で三人を弄んでいる。脅迫されたなんて言い訳ができると思うかい?君がそれに便乗して三人の柔肌まで堪能していたならばなおさらね」
「………」
「まあ、君がそんなことをするとは思っていない。だけど、三人は信じるかな?自分とは何もなくても、他の二人とは何かあったかもしれない。そう思われることは避けられないだろう」
「もう話を終わっていいか……」
千里は大きく深呼吸する。このままでは血液が沸騰して頭が破裂しそうだった。しかし、そんな態度を取れば男の思い通りである。それでも会話の継続は限界だった。
「待ちたまえよ。君は本当に私の正体に気付いていないのかい?こんなに自分語りをしたのに」
男は千里を呼び止める。案の定、目的は一切分からない。
「………」
「さすがに候補はいるだろう?きっとその中に私はいる」
「面倒なことはやめて自分から名乗ったらどうだ?」
「遠慮するよ。仮に私が栞奈ちゃんから離れることになったとしても、君から教えてもらった情報を自分でも試してみたいからね。君に正体を知られると一日も経たないうちに棺桶の中だ。次に君と顔を合わせる時も注意しないと」
男はそんな未来が訪れないことを分かっている。だからこそ、千里の復讐を恐れていない。千里はそんな男の態度が気に食わなかった。しかし、男が千里と顔を合わせたことがあるのは間違いないらしい。その上で千里は聞いてみた。
「もし、僕があんたの正体を言い当てたとき正しいと言ってほしい。……あんたもまどろっこしいのは嫌だろう?」
「正しかったときに私が殺されるじゃないか。でも、君が誰を疑っているのかは気になるな」
「そんなことはしない。嘘をつかれる可能性もある。証拠が集まれば分からないが」
千里が名前を当てられたとしても、男がそれに対して嘘をつかないとは限らない。千里は男の感情の揺れに賭けていた。
「……いいだろう。面白そうだし乗ってあげよう」
男は完全に楽しんでいる。戸惑っている雰囲気はない。
承諾を得た千里は頭の中を整理する。千里の周囲で起きた不可解な出来事は数えきれない。ただ、その全てが男によるものだとは考えていない。男が関与したと思われる出来事を抽出して推理しなければならなかった。
男は千里より頭の切れる人物である。さらに、千里の故郷だけでなく下手良での生活さえよく把握している。そんなことが可能な人物像は、残念なことに千里の頭に浮かんでこなかった。しかし、それでも一人の名前を口にした。
「大林小夜。……一番可能性が高いのは小夜だ」
「……ほう」
千里が小夜の名前を出した理由はいくつかある。ただ、大前提として小夜である可能性が低いことは理解していた。最近の小夜は敵対的なだけでなく千里の秘密を握っている。しかし、男が小夜ならば根本的な問題が露呈するのだ。
誰かの名前を出す必要があって、最も可能性が高かったのが小夜なだけだった。千里が注意すべきは、男が否定する上で発する一言一句である。
「君の考えを知れてよかったよ。さて、話はこれくらいにしようか。約束が達成されることを期待しているよ」
「待て。あんたは答えていない」
勝手に電話を切ろうとする男に千里は食らいつく。しかし、男は即座に言い返した。
「くれぐれも私を人殺しにしてくれるな。私を落胆させるな」
「待て、切るな!」
声を張るも男は電話を切り、耳障りな話中音が流れる。このままでは栞奈が傷つけられるかもしれない。頭を切り替えた千里は栞奈の連絡先を急いで表示した。
しかし、盗聴器の話を思い出して千里は動きを止めた。その話が偽りである可能性は十分にある。一方で、本当だった場合には大きな代償を支払うことになるのだ。メールも賢い方法とは言えなかった。盗聴を行っていて盗撮を行っていないと言い切れないからである。
警察に通報する案はそれに比べてまだ現実的だった。自室に籠る千里の行為が知られるとは考えにくく、男の妨害なしに栞奈を保護できるはずだからである。
しかし、千里はそれさえも拒んでしまった。栞奈の保護が上手くいったとしても、男を確保するまでに千里の裏切りは知られる。短時間で男の正体を割り出せる保証はなく、達成されても捕まえられるか疑問なのだ。それに手こずっていると男が復讐に動くことが予想された。
男が標的を千里に絞れば好都合であるが、必ずしもそうなるとは限らない。再び栞奈が狙われる可能性があるだけでなく、紗花や茜、美波も危険に晒される恐れがある。それほど、千里は多くの人を巻き込んでいるのだ。
千里は携帯をベッドの上に置いて頭を抱えた。これが男の思惑通りだと分かっていても、博打を打つ度胸はなかった。
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