第31話 混乱の始まり(2)
すべてはクリスマスイブから狂い始めた。小夜はクリスマスの前から三股を知っていたといい、それにもかかわらず不可解な決断を一方的に宣告した。千里はそんな小夜の態度に困っている。ただ、重要なことは小夜を気にするあまり紗花と喧嘩してしまったことであった。
一人で帰宅した千里は、紗花に謝罪のメッセージを送った。しかし、返信はまだ届いていない。
三が日はあっという間に終わった。千里は時間の進む速さに驚きつつ、停滞する状況に悩む。美波との関係は相変わらず良好であるが、千里は三人全員と関係を維持する必要がある。差異が生じた理由は分からなかった。
そんな中、冬休み最終日に次なる変化が訪れた。朝まで降り続いていた雪はやんで、空には晴れ間が広がっている。千里がそんな風景を眺めていた時、茜から電話がかかってきた。
「もしもし、茜?」
「千里、久しぶり」
茜の声は少し枯れている。この寒さで風邪を引いたのかもしれなかった。
「声が少し変だよ。大丈夫?」
千里は心配になって尋ねる。こればかりは純粋な気持ちによるものだったが、千里の声は茜に届かなかった。
「今日、時間ある?今から部室に来てほしいんだけど」
「部室?でも今は家でしょ?あと一週間もしないうちに……」
千里はカレンダーを見て、センター試験まであと数日であることを確認する。ただ、茜はまたも千里の言葉を聞き入れなかった。
「来てくれるの?くれないの?」
問いかける口調は強くなり、千里に返答を強制させる。千里は茜の態度に驚いた。
「僕は大丈夫だけど……でも茜は」
千里は再度心配する。しかし、結果は同じだった。
「じゃあ待ってるから。すぐに来て」
茜は一方的に電話を切る。怒っている雰囲気はなく、千里には疲労感に苛まれているように聞こえた。急いで準備を済ませた千里は部屋を飛び出した。
学校に着くなり廊下を走って部室に急ぐ。茜はすでに来ているようで、扉は僅かに開いていた。
「……あれ、早かったね」
「茜がすぐに電話を切っちゃうから」
扉をしっかりと閉めて、千里は丸椅子に腰かける。実験机の向かいに座る茜はただ千里を待っていたようで、荷物は何も持っていない。
「ごめんね、急に呼び出して」
「いいよ。それで、話ってどんなこと?」
千里はおおらかな雰囲気で茜に問いかける。ただ、内心は怯えていた。茜とはセンター試験が終わるまで時間を設けないと話し合っていたのだ。
「大したことじゃないんだけど……それでもいい?」
「そんなはずないでしょ。茜がそんな顔をするくらいなんだから」
千里は茜の表情を分析して覚悟を決める。小夜は三人の名前を知っていた。それはつまり、三人の誰とでも接触できることを意味している。小夜から茜に情報が渡っている可能性は十分にあった。
しかし、それは千里の考えすぎだった。茜は別の問題について話を始める。
「この二週間、私は約束通りずっと勉強してた。……千里は何してた?」
「特にこれといっては……いつも通りかな」
千里は当たり障りのない説明で逃げる。茜に呼び出された理由が把握できておらず、万が一のことを考えると嘘がつけなかったのだ。しかし、返答を聞いた茜は千里を鋭く睨んだ。
「そっか、いつも通りなんだ。……ということは、いつも私のことなんて微塵も考えないで生活してるんだ」
「え?」
短い会話から茜は大きな勘違いをする。もしくは曲解しているのかもしれない。驚いた千里は即座に首を横に振ったが、弁明の時間が与えられる前に茜の言葉が続いた。
「でもそうなる。最後のやり取りは年明けの挨拶だった。そうだよね?」
「そうだけど……でもそれを非難されても困る。センター試験が終わるまでは我慢するって約束してたから」
千里は去年の暮れのことを思い出す。約束のために恥ずかしいことまでさせられており、誤解の余地はないはずだったのだ。
「そんな約束したっけ。あ、そういえばしたね。……でも、どうしてそれを鵜呑みにしたの?」
「鵜呑み?鵜呑みも何も約束は約束でしょ?茜のためを思って」
「私のため?受験を理由に接触を避けることが?」
茜の声音が強くなる。小さな手が握り拳を作っていた。
「……何か間違ったこと言った?僕にとってあの約束は言葉通りの意味でしかなかったんだけど」
「あの時は千里が決断してくれなくて、その場しのぎで約束しただけ。本心でも何でもなかった。次の日から千里と話したくて苦しかったよ?でも、千里も同じのはずだから、きっと千里から連絡があると思ってずっと待ってた」
茜は不満をはっきりと伝える。千里には我儘にしか聞こえなかったが、関係悪化を避けるためにその気持ちは押し込んだ。
「その言葉、僕がそのまま返したらどうする?茜が連絡してくれなかったって僕が不満を言い出したら」
「そんなのあり得ない。だって、千里はそんなこと思ってないから。もし思っていたなら私は間違いなく連絡してた」
茜は断言して千里を責める。千里も受け身ではいられなくなった。
「茜、もし本気でそんなことを思っているのなら僕は幻滅する。その言葉は裏切りだ」
千里が裏切りを指摘するなど甚だおかしな話であるが、それでも指摘するほかない。茜は千里の抗議に目を見開いた。
「……ごめんなさい。私、裏切るつもりなんて」
「分かってる。茜がそんなつもりじゃなかったことくらい」
「私、もしかしたら疲れてるのかも」
自信を無くした茜は俯いてため息をつく。そんな姿に千里は言いすぎたと感じた。今の茜は重圧の中で生活している。そのストレスが千里との軋轢と一緒くたになってしまったとしても責められない。
「もし相談してどうにかなるなら僕が相手になる。……でも、正直なところ今の僕には茜の気持ちを理解できない。どれくらい繊細で、どこまで立ち入っていいのかが分からないんだ。でも味方になってあげたい」
「……優しいね」
茜は頬を吊り上げていき、最後は満面の笑みとなる。ただ、その表情で冷たい声を出した。
「でも嘘なんでしょ?その言葉」
言い切った茜は笑みを保つ。千里はそんな茜に硬直してしまった。
「嘘……何が?」
「全部。あの時の約束からずっと。嘘と嘘と嘘で嘘ばっかり。違う?」
「………」
茜が何を根拠にしているのか全く分からない。しかし、千里は言い返すことができなかった。茜の言葉に間違いはない。千里の言動が嘘で塗り固められていることは事実なのだ。
「……言われっぱなしでいいの?」
「もちろん困る……信頼できないってこと?」
「信頼というか……嘘ついても意味ないって言いたいだけ」
茜には絶対的な自信があるようで、千里の説得が入り込む余裕もない。千里には事情を知る必要があった。
「わざわざそんなことのために呼んだの?僕が何の嘘をついたのか具体的に言ってみてよ」
「……分からない」
茜は視線を落とす。千里はこの機会を逃さず追及した。
「分からないのに疑ったの?それはあんまりじゃない?」
「でも、千里は私のことなんて考えてない。それは合ってるでしょ?」
「そんなことない」
「私がそう感じたの。伝わらなかったら考えていないことと同じ。違う?」
茜が同意を求めてくる。これは暴論である。しかし、千里は思わず一理あると思ってしまった。千里が茜を意識しなかったときはない。そういった意味では千里の説明に間違いはないが、茜が求める感情ではなかったのだ。
「……そうだとしたら謝るよ。茜を心配させるつもりはなかった」
解決の糸口を見つけた千里は、茜の機嫌が直るように仕向ける。茜も千里を本気で疑っているわけではない。妥協点が見つかればこの危機を切り抜けられるはずだった。
「でも、千里は嘘をついてる。……絶対に。私には分かるから」
「だから、どんな嘘なのか教えてよ」
今日の茜は思考が鈍っていて、根拠のない主張を続ける。強気に対応していれば主導権を握れると考えた千里は、茜の目を見つめて次の一言を待った。ただ、茜はなかなか引き下がらない。
「そうやって勝ち誇った顔をする。千里の悪いところ。言いくるめられるって思ってるんでしょ?」
「……きっと、茜は疲れてるんだと思う。こんな時期だからマイナス思考になるのは無理ないし、そんな茜を悪く思ったりしない。だけど、茜が間違ってるってことは伝えさせて。僕はいつも茜のそばにいる」
千里は優しい言葉で和解を誘う。茜は試験を間近に控えて不安定になっているだけである。本当に千里の嘘に気付いたとは考えていなかった。
「……どうしてそんなことを言ってくれるの?私は千里を悪く言った。それなのに許してくれるの?」
「茜を信頼しているだけだ。茜は根拠もなく人を傷つけたりしない。今はつらいことばかりなんでしょ?……気付いてあげられなかった僕も悪いんだ」
茜は難しい顔で千里を見つめている。そろそろこの話を終えたい千里ではあったが、茜にはまだ気になることがあるようだった。完全な関係修復のためには全て吐き出してもらうほかない。そうすることで千里の望む解決に一歩近づくのだ。
ただ、悪夢は継続した。
「千里の言葉は嬉しいよ。でも、大切なことが全然分からない。……千里、やっぱり私以外の誰かを好きになったでしょ?」
「え……?」
「いつからだったかな、千里が何かに気を取られるようになったのは。その時は信じたくなくて気にしないようにしてた。だけど、クリスマスの提案を聞いてきっとそうなんだろうなって」
「それは……違う」
千里は声を絞り出して否定する。しかし、茜は少し首を傾げて不思議そうにした。ここで追及する側が逆転する。
「何が違うの?分かるように説明して」
茜は静かに要求する。対する千里は茜が不信感を募らせた理由を必死に考えた。ただ、そうして考え始めると、思い当たる節があまりにも多いことに気付く。茜がそのどれに気付いたのか特定できない。
「……それは誤解だ」
「そっか。じゃあ、その誤解を解いてみせて?」
茜は千里をじわりじわりと追いつめる。最初からこの追及を目的としていたようで、今までの千里の言葉は全て嘘として処理していたようだった。
「どうやって説明したらいいのか分からない。でも、信じてほしい」
「え、何言ってるの?」
茜は千里を馬鹿にして噴き出す。目は全く笑っておらず、千里は全てを見透かされているような感覚に陥った。椅子から立ち上がった茜は千里を見下す。
「千里にもいるでしょ?全く信じることができない人。その人に理由もなく信じてと言われて、千里にそれができる?」
「それは……」
「できないよね。今の私もそう。どんな綺麗な説明をされたとしても、私は千里を信じることができない。そうなっちゃったの」
茜はゆっくりと扉の方へ歩いていく。対する千里は猫の前の鼠のように動けなかった。
「今日はこのことを伝えたかったの。遠回しな説明になってごめんね。でも、もしかすると気付いてくれるかもしれないって思ったから。……でも、ダメだった」
「待って!」
このままでは破滅的な未来は避けられない。千里は咄嗟に声を出して追いかけようとする。しかし、茜は目だけでそれを制止させた。
「来ないで。私はもどかしい気持ちを整理するためにこうして話をしたの。もう蒸し返すつもりはない。千里とも話したくない。……分かって」
冷たい面貌でそう言い残すと、茜は扉を開けて出て行ってしまった。このままでは破局は免れない。それは男との約束を守れないことに繋がる。しかし、千里は追いかけることができなかった。
学校を出たのはそれから一時間以上が経った後だった。残念なことに、今日は予備校に行かなければならない。美波との関係は順調に進んでいるが、今日は会いたいと思わなかった。
一月の初めにもかかわらず、千里は紗花と茜の二人と問題を抱えてしまった。現状を報告することになれば、男が約束を破棄する可能性がある。それを避けるためにも、美波の前ではいつも通りを演じる必要があった。
しかし、感情の揺れは簡単に隠せるものではない。講義後いつものファストフード店に連れていかれた千里は、すぐに美波に心配された。
「今日の千里君、すごく疲れてるみたい。何かあった?」
「いや……何もないけど」
答えてから冷たい声だったと気付く。千里の目論見は最初から失敗した。
「あのね、私が気付かないと思う?」
「美波はすごいな……僕には全然分からないや。これって薄情なことなのかな?」
千里は早々に隠すことを諦める。美波は千里の問いかけに首を横に振った。
「人の気持ちなんて簡単に分かるものじゃないよ」
美波は笑顔を絶やさない。しかし、千里には理解できなかった。
「でも美波は分かってた」
「そりゃね。私は千里君のことが好きで、たくさん考えてるから」
「その言い方だと、僕は美波が好きじゃなくて何も考えてないことになる」
結局この結論に行きつくのかと千里は気付く。美波にもそのように捉えられているならば、もはや手の施しようがなかったのだ。美波の信頼や愛情が他の二人より大きいことを鑑みても、美波で失敗した際は全てから手を引く必要があった。
しかし、美波が問題視したのは千里の態度ではなくその質問自体だった。
「まあ、私の想いが千里のより強い自信はあるよ。でも、だからって千里に不満を持ったりしない。そんなの意味のないことでしょ?」
「……意味のないこと?」
「そう。意味のないこと」
美波の説明は千里を困らせる。しかし、その原因は紗花や茜の時とはまるで違う。
「千里君がそんなことを気にするようになったのが、最近の元気のなさと関係があるのかは分からない。……でも、千里君が気にすることじゃない。ましてや、私の気持ちが分からないからって自分を責める必要なんてない」
美波も千里の変化に気が付いていた。千里はそんな相手に嘘を重ねていたのかとため息をつきたくなる。必死に騙そうとしていたことにも気付いていたかもしれないのだ。
「美波は優しいな」
「そうでもないよ?私だって不満が溢れたり、怒りを抑えきれなくなったりする。でも、人のそんな気持ちにいちいち付き合ってたらきりがないでしょ?だからそんな些細なことで思い悩む必要はないと思うの」
どこまでが本心なのかは定かでないが、美波は千里を安心させようと言葉を続ける。美波の気持ちを汲み取る力を持たない千里は、直接問いかけることにした。
「美波は最近の僕の様子がおかしいって言ったよね。それが気になったりしないの?」
「気になるよ?今日の千里君は特にね。いつも変だけど今日は冷たい。何があったのか気になるし、どうにかしてあげたいとも思う。だけど、迷惑に思われたら嫌だからどうしよっかなって考えてるところ。……どうしてほしいかな?」
美波の口調は優しい。千里は余計に申し訳ないと感じて、そしてため息をついてしまった。その瞬間だけ美波は驚きの表情を見せる。
「僕が何も説明できなかったとしても、同じこと言える?」
「言えるよ。……そんなに苦しいの?」
「……少しだけ」
千里は紗花や茜との出来事を思い出す。そして肩の力を抜いた。無茶なことは最初から分かっていた。それでも逃げるわけにはいかなかった。自分がしてきたことを思い出すと何か大切なものが壊れてしまいそうになる。
「そっか。それなら私が支えてあげないとだね」
店中は静寂に包まれていて、窓の外の通りには誰も歩いていない。まるで二人だけになってしまったような感覚になる。
「……きっとできないと思う」
「そうかな?やってみないと分からないよ」
美波はずっと千里に寄り添ってくれる。千里が弱音を吐いたのも、美波なら解決してくれるかもしれないと思ったからだった。
「今日の千里は新鮮だけど、少し寂しい。ずっとこんな調子でいられて困るのは私だから。千里が弱気になっちゃったのなら、私が引っ張り出してあげる。それが私のやり方」
そう言って美波は千里の手を握る。暖かいその手は千里を一心に考えていることを証明している。一方で、千里の手は美波の優しさを無償で受け取るだけだった。
「ありがとう。少し元気が出たよ。やっぱり美波に言ってみてよかった」
「肝心なことは何にも教えてもらってないけどね」
美波はこの時になって不満そうにする。しかし、雰囲気を和らげるための言葉で、本当に求めているわけではなかった。
「ごめん。その時が来たら絶対に話す。だから少し待ってほしい」
「いいよ。千里がそう言うなら」
美波は即座に了承する。千里の態度は冷酷だが、美波は不思議なほどに優しい。それからの雑談でも、美波がその話題を持ち出すことはなかった。
千里の変化に揺さぶられて、茜と美波では結果が変わった。その理由が環境の違いに由来する可能性はあったが、同時に人としての違いも考えられた。
深く考察することはできない。ただ、疲弊していた千里にとって美波の言葉は単純に嬉しいものだった。
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