第30話 混乱の始まり(1)

 各放送局が視聴率争いを行う大晦日の夜、千里は部屋に籠って考え事をしていた。叔父さんは休日を満喫するべく昼から酒をあおり、すでに寝てしまっている。千里はカレンダーを見てため息をつき、小夜の表情を思い出して頭をかいた。


 クリスマスイブに美波と過ごした行為は軽率だった。危険性を分かっていながら美波に押し切られ、その結果として窮地に追い込まれたのだ。美波の好感度は上がったかもしれないが、代償はあまりにも大きい。


 謎の男の考えも全く理解できていない。第三者に二股もしくは三股行為を気付かれることはレッドラインではなかった。三人と関係を維持し、本来の目的を達成できるのであればと黙認したのだ。千里にとって好都合ではあったが、隠された本心があるようで本能的に怯えてしまう。


 男との約束は仕上げの時期に入っている。しかし、紗花との関係への悪影響についてはまだ予測がついていない。千里が考えなければならないことは山積していた。


 年が明けるまで三十分と迫り、千里は就寝の準備を進める。その時、千里の携帯が鳴り響いた。相手が紗花だと分かると千里は一度手を引いてしまう。ここまで怖いと感じたことはなかった。


 ただ、電話に出なければ紗花の状況を把握できない。小夜が紗花に真実を伝えた公算は大きいが、事実は話を聞かなければ分からない。


 千里はゆっくりと携帯を手にして通話を始める。仮に別れ話を持ち掛けられても、千里の方針は変わらない。頭の中で全てを整理してから声を出した。


 「もしもし」


 「あ、北山君?上村だけど、いま大丈夫?」


 「うん、大丈夫だよ」


 久しぶりの紗花の声はいつも通りに聞こえ、千里はひとまず安心する。しかし、油断はできない。


 「ごめんね、こんな時間に。……でも声が聞きたくなったから。メッセージにしようかなって思ったんだけど、それだと話したいことの半分も伝えられないと思って」


 「全然気にしなくていいよ」


 紗花の話し方が若干変わるも、千里は気にせず会話を続ける。ただ、紗花は千里の呑気な言葉を聞いて、再び雰囲気を変化させた。


 「じゃあ、少し怒ってもいい?」


 可愛らしい声から怒気が顔を出す。千里はとっさに身構えたが、聞こえてきた紗花の口調は穏やかだった。


 「その前に聞いておきたいことがあるんだけど……何か心当たりはない?」


 「な、なんだろう」


 思い当たる節がある千里は息を詰まらせてたじろぐ。しかし、すぐに説明することはできない。言いなりになることは、紗花との関係破綻に手を貸すことに他ならないのだ。


 「分からないんだ。それじゃ、やっぱり怒るね。能天気な北山君のこと」


 その言葉と同時に大きく息を吸う音が聞こえてくる。千里は少し携帯を耳から離した。


 「あの時、約束したよね?クリスマスに会えない代わりに絶対埋め合わせをするって。私ね、ずっと待ってた。……それなのにカレンダー見て?忘れてたの?」


 怒声を覚悟した千里だったが、紗花の口調は拍子抜けするほど優しかった。しかし、憤怒の念はひしひしと伝わってくる。


 「そんなことはない……けど」


 千里は忘れていた。しかし、最初は否定する。紗花のことを考えていなかったわけではなく、クリスマスイブの一件を考えるあまり置き去りになってしまっていた。


 「嘘はよくないよ。北山君って私のことそんな風に考えてたんだ。私よりも大切なことで頭が一杯になってた?」


 紗花はすぐに千里の嘘を見破る。これで完全に紗花のペースに乗せられた。


 「……ごめん、忘れてた」


 「どうして?」


 千里が認めても間髪入れずに理由を問いかけてくる。説き伏せられないと悟った千里だったが、この期に及んで誤魔化すことにした。


 「色々あって。……あんまり言いたくないんだけど」


 「それは私が怒るから?それとも別の理由?」


 「別の理由だよ。紗花は関係ない……けど、心配させたのならそういうわけにもいかない」


 「そんな返答で私が納得すると思う?もしかして、適当な言葉で誤魔化せばいいやって考えた?」


 紗花は怒り心頭の様子である。ただ、今の説明ではそれも仕方がなかった。どうすれば納得してもらえるか分からない千里は、紗花が企みを知っているのかという判断も当然できない。


 そうして手札がなくなると言葉を返せなくなる。しかし、紗花は千里を追い込みはしなかった。


 「まあ、私に言えないことがあってもおかしくないか。私にもあるし。この話は終わりにしよう」


 「あ……ありがとう」


 「でも、そうなると別の言葉が聞きたい。何か分かる?」


 紗花は怒りを静めて、代わりに恥ずかしそうな声を出す。急に簡単になった質問の意図は千里でも容易に理解することができた。


 「えっと……好きだ。紗花」


 「ふふ、そっか。私がそれを聞きたがってるって思ったんだね」


 紗花は意味深な言い方をする。ただ、千里は間違えたとは思っていない。


 「それなら許すしかないなあ。今回だけだからね?次はどうなるか分からないよ?」


 紗花は嬉しそうな声で釘をさす。その時は本当の別れになると思いながら千里は頷いた。


 「実はこの話は余談で、本題は別のことなんだけど」


 紗花との殺伐としない喧嘩を終えて一息ついていた千里は、本題という言葉に再び緊張する。しかし、紗花の雰囲気の通り、今度は大した内容ではなかった。


 「明日、一緒に初詣に行かない?……北山君に用事があるなら無理だけど」


 「それは、もちろん大丈夫だよ」


 千里は少し考えてから回答する。元日はクリスマス同様に危険な一日である。再び失敗しないために千里ができることは、今度こそ家に引き籠ることだった。


 しかし、紗花の忍耐にも限界がある。ここで要求に答えられなければ、本当に愛想をつかされる危険性があった。今日の紗花はいい加減な千里を許すだけでなく、関係を元に戻そうと提案までしている。断ることなどできなかった。


 そうなれば、千里が注意すべきことは茜や美波の動向である。ただ、危険は別の箇所に隠れていた。


 「じゃあ決まり。久しぶりに二人きりになれるね……って言いたいところなんだけど、実は橋詰君と小夜も一緒なの。二人で行こうと思ってたんだけど、小夜に教えたら一緒に行くって聞かなくて」


 「そっか、いいじゃん」


 知らない内に危ない橋を渡ろうとしていた千里は乾いた声で笑う。小夜がまだ何も話していないことは、紗花の態度からほぼ間違いない。しかし、秘密を握る小夜が明日二人の前に顔を出すという。


 「まあ、そういうことだからよろしく。詳しいことは後で連絡するから」


 「うん、僕のせいで色々迷惑かけてごめん。それと……ありがとう」


 「いいの、北山君の声が聞けてほっとした」


 紗花の口調はいつも通りで、千里は罪悪感に胸を痛める。紗花は優し過ぎるため、これからも千里のような男に騙される可能性がある。それは嫌なことだった。


 「北山君」


 千里が電話を切るタイミングを見計らっていたとき、紗花が名前を呼んでくる。


 「ん?」


 「あけましておめでとう。今年もよろしくね」


 紗花はそう言って慌てて電話を切った。時計を見るとちょうど日付が変わる。


 電話を終えて携帯を見ると、千晶からのメッセージで溢れ返っていた。それに埋もれるように茜と美波からも同じ内容のメッセージが届いている。千里はそれらに返信してからベッドに横になった。次の朝を憂鬱に思いながら明日のことを考える。ただ、それほど時間が経つ前に千里は眠った。


 次の日、千里は集合場所の駅に一番に到着した。時間は朝の十時過ぎで、多くの人が流れを作って歩いている。すぐのところに神宮があるのだ。


 「うっす」


 最初に姿を現したのは宏太で、千里はその到着を歓迎する。仮に小夜だった場合、会話に苦労するはずだったのだ。


 「いいのか?デートの予定だったんだろ?」


 「別にいいんだけど……というか大林さんが決めたことでどうしようもないから」


 自分が邪魔ではないかと気にする宏太であるが、千里は強い味方だと思っている。宏太も千里の悪事をまだ知らないようだった。


 「あいつはネジが飛びすぎてるな。ちゃんと言わないと」


 宏太は小夜を非難する。しかし、小夜の気持ちを知る千里はそう簡単に評価できなかった。ただ、どうして紗花に知っていることを伝えないのかという疑問は残る。


 紗花は少ししてから小夜と一緒に現れた。談笑しながら近づく二人は千里と宏太に気付いて手を振ってくる。昨日の電話で怒っていたとは思えないほど、今日の紗花は明るかった。


 小夜は防寒を徹底した姿をしている。しかし、隣の紗花は赤を基調とした着物姿だった。雪下駄を履いているものの、積もった雪の上を歩く姿は寒そうに見える。


 「ごめんね、待った?」


 「いや、全然だよな」


 「ああ」


 紗花に返答した宏太が同意を求めてくる。千里がそれに対して頷くと、紗花は恥ずかしそうに袖を振った。褒めようと口を開いた千里だったが、そこに小夜が割り込んでくる。


 「早く行こ。結構混んでるし歩いてないと寒い」


 「そんなに着ぶくれしてるのにか?」


 「は?」


 宏太の言葉をあしらった小夜は紗花の手を引く。困った顔の紗花もそれに合わせて歩き始めた。


 神宮までの道は多くの人で賑わっていて、千里はいつものように周囲に視線を這わせる。しかし、今日は誰かと遭遇したとしてもクリスマスほど問題はなかった。学校の友人らと一緒に来たと話せば問題がないからである。


 辺りに漂う香ばしい匂いを満喫しながら四人は本殿に向かう。最初は小夜に捕まっていた紗花は道半ばで千里の隣にやってきた。気を遣ってくれたのか、宏太は小夜と話している。


 「……寒くない?」


 「大丈夫、中にだいぶ着てるから」


 下手良に慣れつつある千里だが、手先の感覚はすでになくなっている。紗花が手を差し出したため、千里はそれを握った。


 「冷たいよ。カイロあげようか?」


 「いいよ。こっちの方が良い」


 「そっか」


 紗花は声を小さくする。その代わりに千里の手を強く握った。前後左右には多くの人が歩いている。千里は無意識に周囲を警戒していた。


 「ねえ、北山君はこうしてて楽しい?」


 同じ予備校の学生を見つけて千里が注視していたとき、紗花が質問してくる。雑踏の騒がしさの中、千里はその学生が通り過ぎたことを確認してから答えた。


 「もちろん」


 「……こっち見て言ってよ」


 「え、なんて?」


 知った顔は通り過ぎていき、千里はひとまず安堵する。ただ、紗花の小さな声を最後だけ聞き取れなかった。紗花はむすっとした顔でそっぽを向いてしまう。


 それからしばらくは無言の時間が続いた。話題を持ち掛けようとしても、周囲を気にするとそれどころではなくなる。境内に入ってようやく紗花が口を開いた。


 「……ねえ、何か言い忘れてることはない?」


 「言い忘れてること?」


 前方に本殿が近づいている。千里が答えられないでいると、痺れを切らした紗花が袖を何度か振った。


 「すごく似合ってるよ。とても綺麗だ」


 「取ってつけたようなこと言って。全然思ってなかったくせに」


 いじける紗花は千里の手を離してしまう。その瞬間、冷たい空気が千里の手を襲う。取ってつけたわけではなく、小夜に腰を折られて言いづらくなっていただけだった。


 「そんなわけない。嬉しいよ」


 「本当に?」


 「本当だ」


 千里は当たり前だと言わんばかりの顔をしてみせる。しかし、紗花の表情はなかなか晴れない。


 「……まあいいや。ありがとう。選ぶのに時間かかったんだから」


 「そっか……ありがとう」


 千里は感謝の言葉を述べるが、同時に知った顔を前方に見つけてしまう。今度は科学部員の一人で、千里は顔を見られないように意識する。紗花のため息は耳に届かなかった。


 本堂での参拝を終えると、再び流れに逆らわないように順路を進む。小夜と宏太を見失ってしまい、紗花もめっきり口を開いてくれない。困った千里は紗花の隣をただ歩くしかなかった。


 しかし、あるところまで進んだとき、紗花は唐突に千里の手首を掴んで脇道に飛び込んだ。引かれる千里はただそれについていき、人気のない住宅街の一角でようやく解放される。困惑する千里が目にしたのは眉間にしわを寄せた紗花だった。


 「北山君!お願いだから本当のことを言って!?」


 紗花の第一声は周囲に響き渡るほど大きかった。表情は怒りで歪んでいる。


 「どうしたの?……本当のことって?」


 「本当のこと!私と一緒にいるの、そんなに楽しくない?」


 「そんなわけ……」


 「もう嘘つかないで!」


 千里が否定しようとすると、紗花は叫んでその言葉を遮る。千里は唇を噛んだ。


 「今日の北山君、ずっと違うところばかり見てた。私と一緒がそんなに嫌だった?」


 「違う」


 「それなら本当のことを教えて!最近の北山君、全然分からなくて苦しいよ。……何が私を北山君から遠ざけようとしてるの?どんなことでも私、ちゃんと聞く。嫌いになったのならそう言って?私に問題があるなら言ってよ!全部直すから!」


 紗花は涙を零して訴える。千里はどうすべきなのか分かっている。しかし、どうしてか決心が揺らいだ。


 「紗花が気にするようなことじゃないよ」


 「気にするに決まってる!北山君が好きなんだもん!私はずっと一緒にいたいよ……でも、そんな私の気持ちが北山君を困らせているのなら……」


 嗚咽を漏らす紗花は、それ以上言葉を続けられなくなる。抱きしめてあげれば何かが解決するかもしれないと考えるも、今の千里にそんなことをする権利はない。なおさら紗花を傷つけるだけなのだ。


 「……そっか。北山君はそう思ってるんだね」


 千里が立ち尽くしていると、紗花は顔をすっと上げる。涙がとめどなく流れて、激しい息遣いが白い息となっている。


 「ごめんね、もう耐えられないよ」


 「ま……って」


 紗花はそう言い残すと千里を置いて走り出した。千里はそんな紗花の後ろ姿を眺めるしかできない。地面の雪を蹴ってもどうにもならず、千里は民家のブロック塀に寄りかかった。


 謝らなければならないのは千里の方で、紗花を泣かせた自分を責めきれない。脅迫が言い訳にならないことは明らかで、紗花を弄んだのは千里以外の誰でもない。


 もはや全てを投げ捨ててしまおうかと千里はふと考える。紗花との間に起きたことは、近い将来に茜や美波との間でも起きる。栞奈を守らなければならないが、限界を超えつつある状況に力は湧いてこなかった。千里の考えは、徐々に約束の破棄と第三者への解決の委託に移っていく。


 一人になった千里がこの場に留まる必要はない。上手くいかない理由を考えながら駅の方向に足を向けた。


 しかし、道の先に一人の姿を見つけて千里は立ち止まることになった。小夜が無表情で近づいてくる。


 「喧嘩したんだ。全部見てたよ」


 「どういうことだ……」


 小夜が現れて千里は落ち着きをなくす。今の小夜は謎の男よりも恐ろしい。


 「三股してる北山千里。少しいい?」


 「……三股?」


 「そうでしょ?化学部部長の野依茜と、クリスマスイブに一緒にいた朝霧美波。全部調べはついてるから」


 美波は二人の名前を正確に述べる。千里はさすがに動揺を隠し切れなくなった。


 「バレてないと思った?紗花にはまだ気付かれてないから、そういう意味では上手くやってるのかな?」


 「あのときから調べたのか?」


 「いいえ。もっと前から知ってた。あの時は確認……というか隠し通せていないことを伝えるために」


 「……どういうことだ。どうして紗花にそれを伝えない?」


 千里はやはり小夜の考えを理解できない。小夜の言葉が真実ならば、行動の目的を図りかねるのだ。千里が不審に思っていると小夜は説明を続けた。


 「そうね、確かに紗花は大切な友達。……だから紗花を傷つけたお前が腹立たしい!」


 小夜が怒りを露わにする。紗花とは違って非常に攻撃的だった。


 「それなら早く教えてあげろよ。確かに僕は三人と付き合ってる。紗花を守りたいんだろ?」


 千里は矛盾を指摘する。黙認は紗花を傷つけることに等しいのだ。それに、千里の計画の行く末は小夜が握っている。小夜を理解しないことには今後の方針が立てられない。


 ただ、小夜はそんな千里の言葉に激昂した。拳を振り上げるもすんでのところで抑える。


 「黙れ!できるものなら今すぐ紗花を助けてあげたいよ!だけど……だけどお前のせいでそれができないんだよ!」


 「……伝えるだけじゃないのか?」


 小夜の説明は腑に落ちない。ただ、小夜は千里の疑問に答えはしなかった。


 「私はお前が嫌いだ。……だけど、このことを紗花に言うつもりはまだない。これからも紗花を傷つけるのなら、そうすればいい」


 「は?」


 意味が分からない。小夜は千里を憎みながら、それでも歪な関係を容認するという。千里の理解の範疇を軽く超えている。


 「理由は?メリットは?どういうことだ?」


 「教える筋合いはないでしょ」


 即答する小夜はどこか遠くに焦点を当てている。千里は状況が飲み込めなかった。


 「紗花は目の腫れが引くまでどこかをほっつき歩いてる。私は探して一緒に帰る。宏太には二人の邪魔をするなって言って帰ってもらった。だから北山君も今日は帰って」


 「何がどうなって……」


 「もう話すことはないから」


 最後になって若干語気を落とした小夜は口調も変わる。千里がそれに従って歩き始めると、小夜は後ろから声をかけた。


 「私にとって北山君は敵。それを忘れないで」


 小夜はそう言い残すなり紗花が去った方向に走り、千里は再び一人となる。その瞬間、漠然とした恐怖が唐突に姿を見せた。


 知らないところで不可解なことが起きている。小夜の説明を鵜呑みにすべきか判断に困るが、今はそれを頭に留めておくしかない。この先にある幕切れなど想像する気にもならなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る