第26話 要因探し

 この日は下手良に初雪が降った。十一月も半ばを超えていて、平年よりもかなり遅いと天気予報士が説明している。積もることはさすがになかったが、冬は着実に近づいていた。


 下校の足で予備校に向かった千里は、今では慣れてしまった特進化学の講義をそれなりのモチベーションで受ける。美波と付き合うという望み通りの結果を得ることができてから、もはや千里が予備校に行く理由はなくなった。また、今では千里の方が変化を恐れて現状を維持していた。


 千里は対処不可能な紗花の心の揺れに直面したばかりである。二度と同じ目に遭いたくない千里としては、美波との関係も保持することを望んだ。しかし、謎の男がそれを許してくれないことは言うまでもない。


 講義が終わると、いつものように美波がやってくる。美波以外に知り合いがいないため確認は取れないが、二人の仲は多くの学生の知るところとなっている。些細な情報の流出さえ恐れていた千里だったが、こればかりは封じ込められる話ではない。知らないところで人間関係が繋がっていないことを祈って、美波と一緒に予備校を出た。


 「ちゃんと見た?お昼に雪が降ったんだよ?」


 「見てたよ。もう完全に冬だね。寒くて仕方がない」


 千里は特別寒さに弱いわけではない。しかし、気温はこれからどんどんと下がっていくという。この調子では耐えられそうになかった。


 「今からそんなこと言ってて大丈夫?」


 本当の冬がまだ先であることを美波が指摘する。千里はそれを分かっていたが、あえて大げさにため息をついた。田舎ではないため灯油の消費を心配する必要はない。しかし、悩みの種は山積している。


 ファストフード店に入った二人はいつもの場所に腰を下ろす。店内は暖かく、千里はマフラーを取り払って一息ついた。飲み物と軽食を注文した後、すぐに雑談が始まる。


 「今日、家庭科の調理実習があったの」


 美波から話題を振ってくるのは最近の傾向で、千里はそれに乗る。最初の頃は講義の復習を目的に同じ場所に座っていたが、付き合ってからは一度もそんなことをしていない。


 「何を作ったの?」


 千里はそのような授業をまだ受けていない。故郷ではたいてい学校の畑で取れた具材を使っていたため、美波が作った料理を予想することは難しかった。


 「グラタン。冬だから」


 「へー、すごい」


 美波の回答に千里は単純な感想を述べる。頭には豚汁とおでんしか頭に浮かんでいなかったのだ。グラタンなど、名前だけ聞いたことのある洋食としか評価できない。


 「グラタンと一緒に何を作ったと思う?」


 美波は続けて質問をしてくる。調理実習といえば何種類か品目を用意するものなのだ。しかし、グラタンさえ曖昧にしか思い浮かばない千里にとって、そのお供が何になるのかは皆目見当つかなかった。


 「……白米?」


 「え?ごはん?そんなわけないでしょ」


 美波は一瞬真顔になる。しかし、すぐに声をあげて笑った。味噌汁と言いかけて白米にした千里だったが、どうやらどちらも間違っていたらしい。


 「じゃあ何作ったの?」


 「トマトのマリネ」


 「まりえ?」


 謎の横文字をオウム返しする。今度ばかりは睨まれた。


 「マリネ。知らない?」


 美波はまるで一般常識だと言わんばかりの顔をしている。ただ、千里は新しい言葉に困惑するしかない。


 「知らない。それは一般的な家庭料理?」


 「最近はだいぶそうなんじゃないかな。家でも何度か出てきたことあるし」


 「へ、へえ」


 千里は母親にそんなものを作ってもらったことはなく、こちらに来てからも見たことさえない。千里に美波の一般が分かるはずなかった。


 「じゃあ、せっかく作り方も習ったことだし、私が何かのタイミングで作ってあげるよ」


 それならばと美波は千里に提案する。対する千里は、ひとまずありがとうとだけ伝えておいた。約束だと念を押されるが、そんな未来が訪れないことを綾人は知っている。


 外でデートをする以外で指定されている三人と接触するつもりはない。それは千里にそんな大胆な行動ができないからであり、他の誰かに知られた際に言い訳ができないからである。外で会っている分には、友人と偶然会ったなどといくらでも誤魔化すことができるのだ。


 「それまでに腕を上げておかないと」


 千里が悪事を働いている横で、何も知らない美波は楽しそうに話している。現時点で千里と最も接近しているのは美波である。それは他の二人にはない積極性に由来する。千里は自分が能動的になる必要がなくなって面倒が省けたと思う反面、感じたことのない雰囲気に困った。今の美波に最初の頃の面影はほとんどなくなっている。


 「……ところでなんだけど」


 美波が今後の予定を勝手に立てている隣で、千里は小さく口を開く。首を傾げた美波はすぐに話を聞く体勢に入った。


 「その調理実習は誰と一緒にしたの?」


 「最初に決められた班だよ。私のところは四人班だから、男子がマリネ、女子がグラタンの具を作って、焼くのは一緒に見てたって感じかな」


 美波は少し上目遣いになって思い出している。それを聞いた千里は嫌がる口を強引に動かした。


 「ということは、美波の初めてのグラタンはもう食べられないってことか」


 一体何を言っているんだと千里は自分に呆れ、驚いている美波を見て恥ずかしさを感じる。紗花ならば、きっと女々しいと言ってきたはずだった。


 ただ、千里も考えなしにこんなことを口走っているわけではない。あくまでも美波との恋愛関係を揺さぶろうとしただけだった。


 「あ……そんなこと考えてもなかった」


 千里としては笑い飛ばしてほしい局面であったが、美波は大きく目を見開いた。千里はそんな反応が至極当然だと感じる。仮にそんなことを美波が気にしていたならば、幻滅していたに違いないのだ。ただ、美波からすぐに代替案が提示される。


 「でも大丈夫。その時はオーダーメイドだから」


 「そっか。じゃあ何も心配ないね」


 千里は美波の見解に納得するも、意味は全く分からなかった。千里が良い解釈を考えていると、次第に意地悪い顔になった美波が机越しに詰め寄ってくる。


 「あれ、ちょっと嫉妬したり?」


 「いや、そんなんじゃないけど」


 「本当?」


 「本当だよ」


 千里の目的は美波の反応を見ることである。しかし、堂々と指摘されてしまうと気持ちをなかなか割り切れなかった。


 「まあそう考えてくれるのは嬉しいけど……もし変な心配をしていたのならそれは杞憂かな」


 「だからしてないって」


 「私は千里君に一途だから」


 嫌な会話が続く中で、美波は恥ずかしげもなくそんなことを伝えてくる。一途かどうかは他人が決めることで、自分で宣言するものではない。しかし、当然のことのように言われると、千里のような人間は言葉を詰まらせるだけだった。


 「……ねえ、何か言ってくれないと恥ずかしいんだけど」


 「いや、そんなことを言うタイプだっけと思って」


 「まだ私のこと全然知らないでしょ?それでどうなの?千里君はどう思ってる?」


 美波は千里への追及をやめない。千里は仕方なく言葉を選んで伝えた。


 「確かに知らないことだらけかもしれない。でも、美波のこと信頼してるから」


 振り回されて目的を忘れかけていた千里だったが、ここで信頼という言葉を口にする。


 「ええー、本当?」


 口ではそんなことを言っているが、美波の顔にはこれまでにないほどの笑顔が綻ぶ。どうやら喜んでいるようだったが、信頼されて相手の好感度が上がることは予想できていたことだった。


 「嘘ついてると思う?」


 当たり前な結論を導くことに意味はない。千里は適当に返答して、些細なことからも意味を見い出せられないか考えた。


 「ううん、私も同じ。だからもうこんなことを考えなくていいよね」


 「そうだね」


 美波はたいそう機嫌よくしている。今日の所はそれでいいかと千里は考えた。


 今日の千里は、先日の紗花の時と比べて幾分か消極的な立ち回りをした。信頼度を下げるのではなく上げる方向で話をしたのもそれが原因である。しかし、話を終えてからそんな心配は不要だったと感じた。


 千里の感覚では、紗花に比べて美波の方が平常時の信頼度は圧倒的に高い。茜に対しては揺さぶりをかけていないが、三人の中では信頼度は最も低いと考えている。信頼されている美波に高い信頼度で振る舞ったため大きな変化が見られなかったと考察すれば、紗花の信頼度が中間的だったために変化が大きかったと推測できた。


 しかし、信頼度というたった一つの要因しか考えていないため、その考察がどこまで正しいのかは判断がつかない。矛盾ない結果と評価するよりは、矛盾が起きないように推論を立てたという方が正しいかもしれなかったのだ。それでも、男に報告するわずかなデータとしては機能するはずだった。


 謎の男から電話がかかってくるまでの十一月は、ある一つのことを除いて問題なく過ぎた。千里がもたらした紗花や美波との関係の変化は気になるほどの影響さえ残さなかったのだ。


 残る問題は小夜だった。クラスで小夜や宏太と昼食を取る時間は今も続いている。しかし、千里に対する小夜の態度は敵対的なものに発展した。文化祭前後で感じていた違和感とは比べ物にならない。


 どうして小夜がそうなったのかは千里の知るところではない。ただ、近くに紗花がいても隠そうとせず、紗花もそんな小夜に戸惑っているようだった。紗花と小夜は親友である。だからこそ、不可解な小夜の姿に紗花は困惑したのだ。


 十一月末には、小夜に何があったのか聞いてみたと紗花から話があった。しかし、小夜は紗花にも何も言わなかったようで、根本的な解決には至らなかった。千里が困っている旨と伝えると、もうそんな態度は取らないと約束したという。しかし、事情が分からない千里としては、心の内に隠された方が余計に気になった。


 小夜が千里の悪事に気付いた可能性はある。見かけでは三股をしているため、敵対的に見られても仕方がないのだ。しかし、そう考えると不可解な点もあった。


 それは、なぜ紗花に千里の正体を伝えないのかという点である。紗花を騙す千里を悪人と見るならば、紗花を守るために事実を伝えて関係解消を促すはずなのだ。しかし、紗花の千里に対する態度は変わっておらず、小夜が何かを伝えた様子はない。


 小夜が千里の事情を把握したわけでないのであれば、敵対的な態度は何に由来するのか。考えた挙句、もう一つ考えられた可能性は小夜が謎の男だということだった。しかし、この考察に無理があることはすでに議論されている。


 小夜が謎の男であれば、親友の紗花を道具のように扱うはずがない。それに、小夜が事件の詳細を知り得る方法が見当たらないのだ。さらに、千里が恋愛関係の要因を探っている中、今の小夜は邪魔以外の何物でもない。足を引っ張る小夜の行動は、男の目的と乖離していた。


 結局、明確な原因を把握できないまま月末を迎えた。予想していた通りの時期に電話がかかってきて、千里は一カ月ぶりの声を聞いた。


 「さて、残された時間も僅かになってきたわけだが、今月の成果を聞かせてもらおうか」


 「今月は恋愛関係の要因を調べるため、上村紗花と朝霧美波との関係を変化させた」


 男の口調は変わらず、くだらない目的は一貫している。千里は思わず、男が普段どのような生活を送っているのか気になってしまった。ただもちろん、そんな軽口を叩くことはしない。


 「具体的に教えろ」


 漠然とした言葉だけでは納得できないようで、男は詳細を求めてくる。千里は自身が考えた探索方法とその結果を報告した。


 「……つまり、信頼度に焦点を当てて二人に揺さぶりをかけたと」


 「そうだ。それで、紗花は信頼度を下げたことによって関係が乱れた。喧嘩をするほどではなかったが。美波は信頼度を上げると好感度みたいなものも上がった気がする」


 千里の説明に男は唸る。千里の中では弱々しくまとまりつつある考えだったが、男には伝わらなかった。


 「もう少し分かりやすく説明できないのか?変化の度合いは人によって振れるはずだ。数値化できないのか?」


 「どうやって?」


 規格化された数値で議論を交わすべきなのは間違いないが、人の感情を数値化するなど不可能である。誰もその方法を有していないのだ。


 「それを考えるのも君の仕事だろう?君は私に理解させる義務を負っている」


 男もその方法を把握できていないはずである。しかし、立場の差を利用して無理な要求をしてきた。


 「難しい。自分の中で漠然とした結果を集められても、それを数値化するなどとても短期間で成し遂げられない」


 千里は無理難題を突き付けられていることを正直に伝える。できないことは見栄を張らずに伝えておかなければ、むやみに男の失望を招く恐れがあるのだ。


 「私も鬼ではない。数値化できなければ図式化でもいい。それが出来れば最終的な結論として持ち込めるのだから。まあ、それを私が納得するかは全く別の話ではあるが」


 男はそう言って笑う。つまり、早く作成して男の可否を聞いておかなければ、直前だと男の独断で失敗するリスクがあるということだった。現段階で目途は全く立っていない。また、生半可な報告では男を納得させられないと分かっている。千里には効率的な解決方法を探す必要があった。


 「しかし、君の方法を否定するつもりはない。その方法も十分に良いと思っている。何を観察の対象にして、どのような探針を用いるのかは君に委ねられているのだ」


 「……調査は続ける。今月は手始めだと思ってもらっていい。来月には新しい結果を知らせることができる」


 千里は念を押して伝える。最終的な結果も大切であるが、短期的な男の理解も重要である。今月の千里が男の及第点を得たことを確認する必要があった。


 「それじゃ、期待しておくよ。君の周りは大変そうだが、くれぐれも知られることのないよう努力してくれ。常に監視されていることを忘れるな」


 男は決まり文句になりつつある台詞を吐いて電話を切る。千里は知っていたのかと思いながら、ひとまず尖らせていた神経をほぐした。


 来月はいよいよ十二月で、脅迫から半年が過ぎて年が変わろうとしている。千里は平穏な年明けをただ願った。

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