第25話 揺さぶり

 美波との関係が進展したことで、千里は指定されていた三人との恋愛関係の構築に成功した。十月の報告ではこのことを前面に押し出し、男の不満を受けることはなかった。


 しかし、報告が男に歓迎されることもなかった。千里は男の誉め言葉を欲しているわけではない。しかし、男の満足を確認できなければ、良くない未来を想像してしまう。


 とはいえ、三人との関係は厳密な調整のもとで進展させる必要がある。男の態度に気を取られている暇はなかった。


 三人と交際する中、次に千里が報告すべきことは恋愛関係構築の要因である。今でもその馬鹿げた命令に笑ってしまうが、それでも従わなければならない。


 十一月に入ってすぐ、最も接触しやすい紗花を相手に千里は要因の特定に入り始めた。


 紗花との関係は一定を保ち続けている。そんな中で千里から急激な変化はもたらしにくく、紗花も現状の関係に満足している。小夜の方が千里を疑い深く見ており、紗花がそばに居なくても小夜の視線に悩まされていた。


 恋愛関係がどのような要因によって形成されるのか。その探索方法を考え始めた千里は、当初、これといった名案を思い付くことができなかった。しかし、時間は無限にあるわけではなく、行動に移ったところで反応がすぐに見られるとも限らない。千里は方針を即決する必要があった。


 「今日は大林さんと一緒じゃないの?」


 ある日の放課後、一人で帰宅準備をしていた紗花に声をかける。紗花は小夜の座席を一瞥してから首を傾げた。


 「最近の小夜、少しおかしいんだよね。今日も行くところがあるってもう帰っちゃった」


 紗花は心配そうな顔をする。小夜の変化は千里も感じていることではあった。


 「小夜が理解しにくい人だって言われた意味が今ならよく分かるよ。何考えてるか本当に分からない」


 千里は最近の小夜を思い出して笑う。小夜と親密に話をする機会はあまりなく、せいぜい昼食時に会話を交わす程度である。それでも、最近の小夜の態度は冷たい。


 「私にまで秘密にしなくてもいいのに」


 不満気な面持ちとなった紗花は少し頬を膨らませる。横顔しか見せてくれなかったが、千里は無意識に可愛いと思った。


 「帰るところ?一緒に帰ろうか」


 「いいよ。小夜がいないから二人きりだね」


 紗花の雰囲気はいつも通りである。ただ、千里は紗花の笑顔に上手く反応できなかった。恋愛関係の要因を調べるにあたり、これから故意に関係を乱す予定だったからである。


 千里が考えついた方針は、三人に特定の揺さぶりをかけてそのときの反応を見るというものだった。人間関係は非常に多くの要因から成り立っている。ただ、その全てを把握してそれぞれの割合を調べることはできない。そういうこともあって、千里はいくつかの候補に絞ることにしたのだ。


 その一つが信頼関係である。恋愛とは人間関係が成熟した一形態といえる。一般的な人間関係に信頼が必要なのであれば、発展形の恋愛にも当然関与しているはずだった。


 いつものことながら、千里は冷や汗をかきつつ紗花と一緒に校門を出る。美波の視線をいつも気にしていて、慌てて男子トイレに避難することも何度かあった。ただ、今日はそうならなかった。


 冷たい空気が強い風となって千里に吹き付けてくる。他愛のない雑談が止まった瞬間を見計らって、千里は紗花に切り出した。


 「そういえば気になってたことがあるんだけど」


 「どうかしたの?」


 紗花の反応はいつも通りである。千里はリスクを感じつつ話を進める。


 「最近、変わったこととかない?」


 「変わったことって?」


 「いや……なんというか、最近の紗花って何考えてるのか分からないこと多くて。たまに虚ろな感じになったりしてるから」


 「そうかな?」


 紗花に思い当たる節はないらしい。ただそれは当たり前のことで、千里があまりにも誇張して伝えているためだった。とはいえ、反応の薄い紗花を気にしていたことは事実である。


 最近、紗花との関係は平坦そのものだった。曖昧な感覚ではあるものの、付き合う前の関係に戻ってしまったようだったのだ。


 「そこまで気になることじゃないし、僕が言えたことでもないけど。……でも、何かあったのかなって」


 「……北山君がそんなこと気にするなんて。いつもは私の気持ち、お構いなしなのに」


 紗花は笑って小馬鹿にしてくる。その笑顔一つで千里は思い過しだと分かった。意味のない嘘を紗花がつかないことを千里は知っていて、それさえも疑うことなどできないからである。本来ならば、千里の話はここで終わる。


 しかし、千里は紗花が誤魔化したのではないかと疑うことにした。


 「気にしすぎだったらいいんだけど……何か僕に言えないことで悩んでいたりしていないよね?」


 「えっ?」


 千里の言葉に紗花は驚く。千里は申し訳なく思いながら、深刻な顔つきで紗花と対峙した。


 「……そういうのはないよ」


 紗花の返答も幾分か暗くなる。質問の意図を考えているようだった。


 「それならいいんだ。でも、紗花を困らせたくないから。嫌がったりされるとつらいし」


 「何の話をしてるの?」


 千里は困りながら言葉を続ける。初体験の千里にとって、どのような表現が最も目的に適しているのか分からない。しかし、紗花は我慢ができなくなったのか千里の罠に食いついた。慌てているようにも見え、歩くスピードも落ちてきている。


 「いや、もやもやしててちゃんと説明できないんだけど」


 「説明してほしい。何か私、北山君にそう思わせるようなことしちゃった?」


 いつもは千里が紗花を困らせてばかりである。しかし、今回は紗花が原因であるかのように振る舞う。紗花の反応は新鮮だった。


 「気にしなくていいよ。僕の思い違いだと思うから」


 この場で解決させてはいけない。問題をくすぶらせることで、千里の不信感を遠回しに伝えられるのだ。ただ、紗花は早急な解決を図ってくる。


 「ねえ、どこかで話す?私よく分からなくて」


 「大丈夫。気にしないで」


 「気にするに決まってるよ。今から時間ある?」


 紗花は千里の手を握って立ち止まらせようとする。しかし、その要求に応えることなく千里は歩き続けた。困り顔の紗花に解決を求められると、自分がそれを無視し続けられないと分かっていたからである。


 「ごめん。今日は用事があって。また今度話そう」


 「……分かった」


 千里が断ると紗花は露骨に困った顔をする。関係を揺さぶるためとはいえ、紗花の反応に胸が痛んだ。しかし、二人が別れる交差点が見えて、千里は何も考えることなくそこまで歩いた。


 最後の紗花は気丈にも笑っていて、もはや内心を読ませてはくれなかった。千里に紗花との関係を終わらせるつもりなど毛頭ない。しかし、下手良独特の冷たい空気が千里に身震いをさせた。


 次の日、学校に登校した千里は一息つく間も与えられないうちに紗花に声をかけられた。いつも通りに振る舞おうとしていることは見てすぐに分かる。それでも千里は心を鬼にして冷たく反応した。


 「どうかしたの?」


 昨日の今日で千里が紗花の本心に気付いていないわけがない。千里が冷たい反応をしても、紗花は表情一つ変えなかった。反対に揺さぶりをかけられているような気になってしまう。


 「ここじゃ話しにくいよね。どこか静かなところで話がしたい」


 「でももうすぐ朝の……」


 「来て!」


 唐突に語気を強めた紗花の声が教室に響く。すでに登校していた数人が千里らに視線を向けてくる。紗花はそれでも動かず、千里の返答を待っていた。


 「分かった」


 千里が了承すると、紗花は何も言わないで千里の手を引いて歩き始める。多くの視線を背中に受けて、千里は悪い噂が立つことを恐れた。噂をされることが嫌なのではなく、尾ひれをつけて茜の耳に届くことを危惧したのだ。


 おまけに、教室を出た二人は偶然にも小夜と鉢合わせてしまった。紗花はおはようと一言かけて、すぐに小夜から離れる。千里も小夜の鋭い視線から遠ざかった。


 紗花が立ち止まったのは、千里もよく知る校舎裏だった。人の気配は全くない。その場でようやく千里の手を離した紗花は、向き合って即座に話を始めた。


 「単刀直入に聞くね。北山君は私が嫌いになっちゃった?」


 胸の前で手を合わせた紗花は上目遣いでそう問いかけてくる。今にも涙ぐみそうな紗花の瞳を見て、千里は何とか首を横に振って否定した。しかし、紗花はそう簡単に態度を改めてくれない。


 「でも、昨日たくさん考えてそうなんじゃないかって思った。私には北山君に隠してることなんて一つもないし、疑われるようなことをしたつもりもなかった。だから、もし北山君が私を気にして言えなかったことがあるのなら、今はっきりと言ってほしい。……できない?」


 「で……できるよ」


 千里は全身に力を入れて答える。今の紗花は危険なほどに人を魅了することができる。関係が狂ってしまった原因を理解できなくとも紗花は必死に修復しようとしていて、千里は深い罪悪感に襲われた。できると言ったものの、千里の口は思うように動かない。


 「嫉妬深いのは嫌?乾いた関係の方が好み?」


 「………」


 紗花は何かに気付いたような顔をする。千里は突然何の話が始まったのかと困惑した。


 「もしそうだったのなら、気付いてあげられなくてごめん。私ってこれだけ嫉妬深いくらいだから、やっぱり淡泊な関係よりもはっきりお互いの気持ちを感じあえる方が良くて」


 「そっか……」


 「でも、それで嫌われるくらいなら私は北山君に合わせる。もうこんな面倒な話もしない。どうやったら解決できるかな?教えてくれたら嬉しい」


 紗花は千里との距離感を失っている。詰め寄って答えを聞こうとしているが、千里の反応を恐れて距離を取ろうともしているのだ。対する千里は紗花に酷い態度を取るだけでなく、嫌いと言われずに済んで胸を撫で下ろしていた。


 千里の動機は単純に紗花の観察だった。その結果、予想よりも大きく関係が変化することを知った。また、紗花が関係を修復しようとくれたのは奇跡であり、仮に見限られていれば、千里は自分の力で修復させられなかったはずである。それは男との約束が果たせなくなることを意味していた。


 人との関係を弄ぶと大きな代償を伴う。分かっていたはずのことを千里はいつの間にか忘れていた。疑いようもなく、謎の男との約束の弊害である。


 「ごめん。僕は紗花に謝らないといけない」


 これ以上不安定な状態が続くとさらなる問題が生じかねない。そう思った千里は頭を下げた。


 「……私が北山君を困らせていたんでしょ?どうして謝るの?」


 紗花は首を傾げている。謝罪の理由が聞きたいようだった。


 「実は、僕の方が紗花に愛想つかされてるんじゃないかって気になってたんだ。でも、直接聞くなんてできなくて、だから紗花の気持ちを探ろうとこんなことを。だから、僕が悪いんだ」


 「…………」


 千里の言葉に紗花は難しい顔をする。言葉ではこんなことを言っていても、所詮千里は嘘を貫き通そうとしているだけである。そんな内心と言葉の違いを読み取られたのかもしれなかった。


 もはや千里から何かを言うことはできない。しばらく待っていると紗花は弱々しい声で質問してきた。


 「よく分からない。どうしてこんな賢くないことをしたの?私が知ってる北山君らしくないよ」


 「僕にもよく分からない。……でも一つ言えることは、紗花にそんな顔をされると苦しい」


 今ではすらすらと出てくるようになった偽りの言葉。それを聞いて紗花は千里に詰め寄ってきた。初めて見る憤怒の表情に千里は唇を噛む。


 「ふざけないで!私が昨日どんな気持ちで過ごしたと思ってるの?あんな別れ方されて、蓋を開けてみれば自分勝手な理由!信じられない!」


 「ごめん」


 「謝らないで。そんな言葉より、どうしてそんな勘違いをしたのかが聞きたい。北山君が間違っただけなのか、私に原因があったのか。ちゃんと確認しないと」


 ここまで人を怒らせたことは初めてである。それに、紗花の気持ちを予定とは違う形で知ってしまった。千里は自分が紗花に害悪しかもたらさないことを再確認し、思わず全てを打ち明けてしまいそうになった。しかし、千里はなんとかそれを思いとどまる。


 「僕の勘違いだ。本当にごめん。でも、僕は紗花が好きだ。だからまた同じような勘違いをするかもしれない。今度は素直に聞くよ」


 こんなに純粋な紗花に触れても、千里はまだ嘘をつくことができる。心は揺らいでいなかった。


 「そっか。北山君ってそんなに女々しい人だったんだ。知らなかったな」


 千里の悪事を見破れない紗花はようやく笑顔になる。千里も心の中で笑顔になった。


 「でも、安心した。前からよく分からないところが多かったから。妹さんの時とか幼馴染の人が来た時とか。それに、自分のことはあまり教えてくれないし。でも、やっと一つ教えてくれたって感じなのかな」


 「紗花が望むなら何でも教える」


 都合の良い言い方をする千里にそんなつもりはない。紗花もどうやら疑っているようで、千里の言葉が本当なのか確認してきた。


 「じゃあ、一つだけ教えて?」


 「ああ」


 「今までに私に嘘をついたことはある?あったとしても何なのかは聞かない。だから正直に教えて?」


 紗花の質問は二択で答えられる簡単な問いだった。穏やかな表情をしている紗花は、ただ聞いてみただけという雰囲気を出している。


 しかし、これが返答に難しい質問であることに千里は遅れて気付いた。紗花は答えを待っている。しかし、千里は返答に戸惑ってしまう。


 事実から言えば、千里は嘘をついたことがある。それどころか、紗花が知る千里の全てが嘘で塗り固められている。だからといって、そう答えたときの紗花の反応が予想できない。千里は紗花の様子を見ながら必死に頭を働かせた。


 ただ、紗花はそんな千里を楽しそうに見ていた。その姿を見て、千里はようやく理解する。


 「……ある」


 「やっと答えた。これは嘘じゃないみたいだね、よかった」


 「紗花?」


 「ごめんね、意地悪な質問で。でも、聞いておきたかったから」


 最初から紗花は答えを知っていたようだった。しかし、どの嘘に気付いていたのかは分からない。一つ言えることがあるとすれば、どの嘘がそれに該当してもおかしくないということである。


 「もう一時間目始まっちゃってるね。……どうする?」


 「どうって?」


 「今から戻ると、私たちのことクラスに知れ渡っちゃうけど」


 紗花は千里に判断を委ねてくる。千里の事情だけで言えば、一時間目を無断欠席して休み時間中に戻った方が騒ぎにはなりにくく望ましい。しかし、千里はあえて紗花の意見を聞いた。


 「紗花はどうしたい?」


 「そうだなあ。じゃあサボっちゃおうか。その方が北山君もいいでしょ?」


 「……そうだね」


 結局、紗花が決定して千里はそれに従う。どうしてその方が良いと思ったのかは疑問だったが、今の千里に紗花と心を読み合うつもりはなかった。決定的な秘密を掴まれる前に、口を閉ざす必要があったのだ。

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