第24話 告白
十月も残り十日を切り、千里は決断の時を迎えた。大きな変化のない生活は文化祭が終わった後から続いていて、停滞期間はひと月を超える。紗花や茜との関係では二人の積極性に救われた。しかし、それが毎回起きるとは限らない。十月はまさにその月だった。
美波との関係は依然良好なままであるが、決定的な結果が手に入らない。謎の男がしびれを切らす可能性を常に危惧していた千里だったが、決心できたのは時間的な余裕がなくなってからだった。
講義が終わると、最近は美波から話しかけてくるようになった。この日も美波の誘いを受けた千里だったが、いつものファストフード店ではなくファミレスに連れていかれる。珍しいことではないが、ファミレスが選ばれた際はいつもの復習は行われない。この日は話をするために時間が設けられたようだった。
「いつもの席が空いててよかった」
美波は禁煙スペースの窓側の席を好んでいる。夕食の時間にしてはもう遅いため、客はそれほど多くなかった。
「今日はどうしたの?」
千里は美波に事情を聞く。美波がここを選ぶときはいつも話を持ち掛けてくる。今日も同じだと思っていた千里だったが、美波は首を傾げた。
「別に大したことはないけど」
そう言って美波はメニュー表に目を通し始める。本来ならば会話が続くはずであるが、この日に限って美波は黙ってしまった。
「ハンバーガーとポテトじゃ足りないくらいお腹が空いた?」
千里は考えられる可能性を示す。しかし、その言葉に美波は不満そうな顔をして、困った千里は同じようにメニューに目を通すほかなかった。
それぞれが定食を注文しても沈黙が継続する。人前では寡黙な美波は案外おしゃべりな性格である。そんな美波が黙ってしまっているため、千里から話題を提供しなければならなかった。
「そういえば中間テストはどうだった?」
「いつも通りかな」
千里が問いかけるとすぐに答えが返ってくる。美波のいつも通りとは優秀を意味していて、千里はさすが秀才なだけあると思った。
「僕も化学がいつもより良かった。勉強って案外効果あるんだね」
千里は冗談半分でそんなことを言ってみる。美波が会話の主導権を握っていないことに違和感を覚えるほど、二人はこれまでに話をしてきた。そろそろいつもの美波に戻ってほしい。そう思っていると願いが通じたのか、美波は明るい雰囲気を醸し出した。
「当たり前でしょ?私が教えてるんだよ?」
「そうだったね。できるものなら全教科教えてほしいくらいだけど」
少し安心した千里は饒舌になる。その時になって注文した料理が届いた。他の客が少ないためか提供はいつもより早い。
「少し疑問に思ってることがあるんだけど、そのことを聞いてもいい?」
何口か食べ進めた後、美波が千里に視線を向けてくる。千里はジェスチャーで続けるように促した。
「正直に教えてほしいんだけど、千里君は勉強が好きじゃないでしょ?」
「いまさら?」
どんな質問が飛んでくるのかと身構えた千里だったが、内容は大したものではなかった。ただ、美波はすぐに次の質問に移る。
「それに、学力をそこまで必要としてない。そうでしょ?」
「……どういうこと?」
質問の意味を理解できず、千里は分かりやすい説明を求める。どういう意味での学力かによって答えは変わるのだ。
「予備校に来てる人には理由が絶対にある。お金を払ってるわけだから」
「それは確かに」
千里は美波の主張に同意する。予備校に来る学生が持つ理由など様々で、自主的に勉学の場を求めている場合もあれば親に強制されている場合もある。しかし、美波の話には繋がりが見られない。千里は何を問われているのかよく分からなかった。
「でも、千里君が予備校に来てる理由がよく分からない。能動的ではなさそうだし、誰かに強制されているわけでもなさそうだから。千里君は勉強が好きじゃないって言った。それでもここに来てる理由が知りたくて」
「なんか失礼な物言いのように感じるのは気のせい?」
千里は会話にクッションを挟むが、美波は首をすくめるだけである。困った千里は頭の中を整理してから話を始めた。
「確かに勉強は好きじゃない。どちらかというと嫌いな方に入るかもしれない」
「だろうね」
「でも、しなければならないことって大抵面倒くさいことばかりだと思う。だから僕は予備校に通って講義を受けてた」
千里は話を止めて、美波の反応を待つ間に食事を行う。困惑している様子はないが、千里の言葉を理解できていなかった。
「勉強をしないといけないって使命感にあおられてるの?私と同じで」
「まあそうかな。具体的に言えば、そうだったって方が正しいけど」
千里は遠回しに話を進める。美波がさらなる説明を求めるのも無理はなく、千里は本質的な話に移ることにした。
「最初はそんな理由だったってこと。知っての通り僕は全然賢くないし、来年は一人で担うことになるかもしれない化学部だけど、一般的な知識さえない状況だから。でも、夏休みから通うようになってから、その理由が変わった気がする」
千里の作戦はすでに始まっている。美波は少し考えた後に確認してきた。
「最初は化学を勉強しようと思って来てたけど、今ではその理由が変わったってこと?」
「そうだね」
千里は頷いて美波の反応を注意深く観察する。千里の嘘はいつものように辻褄を合わせるためではない。計画を順調に進められるか見極めるためだった。
美波がこんな話題で真剣に考える必要はない。それでも、思考を巡らせている美波の姿を見た千里は、計画が思い通りに進むのではないかと考えた。
ただ、美波は熟考するだけで千里の本心に気付きはしなかった。
「よく分からないな。わざと難しく言ってない?」
理解に苦しんだ美波は、とうとう千里の要領を得ない話し方に文句をつける。そろそろ限界だと考えた千里はストレートに話を持ち込んだ。
「言ってないよ。美波さんとこうして話しているのが楽しくて、今ではそれが目的になってるってこと」
今まで冷静に話を続けてきた千里であるが、この時だけは緊張感で支配される。平静を装っているが、美波の表情から目を離すことはできない。ここで拒絶されれば全てが水泡に帰するのだ。それどころか、紗花や茜との成功まで台無しとなってしまう。
美波は口に運んでいた箸を空中で止めて千里を見つめている。千里は目が泳がないようにするだけで精一杯だった。
「……からかってる?」
「からかうためにこんな恥ずかしいこと言えるわけないでしょ」
「でも……」
美波は箸をおいて必死に何かを伝えようとする。しかし、なかなか言葉が出てこない。千里は時期が早すぎたのではないかと嫌な予感を持つ。しばらく思案していた美波は、千里の水を飲む動作を機に口を開いた。
「それはあれだよね。……こうして話をするのが楽しいってことだよね」
「そうだよ。さっきもそう言った」
「それだけ、だよね?」
念を押す美波に気押されつつも千里は肯定する。美波を困らせるつもりなどなかったが、当の本人は話を複雑に解釈しようとしている。結果として、千里が美波の心を推し量ることはできなかった。
「それだけというか、本当のことを言えば……」
「ちょっと待って!」
用意していた次の言葉を千里が伝えようとすると、美波はやや語彙を強めた。そして、何事かと思った千里の目の前で両手を忙しそうに動かし始めた。姿勢を正したかと思えば、ナフキンで口を拭って髪を整えている。
「……なんだったっけ。続けて?」
身なりを整えた美波は作り笑いを浮かべる。さすがに千里は困惑したが、今の行動のおかげで美波の気持ちの一端を理解することはできた。そういうこともあって、結論を先延ばしにしようとしていた千里はここで決着をつけることにした。
「美波さんが好きだから。だから話すのが楽しい」
決意が揺らいでしまう前に千里は告白する。身構えていたはずの美波は落ち着きをなくしていて、整えていた髪を崩してしまう。
「そっか……そうなんだ。そっか……」
口を開けば語彙力まで低下してしまっている。ただ、千里の告白を拒絶するような態度は示さない。千里が不思議な雰囲気に飲み込まれようとしていたとき、美波によって有意義な会話が再開された。
「嬉しいな。でもおかしい」
「何か変なこと言った?」
嬉しいと言ったときは笑顔だったが、その後は考え込むような表情に変わる。何度か言い淀んでから、美波は違和感の故を教えてくれた。
「だって私はてっきり……てっきり千里君は野依さんが好きなんだと思ってたから。本当はこうして二人でいることも良くないのかなと思ってたし」
「どうしてそんな勘違いを?」
千里ははっきりと間違いであることを伝え、そう考えるに至った理由を問いかける。美波がそう感じたのには理由があるはずで、今後のためにもそれを知らなけらばならなかったのだ。
「誰だってそう考えるよ。千里君は化学が好きじゃないのに、野依さんしかいない化学部に入った。それで野依さんに迷惑をかけないために化学を勉強しようとここに来た。……どうして化学部に入ったのか考えれば誰だってそう思うでしょ?」
美波の指摘は的確かつ論理的だった。その通りだと感じた千里は、美波の質問にすぐに答えられない。
下手良高校の中では、化学部に入った理由を化学が好きだからということで説明していた。しかし、美波は千里が化学を入部後に勉強していることを知っている。化学が目的でないとすれば、千里も美波が言ったこと以外に理由が思いつかなかった。
しかし、黙っているだけでは美波の疑念を深くするだけである。質の悪い嘘ではすぐに見破られてしまう。千里は駆け引きをした上で、思いついた言い訳で説明を試みた。
「言ったか覚えてないけど、実は下手良高校にもサイエンスの方の科学部もあって。本当はそっちに入部するつもりだった。実は天体が好きなんだ」
好きという言葉に美波は敏感に反応する。千里は様子を窺ったが、恥ずかしそうにしている美波を見て続けた。
「それで入部届をもらいに行った先が化学実験室だった。その時はサイエンスだからそこが部室でもおかしくないって思った。そこにいたのが今の部長で、科学部かと聞いたら化学部だと答えてくれたから間違いないんだろうと思って色々話を聞いた。その時に極端に化け学のことばかり話すなあと思ったけど、そこまで疑いもしなかった。だって同名の部活が二つあるなんて思いもしてなかったから」
「千里君は天然なの?」
美波は呆れたように聞いてくる。千里も他の人から同じ話を聞いた時には同様の感想を持つに違いない。しかし、嘘の上に重ねた嘘を強固にするためには、それくらいの評価は受け入れなければならなかった。
「そう思うよね。でも、間違えた僕は入部の手続きをした。それが終わると部長はすごく嬉しそうにしてくれて、その後に間違いに気付いたんだけど言い出せなかった。それで結局このままってわけ」
「面白い話。一人しかいなかったら野依さんもそうなるよね。それに、確かに千里君だったら言い出せそうにないし」
嘘が通じたのか、美波は納得してくれる。千里は安堵するが、とっさに重ねた嘘の影響を考えなければならなかった。自らの感情に嘘をついている分には、それを暴露さえしなければ問題はない。だた、今回の嘘は他の人に聞けばすぐに暴かれるのだ。
「それで、僕の告白の続きなんだけど」
道を外れてしまっていたが、今は美波の返答を待っている時間である。話を戻された美波は再び挙動不審になった。
「急に言われても準備できてないよ。私、理由をまとめられてないし」
「理由って?」
「返事の根拠のこと。適当なことは言えないでしょ?」
律儀なのか何なのか、美波は変なところで気を遣う。ただ、受け入れるかどうかを聞くことができれば千里はそれで十分である。紗花にはそんなことを気にしないでいいと言われ、お試しで付き合うことはよくあると説明されていたのだ。しかし、美波はそうではないようだった。
「どれくらい待てばいい?時間がいるなら今日は別に聞かないけど」
「ううん。ちょっと待って。すぐに答えるからその間に食べてて」
美波はそう言って、問題を解くときのような顔つきで考え始める。食事が喉を通るはずもなく、千里は仕方なく美波を眺めて時間を潰した。
準備ができたと美波が伝えてきたのは数分後だった。長く感じたその時間も、美波は短いと思っていたかもしれない。
「えっと、答えなんだけど」
「う、うん」
「気付いてると思うけど、私も千里君が好き。でも、理由がなかなか出てこなかった。どうしてと言われたらやっぱり困る」
美波は結局好きになった根拠を説明できなかった。ただ、無理をさせてまで求めるつもりは千里にはなかった。
「まあいいよそんなことは。その返答だけで……」
「でも、私は千里君がそう思ってくれた理由が気になる」
美波は千里の根拠が気になるようで、食ってかかって問いかけてくる。千里は冷や汗を流した。
「え、でも美波さんが言ってくれないのなら……」
「私は言わないんじゃなくて言えないの。だから言葉を見つけられたらちゃんと伝える。でも千里君は持ってるんでしょ?だからこうして告白してくれた」
美波は期待の眼差しで見つめてくる。千里は感情の揺れを隠せなくなり、美波を視界に捉え続けることも難しくなる。それでも美波は待った。
「美波さんが準備できるまで待ってくれない?一緒に確認するっていうのは?」
「待てないよそんなの。教えて?」
美波は身を乗り出して千里に求めてくる。話を引き延ばすことは美波にとって酷でしかないと考えた千里は、大きく息を吸って、そして吐き出した。
「勉強に一心な姿は魅力的だった。最初の頃はとても不愛想だったけど、話をするようになってから特に思うようになった。僕のこともあの目で見てほしいと思った」
「な、なに言ってるの!?」
選び抜いた言葉に千里は反吐が出そうだった。こんなことを口にする日が来るとは思ってもおらず、美波も顔を真っ赤にして呆然としている。ただ、言ってほしいと伝えてきたのは美波であるため、そんな反応は心外だった。
「告白より恥ずかしいんだけど」
「聞いてる私の身にもなってよ」
美波は困惑しているのか、手当たり次第に何かを手にしてはその場に置く。時間が経つたびに居心地の悪さはひどくなった。
「困らせる気はなかったんだけど」
「困ってない。恥ずかしいだけ。そんなこと言われたことなくて、どうしたらいいのか分からないの」
「そうなんだ。それはそれで嬉しいな」
自棄になったわけではないが、どうせならと千里は畳み掛ける。それを聞いて美波は耳まで赤くしてしまう。しかし、動揺している様子は消えていった。
「信じるよ?」
「信じて」
美波はたった一言、千里に大切な確認をする。千里はいとも簡単にその気持ちを裏切り、それを悪事だと感じることもない。美波は千里を信用して照れ笑いを浮かべた。
「私が千里君を好きになったのは、そうやって一途だからなんだと思う」
「……僕の気持ちに便乗してない?別にいいんだけど」
「だって恥ずかしいから」
千里の勇気にただ乗りしたことを追及すると美波は唇を尖らせる。そんな顔もできるのかと見惚れると、美波に気付かれてしまった。にやにやと笑っている美波に千里はむやみに言い返さない。
「でも、千里君が求めるなら夢中にさせてあげられる」
「え……」
美波は薄ら笑いとともに千里を凝視する。その目はまさに千里が説明に挙げていたものだった。
「もちろん、勉強なんかとは比べ物にならないくらい」
美波は千里が言ったからそれに応えただけという雰囲気である。しかし、千里は美波の佇まいに反応が追い付かなかった。妙な束縛感が千里を締め付けていたのだ。
「なんか反応してよ。恥ずかしいんだよ?」
「いや、美波さんってそんなことも言えるんだと思って」
「私を何だと思ってるの。言ったよね?もっと夢中になれるものがあるならそれを優先するって。意味分かる?」
今度は挑発するような視線が向けられる。紗花や茜では見られなかった姿に千里は狼狽した。
「よく分かる」
「そういうことだから。これからもよろしくね?」
手を伸ばしてくる美波を前に千里は数秒固まってしまう。しかし、すぐにその手を握ると美波も優しく握り返してくれた。千里もそれに応じて力を込めるが、その手はすぐに震えてしまった。
結局、千里の方が心を大きく揺り動かされていた。
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