第23話 美波との接近

 慌ただしかった文化祭がまるでなかったかのように、九月下旬は穏やかな日が続いた。男が指定した三人が同じ場所に集まるだけでなく、栞奈までもが下手良高校に訪れた。思い返しても混乱の境地だったと言わざるを得ないが、これを機に千里は自分の気持ちを再確認することができた。


 九月の報告は最短時間で終わった。栞奈の訪問に対する説明を求めた男が、一度不規則的に電話をかけていたからである。


 そして、秋も深まる十月がやってきた。下手良の秋は故郷に比べて寒い。朝の気温はすでに一桁台で、冬がすぐそこにまで迫っている。


 紗花や茜との関係は横ばいで推移している。文化祭前と同じように、紗花とは学校以外で二人きりの時間を作る。また、受験勉強のために化学部の活動頻度は落ちたものの、茜とも特別な変化がないまま時間が経過している。進展がない代わりに困るようなこともなかった。


 ただ、美波との関係は十月に入って劇的に変化した。文化祭での美波は、ただの知り合いとして振る舞っていた。しかし、千里に対する態度に明らかな違いが見られるようになっていたのだ。


 予備校での講義が終わると、この日も二人は駅前のファストフード店に入って復習を始める。講義がある度に行われていて、何回目になるのかはもう覚えていない。千里は眠たい目をこすりながら、美波の説明を聞いて演習を解いた。


 「だから、そこは違うって」


 面倒くさいと思いながら手を動かしていると、美波から間違いを指摘される。千里はその解答を消しゴムで消して、再び間違った答えを書く。そして、美波の冷たい視線を浴びた。


 「真剣にやってる?」


 「もちろん。だけど、睡魔に負けそうで」


 千里は正直に今の状況を説明する。美波との関係を望んでいた千里だったが、こんなことは想定していなかったのだ。


 文化祭の後も千里は美波との接触を図った。そして、化学の勉強という建前を使って関係の構築を試みた。しかし、どういうわけか目的が化学の勉強にすり替わっていて、千里は地獄を見ている。


 「そんなこと言ってたらまた次のテストで悪い点を取る。そうなると野依さんに申し訳ないでしょ?」


 美波は茜の名前を出して一層勉強に励むよう強要してくる。千里は天井を仰いだ。


 「僕にそんなことを求めないでほしい。基本は平均的な学生なんだ。それに、最初に教えて欲しいって言ったときは非協力的だった」


 千里は美波との初めての会話を思い出す。そのときの様子を知る千里だからこそ、美波の魂胆が分からない。


 「だって、今のままだと野依さんに迷惑をかけるだけでしょ?卒業した後は千里君が化学部を背負う。このままじゃ全然出来そうにないから」


 「そうだとしても、美波さんが気にすることじゃない」


 一度しか話していないが、美波はすっかり茜を尊敬してしまっている。化学の知識量に驚かされたのか、茜の研究魂に心を動かされたのかは知るところではない。ただ、そのせいで千里は小さくない被害を受けていた。


 「でも、あれからも教えてほしいって言ってきたのは千里君でしょ?」


 美波がどうして文句を言ってくるのかと不満そうな顔をして、千里は何も言い返せなくなる。講義後に少しだけ化学の話をして、すぐに他愛もない雑談をすることが千里の計画だった。しかし、今の千里は講義の後にさらに講義を受けているだけである。


 「実は、野依さんの話を聞いて分かっちゃたんだけど。千里君、野依さんの前では本当のことを隠してるでしょ?」


 「ほ、本当のことって?」


 隠し事が山のようにある千里は少し焦る。ただ、美波の言い草はその中でも些細なことだった。


 「野依さんの前では化学ができるように振る舞ってるでしょ?すごく千里君を尊敬してるようだったから、もう少しで本当のことを言いかけたよ。基本的なことも分かってませんよって」


 美波はそう言ってくすくすと笑う。何が面白いのかと考える前に、そんな話をしていたのかと驚愕した。些細な嘘ではあるが、露呈してどんな弊害がもたらされるか知れたことではないのだ。


 「……本当は部長についていけるくらいの知識が欲しいよ。だけど、僕の理解力はこの通りだし、それで美波さんにも迷惑をかけてる。だから、こうして教えてくれる度にずっとおかしいって感じるんだよ」


 迷惑をかけていることを申し訳なく思っている、という嘘をつく。茜を理由にして自己犠牲を受け入れているという美波の説明は納得できない。何かを隠している気がしてならなかったのだ。


 ただ、美波はさも当たり前のように自分の考えを明かした。


 「私に申し訳ないって思うなら野依さんに思った方がいい。それに、千里君に恩を売っておけば野依さんとのパイプになりそうだから。きっとすごい人になる」


 美波は相当茜を評価している。秀才には秀才が理解できるのかもしれなかった。ただ、凡人代表には到底たどり着けない高尚な話である。千里が理解を諦めて黙って聞くようにしていると、美波は少し表情を変化させた。


 「……ちょっと言い過ぎたかな」


 「そんなことはないよ。変な理由だと思ったけど、こうして教えてくれるのはありがたいことだから。ただ、そうやって恩を売らなくたって……」


 千里は言いかけて途中で止める。見返りがなくとも協力することを伝えようとしていたが、不利益が伴うと気付いたのだ。


 「そっか。でも、望むなら色々教えてあげる。……千里君が嫌じゃなかったらの話だけど」


 唐突に美波は語気を弱める。千里の返答は決まっていた。


 「もちろん嫌じゃない。嬉しいに決まってる」


 千里の物差しで見た感謝の言葉は、別の物差しの定義に変換されて美波に届く。美波はほっとした様子で笑みを浮かべた。


 「ありがとう」


 美波の笑顔は千里を釘付けにする。咄嗟に参考書に視線を移した千里の気持ちが知られたとは思えないが、騙す側がこんなことになってはいけないと自分を戒めた。


 千里は美波の変化の要因に親密さを見出している。最初の頃は千里を警戒して話すことさえ拒んでいた。また、予備校での美波は孤高の存在で、人を寄せ付けない力があった。


 しかし、SNS上で見つけた友人と映った写真から推測できていた通り、知り合いに対しては態度を軟化させる。何度か二人でファストフード店に通うようになってから、千里もその対象になりつつあった。


 「……はい。これお礼だと思って受けとって」


 今日の復習が終わると、千里は二人分のコーヒーを買って戻る。美波はコーヒーを好んで飲んでいる。目覚ましに飲み続けた結果、好きになってしまったのだという。


 「ありがとう」


 美波は礼を言って千里の手から受け取る。その時に手が微かに触れ合ったが、気にしたのは千里だけだった。


 「もうこんな時間だし、飲んだら解散にしよう」


 時計は十時を示している。美波は大丈夫だと言っているが、保護者は心配しているはずなのだ。


 「優しいね。最初は千里君がこんな人だなんて思わなかったよ」


 美波は手の中でカップをくるくると回して笑う。その後しばらく沈黙が訪れたが、聞きたいことがあって千里は口を開いた。


 「本当に、美波さんはこうして僕と一緒にいていいの?変な気遣い抜きにして、ただ迷惑かけてるような気がしてならないんだけど」


 「どう迷惑をかけてると思ってるの?」


 美波は千里の疑問に質問で対応する。食い気味だった美波に戸惑うも、千里は気にしていることを正直に伝えた。


 「美波さんの時間を奪ってること。本当はこの時間も自分の勉強に費やすことができるはずなのに、僕に付き合ってもらってるせいでそれができてないから」


 時間は決して戻ってこないもので、人から奪ってしまっても返すことができない。千里はただでさえ三人の貴重な学生時代を奪っている。罪悪感を持ったところでもう遅かったが、それでも申し訳なく思う気持ちはまだ残っていた。


 美波は千里の話を聞いて何度か頷く。肯定しているのか相槌を打っているのかこの時点では分からない。


 「やっぱり何か勘違いしてる」


 千里が反応を待っていると、美波は小さく首を横に振った。千里は首を傾げて説明を求めた。


 「みんな同じ勘違いをするんだけど、私は勉強第一で生活してるわけじゃない。勉強よりも楽しいことはもちろん優先するし、勉強よりも大切なことだってたくさんある。予備校に知り合いがいなくて、ただああしてるだけなのに」


 「……でもそうは見えない。でないと、わざわざ化学のことを知りに別の高校の文化祭に行って、部長と話をしたりしないと思うんだけど」


 「それが化学のためじゃなかったら?」


 千里の疑問は的外れではない。しかし、意味深な表情をする美波を前に口が動かなかった。ただ、美波は目を合わせて返答を待っている。


 「……それはあり得ない。美波さんにはそれ以外に理由がない」


 美波の思考を完全に読めているわけではないが、千里はそう断言する。都合が良ければ、美波から教えてくれると考えたのである。しかし、美波はそう甘くなかった。


 「まあ、そうかもしれないし違うかもしれない。どっちだろうね」


 美波ははっきりとしたことを言わず、千里を翻弄する。千里は馬鹿にされたのではないかと感じたが、仮にそうであっても何ら弊害はない。


 コーヒーを飲み干して一息ついた千里は、机に体重をかけて立ち上がろうとする。しかし、その動作を妨害するように美波は話を続けた。


 「でも迷惑って話になるなら、千里君はどうなの?私とこうしていて大丈夫?」


 「どういうこと?」


 座り直した千里は問い返す。この時間は千里の要求で始まっていたため、そんな心配をされる理由がなかったのだ。


 真顔で問いかけた千里に、美波は困ったような表情をする。しかし、挙動不審になった挙句、具体的な質問を投げかけた。


 「だから、こんな時間に私と二人きりになってても良いのかってこと。見られて困る人はいない?」


 「いないけど、それが?」


 若干俯き気味な美波を目の前に、今度の千里は間を置くことなく答えた。同時に、美波の本心に気付いていないふりをする。美波はこれで通じると思っていたらしく、恥ずかしそうに目を泳がせた。


 「彼女とか……いたら大変でしょ?」


 「……まあいたらね」


 これ以上話を掘り下げられると考えていなかった千里は、羞恥心に耐えながら返答する。ただ、美波にも余裕はないようだった。


 「いないから大丈夫ってこと?」


 「さすがにいたらこんなことできないでしょ。僕はそんなに図太くない」


 千里は当然だと言わんばかりの調子で言い返す。千里の回答を聞いた美波は、恥じらいを誤魔化すためか白い歯を見せた。


 「そうだよね。何聞いてるんだろう」


 「仮にいたとしても、説明すれば問題はないと思うんだけど」


 美波の雰囲気が軽くなったため、千里もそれに合わせる。しかし、それを聞いた美波は急に眉を寄せた。


 「え、私なら説明されても簡単に終わらせられないと思うよ?」


 「例え話だよ。人によって違うんじゃないってこと」


 千里が補足的に伝えると、美波は再度納得して柔らかい表情に戻る。美波は恋愛という観点で純真無垢なのかもしれない。それを確認する上でも千里は最後に聞いた。


 「美波さんにそういう人はいないの?」


 散々美波に弄ばれた後である。多少は美波の素性を探っても問題ないと勝手に考えていた。話の流れから美波も予想できていたはずである。しかし、美波は顔を真っ赤にして取り乱した。


 「ど、どうしてそんなことを聞くの?」


 「いや、僕が聞かれた後だったからいいかなと思って」


 美波にそんな反応をされると千里もつられてしまう。美波は頬を膨らませている。


 「……少し無神経過ぎた?」


 美波の新しい一面が露わになる。文化祭前後で全くの別人だと考える必要があった。


 「そんなことない。でも、千里君も気になるのかなと思って」


 「気になるっていうか、僕はその質問に答えたから」


 千里は美波から言い出した話題だと遠回しに伝える。美波はそうだよねと同意した。


 「いないよ。そんな人」


 美波は千里の顔を覗き込むように重心を前に移動させる。反対に、千里は体を背もたれに押し付けた。


 「じゃ、一緒だ。美波さんは僕と全く違う人だと思ってたから、共通点があって良かった。……そろそろ帰ろうか」


 最近の美波は友好的だと感じていたが、今日の美波は一段と磨きがかかっている。これ以上は千里の調子が崩れてしまう。人との急な接近は長所と同じくらいに短所も含んでおり、この日は限界だと考えた。


 それぞれの帰り道は反対方向である。この日も千里は形式ばった提案をしてみた。


 「今日は特別遅い。家の近くまで送ろうか?」


 美波が夜道を一人で帰ることを千里はいつも心配している。毎回断られているが、今日はいつも以上に時間が遅く申し出てみたのだ。しかし、美波は今日も固辞した。


 「大丈夫。家までは明るい道だから。千里君も気をつけて」


 「分かった。それじゃ、また今度」


 「ええ、また次の講義の時に」


 それぞれ背を向けて、千里は駐輪場へ向かう。疲れからか大きなあくびが出たが、十月は始まったばかりである。


 紗花や茜のときよりも、美波との関係は先が見通しやすいように感じる。当初は最も難しい相手だと考えていた。しかし、今の美波を前にすると気が緩んでしまう。


 今度ばかりは千里から関係を進展させようと計画している。千里にはその後も大仕事が待ち構えていて、時間的な余裕がないのだ。美波との関係は手早く進めてしまうのが吉だった。

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