第22話 逆瀬川栞奈

 疑いの余地がなくても信じることができない。しかし、確かに栞奈は千里の前に立って同じ笑顔を浮かべていた。無意識に周囲に注意を配った千里だったが、不自然さを見つけ出す前に栞奈の口が開いた。


 「今日、文化祭なんだってね。だから会えるかなって」


 「……えっと、栞奈?どうしてここに?一人で来たの?」


 理解の範疇を超えた疑問が山積している。ただそれ以前に、栞奈と一緒にいることが千里にとって不利益になりかねなかった。今の様子を謎の男が見ている可能性があったのだ。


 千里が焦りを隠せないでいると栞奈は視線を落とした。


 「迷惑だったかな……。ごめんね、勝手に来ちゃって」


 悲しそうな表情が再び記憶を刺激する。千里は即座に栞奈の心配事を否定した。


 「そんなことない。嬉しいよ、久しぶりに会えて」


 事情はゆっくりと聞くことができる。複雑な問題さえなければ、千里も栞奈との再会を求めていたのだ。


 「私も。千里の顔を見れて嬉しい。……ねえ、どこかで話せる?それとも忙しい?」


 「全然大丈夫。中庭のベンチで話そう」


 男からの叱責や紗花や茜との不和は考慮しなければならない。しかし、今の千里にとっての最優先は栞奈であった。


 千里はひとまず栞奈を移動させようとする。しかし、目を合わせてくる栞奈は動こうとしなかった。


 「……栞奈?」


 視線は常に交わっている。しかし、栞奈は考えを伝えてこようとしない。不思議に思った千里が手を差し伸ばしたところ、栞奈は逃げるように数歩後退した。肩を小刻みに震わせて怯えた目をしている。


 「あ、違うの」


 千里は驚いて固まってしまう。栞奈はすぐに謝罪して距離感を元に戻した。


 「いや……僕こそごめん」


 手を引いた千里は軽率な行動を反省する。千里は栞奈に事件の記憶を蘇らせてしまう。だからこそ、千里は栞奈と距離を取ったのだ。


 しかし、栞奈からの拒絶は苦痛以外の何物でもなかった。栞奈の痛みに比べれば些細なものに違いない。それでも、千里mp数ヵ月に渡って栞奈を守るために行動してきたのだ。意思が揺らぐことはなくとも、栞奈の反応を都合よく解釈はできなかった。


 「……二人きりはつらいかな?」


 千里は苦しみを恐れて問いかける。最初に伝えられた方が耐えられそうだったのだ。ただ、今度は栞奈から千里の手を握ってきた。震える手が力強く握り締めてくる。


 「そんなわけない。連れてって?」


 「分かった」


 栞奈に無理をさせてしまっている。それでも千里は手を離すことができず、再び過去を悔やんだ。もっと早く栞奈を助けられていたらと考えなかった日はない。そうしていれば未来は変わっていたはずなのだ。


 戻れなくなった旨を茜に連絡した千里は、栞奈の手を離してベンチに座る。話しにくい状況ではあったが、千里から会話を切り出した。


 「よくここにいるって分かったね。誰かに聞いたの?」


 「先生に聞いたの。本当はもっと早く話がしたかった。でも、気付いた時には千里も千晶ちゃんも皆いなくなってた。私どうしたらいいのか分からなくて」


 栞奈はか細い声で事情を話し始める。故郷を去った千里らの事情を栞奈が知らなかったとしてもおかしくはない。事件後に千里が栞奈と顔を合わせたのは一度だけで、その時に引っ越しはまだ決まっていなかった。その後お互いの環境は変化し、千里から連絡の取れない状況が続いたのだ。


 「最初にメールくらいしてくれたら……」


 「もちろん考えた。だけど千里が怒ってるかもって思うと怖くて、下書きばかりが溜まって送れなかったの。でも、やっぱり千里とはちゃんと話がしたかったし、私がもう大丈夫だってことを伝えたかったから」


 「怒ってなんか」


 千里は途中で言葉を止める。千里でさえ栞奈の現状を把握できていなかった。栞奈がそんな勘違いをしていても仕方がなかったのだ。


 「本当に?……一人で引っ越したって聞いた。私のせいで」


 栞奈は変わらず責任を背負い込もうとする。憔悴しきって心が死んでいた当時も、千里に何度も頭を下げたのだ。千里はその時の反省を生かして、栞奈に大切なことを伝えた。


 「栞奈が気にすることじゃない。会いに来てくれて本当に嬉しいよ。……でもやっぱり心配だ。栞奈のお母さんからは、家を出ることも難しいって聞いてたから」


 「千里に会うためだから。これくらい何ともなかったよ?」


 千里は栞奈の作り笑いを即座に見破ったが、ただ笑顔を返すしかできない。栞奈がそう思ってくれるだけで、全てに意味が生まれるのだ。


 「私がここに来たのは感謝するため。お母さんには止められたけど来てよかった。私が生きていられるのは千里のおかげだから。本当にありがとう」


 突然、栞奈は頭を下げる。慌てた千里ではあったが、栞奈に触れるわけにもいかずそれを見つめた。頭を上げた栞奈は話を続ける。


 「それと、私のことでもう苦しんでほしくないと思って。千里をこれ以上傷つけたくないの」


 「僕も同じだ。栞奈には自分を一番大切にしてほしい。だから、僕にできることがあったら何でも言って。栞奈の助けになりたいと思っていたけどできなかったんだ。できることはどんなことでも協力したい」


 栞奈は千里の言葉に喜んで目尻に涙を溜める。何かを言おうとしても嗚咽を伴って言葉になっていなかった。


 「本当は……」


 ようやく言葉を紡ぎ始めた栞奈は再び千里の手を握る。その手はまだ震えていた。


 「本当は戻ってきてほしい。……怖い夢は毎日見るし、外に出ると体調が悪くなる。思い出すと生きることが嫌になって、だからこうしていつもこんなものを持ち歩いてる」


 栞奈は鞄から黄色のカッターナイフを取り出す。千里はそれを見て絶句した。


 「飛行機に乗るときは持てなかったけど、千里のことを考えたら大丈夫だった。これも帰る時には捨てられそう」


 千里は預かるべきかと考えて結局やめた。栞奈にはそんなものを持っていてほしくないが、刃物一つが心をどれほど落ち着かせているのか分からなかったのだ。理解するには栞奈のそばを離れすぎてしまっていた。


 「千里のおかげで救われた。だからそばにいてほしい」


 「でも、僕は栞奈にあの時のことを……」


 「それはお母さんの勘違い!私はそんなこと思ってなかった!……一人になって苦しくなっただけだよ」


 その瞬間だけ栞奈が感情的になる。千里は栞奈の母親から接触を避けるように伝えられていた。しかし、栞奈はその必要がなかったと主張する。


 「今はそうかもしれないけど、あの時は違ったのかもしれない。きっと栞奈を心配しただけだよ」


 気持ちを間違って汲み取っていたとしても、栞奈の母親を責めるべきではない。栞奈を誰よりも心配して、どうすれば苦痛を和らげられるか必死に考えていたはずなのだ。


 「分かってる。でも、千里には知っていてほしかった。勘違いされたくない」


 「分かった。教えてくれてありがとう。……でも、戻ることはできそうにないな」


 栞奈の言葉は千里を元気づける。しかし、そばにいられない事情は他にもあった。栞奈はそれを聞いて唇を噛む。


 「村の人たちでしょ。寄ってたかって千里を悪者扱いして……」


 栞奈は千里の考えを言い当てる。しかし、千里はそれが仕方のないことだと考えていた。地面に押し付けられている栞奈を見たとき、千里は我を失った。思い返すと反省点はいくつもあったのだ。


 「危ない人は近くにいてほしくない。僕だってそうだ」


 自らが非の打ち所のない人間だとは思っていなかったが、人を殺してはいけないという価値観は持っているつもりだった。しかし、千里は栞奈を乱暴した集団を殺そうとした。誰も死ぬことはなかったが、本質はそこではない。千里はその時に自分の新しい一面を知ったのだ。


 「分かってるよ……喧嘩は両成敗なんでしょ?」


 「そうだね」


 栞奈は俯いて地面を見つめる。千里は同じ言葉を謝る栞奈にかけたことがあった。


 「私は千里のこと怖くないよ。どんな人間だったとしてもね」


 長く息を吐いた栞奈は照れ笑いを浮かべ、千里まで面映ゆくなる。栞奈が信じてくれる理由は、助けられた事実に強く依存している。だからこそ、千里は浮かれてはいけなかった。


 「……ところで、これからの予定はどうなってるの?」


 千里は強引に話題を変える。栞奈は少し首を傾げて考えた。


 「ちゃんと考えてなかった。でも、夜の飛行機で帰るの。お母さんと日帰りを約束したから」


 「そっか」


 千里はそれを聞いて安堵する。回復しているとしても、一人で夜を過ごさせることは心配だったのだ。栞奈の母親もそれだけは譲れなかったはずである。


 「だけどまだ時間はある。……よかったら一緒に回ろう?」


 「ああ」


 本当は断わらなければならない。分かってはいたものの、千里は頷いてしまった。嬉しそうな栞奈の表情は傷が癒えていることを証明している。小さくない危険を背負うことになるが、栞奈が楽しんでくれるなら価値はあった。


 千里はグラウンドの出店から案内を始めた。部室に行くつもりはないため、茜に見られることはまずない。しかし、外の出店を回らないわけにはいかず、紗花への言い訳は必要になりそうだった。


 加えて、栞奈に何が食べたいか聞いてみたところ、迷うことなくたこ焼きだと言った。今回の文化祭でたこ焼き屋はたった一つしかない。


 少し並んで受付に注文した千里は、奥で作業をしていた紗花と目が合って苦笑いを浮かべる。手を握ったり腕を組んだりはしていないが、紗花は露骨に視線をそらした。予想通りの展開である。


 ただ、予想外の問題をもたらしたのは受付をしていた小夜だった。千里を一瞥したかと思えば、栞奈から目を離さなくなる。鋭い小夜の視線に気付いた栞奈は千里の陰に隠れた。


 たこ焼きを受け取ると飲食スペースに向かう。栞奈は千里が促してから食べ始めた。


 その後も、屋内の出店を回って久しぶりの栞奈との時間を費やした。ある程度見終えて別れの時間が訪れる。


 「駅まで送ろうか?」


 「門まででいいよ」


 千里の方が別れを惜しむ。しかし、駄々をこねても仕方がない。


 「ねえ……また会いに来ていいかな?」


 別れる直前になって栞奈から質問が飛ぶ。寂しいと感じてくれているのなら、千里にとってそれ以上のことはなかった。


 「栞奈が良ければ、今度は僕から会いに行くよ。里帰りも兼ねて」


 千里にとって故郷の存在意義はなくなっていた。しかし、栞奈と会えるのであればその評価は正反対に変わる。栞奈はすぐに頷いた。


 「待ってる!千晶ちゃんも連れてきて」


 栞奈はまた三人が顔を合わせる未来を望む。事情を話せば千晶は飛んでくるはずだった。


 「……じゃあ、気を付けて」


 千里から別れの言葉を口にすると、栞奈は手を振って駅の方向に歩き始める。しかし、数歩進んでから再び千里の前に戻ってきた。


 「伝えたいこと忘れてた」


 「なに?」


 目の前まで迫る栞奈は右手をふらふらとさせていて、どことなく挙動不審である。千里も手を出すと栞奈はそれを握った。


 「一人は怖い。だから……だから、私を忘れるようなことはしないで。私はいつでも千里のことを考えてるから」


 赤面しながらも強く手を握ってくる栞奈は、千里に初めての感覚を与える。身が引き裂かれそうになりながら、千里は栞奈の頭に手をのせた。


 「そんな心配はいらない。困った時はいつでも連絡して。絶対助けになるから」


 こればかりは歯が浮いた言葉だと感じない。いつでも味方になるという意思の表れだった。


 「うん。私も千里のことを忘れたりしない。今までもずっとそうだったから」


 栞奈の言葉は千里を拘束し、無理をしてでも故郷に留まるべきだったと後悔を促す。栞奈を思って故郷を出たものの、実際は栞奈のためになっていなかったのだ。栞奈はそんな言葉を最後に去っていった。


 クラスの出店に戻る間、千里は栞奈の手の温もりを思い出した。別れ際には震えは止まっていて、それが栞奈の心が開いた証左と受け取る。再び栞奈が傷つけられることは到底認められない。千里は強く心に誓った。


 紗花は店の裏で一人座っていた。小夜の姿はなく、千里はその隣に座る。


 「さっきの人は……」


 「何も聞いてないよ?」


 千里が口を開くと紗花は食い気味にそう伝えてくる。ただ、表情は説明を求めていた。


 「紗花に勘違いされるのは嫌だから」


 千里は自分の本心に触れてすぐ、こんな話をしている。紗花は露骨に動揺していて、小さく本音を漏らした。


 「……妹じゃないよね?」


 「ああ。さっきのは昔からの知り合いというか……」


 「幼馴染ってこと?」


 その言葉を避けていたわけではないが、紗花に言い当てられて頷く。紗花はすぐにふてくされた。


 「どうして北山君の幼馴染がここに?故郷は兵庫の山奥だって」


 紗花の疑問は的確で、その点で訝しがられても仕方がなかった。普通は故郷から離れた場所で幼馴染と出会うことはない。仮に会いに来るような関係であれば、紗花がそれを嫉妬しても不自然ではなかった。


 「本当に偶然、下手良に来てたらしい。それで少し顔を合わせただけだよ」


 「言ってくれなかった」


 「急な話だったんだ。でも、ごめん」


 紗花はなかなか納得してくれない。何を説明すれば気が済むのか聞きたかったが、それを理解することも千里の役目である。ただそれができない。


 「気にしてないよ。北山君が誰と仲良くしてても私には関係ないから」


 そう言い放って紗花は立ち去ろうとする。当然、千里は引き留めた。


 「待って。そんな言い方をされると困る」


 「どうして?」


 紗花の口調は強くなる。怒りを目の当たりにして千里は狼狽した。


 「そんな態度を取られると落ち着かない。軽率だったのは謝るよ」


 「でも見せつけられた。あの後、声をかけてもくれなかったし」


 ますます機嫌を悪くする紗花に打つ手がなくなる。このまま泣かれでもしたら解決の余地はなく、千里は必死になって言葉を考えた。しかし、そうして解決方法を模索していると紗花は不意に笑った。千里は綺麗な笑顔に恐怖を感じる。


 「……どうしたの?」


 紗花が壊れてしまったのではないかと千里は疑う。しかし、実際はいつもの紗花に戻っただけだった。


 「ごめんね。少し意地悪が過ぎたかな。北山君が裏切ったなんて最初から思ってなかったよ」


 「それならどうして……」


 千里は関係悪化を本気で覚悟していた。栞奈の笑顔のために、紗花の信用を失ったかもしれないと思ったのだ。


 「少し変な気持ちになったのは本当。だけど、北山君が慌ててくれてそれもなくなった。千晶ちゃんのことを勘違いした時と同じ。誤解を解こうと必死になってくれて嬉しかった」


 「当たり前だ」


 千里は大きく息を吐いて安堵する。ただ、紗花は忠告を怠りはしなかった。


 「でも、いつも上手くいくなんて思わないで。私だって嫉妬するときは嫉妬するし、やきもちを焼くときは焦げるくらい焼くから」


 「よく覚えておくよ」


 「それと、小夜にもちゃんと説得した方がいいよ?シフトが終わるなり拳握って出ていったから」


 紗花は面白そうに笑う。千里は先程の小夜の雰囲気を思い出して溜息をついた。ただ、小夜は紗花の言葉があれば落ち着くと見積もっている。そこまで心配はいらなかった。


 その後、化学部に向かった千里は茜に謝罪した。美波を見送ってすぐに戻るはずだったが、仕事を押し付けてしまったのだ。ただ、茜は全く気にすることなく許してくれた。


 栞奈の予想外の来訪による影響は奇跡的にほとんどなかった。通常、片方に偏りすぎるとバランスは崩れるものなのだ。


 しかし、千里は肝心なことを忘れていた。


 部室を出て点呼に向かっていたとき、携帯が震え始めた。面倒に思いながら確認した千里だったが、非通知という文字を見た瞬間に電話を耳に押し当てた。


 「北山千里、事情を説明しろ!」


 開口一番は怒声だった。いつも通りの声だが、音割れは今までになく酷い。男が何の説明を求めているのかは言うまでもなかった。


 「何かを企んだわけじゃない。それは分かっているだろう?」


 「当たり前だ。君が私に反抗して栞奈ちゃんを連れてきたのだとすれば、頭が悪すぎて今すぐにでも約束を破棄しているところだ。とはいえ、事情を説明してもらわなければ変わらない」


 男は栞奈が姿を現した理由を追及する。栞奈の存在は約束の成立に大きく関わっているのだ。


 「栞奈は自分の回復を伝えるために来たそうだ。でももう帰った」


 「そうすべきだ。でないと、実際に危害を加えられる可能性がある」


 剥き出しの脅迫が千里を襲う。千里は咄嗟に言い返した。


 「何の事情を知ることもなく帰った。手を出すな」


 「そのためには、会話の内容を全て知る必要がある。私は一瞬だけ尾行して少し会話の内容を聞いた。だから全て説明してみせろ。その中に私が聞いた内容が入っていなかった暁には、約束を破棄して全てを終わらせる」


 「な……、何を怯えている?不利な立場にいるのは僕だろう?」


 千里は男の態度に疑問を持つ。しかし、男はすぐに言い返した。


 「前も言ったはずだ。自分の身が一番大切だと。私の不利益はどんなことであっても容認しかねる。だから早く説明しろ」


 「分かったよ」


 男に急かされた千里はありのままを正直に伝える。男がはったりを言っていた可能性もあったが、今は栞奈を守ることだけ考えた。


 「そうか。……それならば一安心だ。ただ、接触の可能性を残したことは非難せざるを得ない。君がいつ裏切って、事情を栞奈ちゃんに伝えるか分からない」


 全てを聞いた男は声を落ち着かせている。文句をつけてくるのはいつも通りだった。


 「そんなつもりはない。でも、栞奈を助けることは僕の義務だ。あんたのこと以外でも、栞奈が窮地に追い込まれることはある。その時は助けないといけない」


 「私がそれを許容しなくてもか?」


 「当然だ。栞奈が傷つく瞬間を見て見ぬふりなんてできない」


 即答した千里は男の出方を待つ。男はその言葉を咎めはしなかった。


 「まあ、私の不利益にならないなら構わない。しかし、これからは気を付けろ。君から栞奈ちゃんに連絡を取ることは許さない。分かったか?」


 「……分かった」


 「それでいい」


 千里が了承すると男は即座に電話を切る。千里は携帯をしまってその場で考えを巡らせた。


 男は栞奈に連絡することを禁止した。ただ、一人きりになれば男に知られることなく連絡を取ることは可能である。今日のように栞奈に頼りにされると、連絡を取らないまま過ごすことは心苦しい。しかし、それは危ない橋を渡ることに等しかった。


 ただ、男は栞奈からの連絡を取ってはいけないとは言わなかった。それはつまり、栞奈からの助けには対応してもよいということである。それを男の妥協だと考えるならば、千里は男の命令に従う必要があった。


 栞奈は千里の連絡を待っているかもしれない。そうだとすれば、千里は栞奈を裏切ることになってしまう。それでも、男に傷つけられてしまうよりはずっと良かった。

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