第21話 文化祭

「そんなに切り刻まなくていいよ」


「あ、ごめん」


 紗花に指摘されて千里は包丁をまな板に置く。みじん切りにしていたキャベツは青のりほどに粉々になっていた。


 文化祭は二学期最初のイベントで、クラスは出店のたこ焼き屋を繁盛させようと躍起になっている。秋晴れによって多くの人が訪れていて、売り上げは予想を上回っていた。


 「このままどんどん売っていくぞ!」


 焼き係の一人が声をかけると、その場の男子が一斉に唸り声をあげる。シフトの時間ではない宏太も、休憩用の椅子から一緒に奇声を上げた。そんな雰囲気を横目に、千里はキャベツの葉を一枚ずつむしり取っていく。


 多くの学生は文化祭を満喫できているが、中には雰囲気に馴染めず図書室で時間を潰す学生もいる。千里はその部類には入っていないものの、文化祭を楽しめない一人ではあった。


 午後に来訪する美波とは、ファストフード店での一件から仲が良くなったわけではない。美波の目的は知的好奇心を満たすことだけで、千里にはその感覚が理解できていないのだ。


 茜が目的である美波は間違いなく化学部を訪れ、その案内は千里が請け負うことになる。紗花との接触は千里の裁量次第で避けられるが、茜に関係を疑われる可能性は十分にあった。


 「また切りすぎてる。食感が残ってる方がおいしいんだよ?」


 再び紗花に注意されて、適当に包丁を上下させていた千里は現実に戻ってくる。これからのことを考えて現実逃避していたようだった。


 「……ねえ、もうすぐシフト交代だよね。その後どうする?」


 焼き係に頭を下げながらキャベツを渡した千里に紗花は続けて話しかける。紗花の担当はタコを一口サイズに切ることで、その隣に立っている小夜は生地を混ぜていた。


 「んー、どこか回ろうか?」


 千里が小声で提案してみると、紗花より先に小夜が反応した。ただ、反応といっても千里を一瞥する程度である。


 小夜は早い時期から二人の交際を知っていたらしく、そのことは最近になって紗花から伝えられた。千里はその事実を憂慮したが、紗花の行為を問題視することはできなかった。なぜなら、二人は親友なのだ。


 「確か昼前から化学部の出し物があるんだったよね」


 「それまでは一緒に回れるよ」


 午後は美波の相手があるため、紗花との時間は午前中に作らなければならない。ただ、小夜が二人の会話に割って入って文句を口にした。


 「私は置き去り?さみしいな」


 小夜の視線は紗花を困らせる。紗花は小さく唸って返答した。


 「お昼から一緒に回ろう?」


 小夜はからかっているだけで、紗花もそれを分かっている。しかし、優しい性格からあしらうことはしなかった。


 「親友の私と、付き合ってすぐ紗花をほったらかしにした薄情な男。紗花はどっちが大切なの?」


 紗花の反応を見て味を占めたのか、小夜は手に持つお玉を軽く上げて千里と対立する。夏休み明けから小夜は千里に冷たく当たるようになっていて、原因が分かっていない千里は受け流す以外に反応のしようがなかった。


 シフトが終わると、恨めしそうに視線を送ってくる小夜を置いて二人は出店を回り始めた。化学部の催しまで一時間近く余裕がある。出店の数はそこまで多くなく、回りきることはできそうだった。


 飲食店以外には迷路や射的、輪投げなどの子供向けの店が出ていて、二人はそれらの感想を言い合う。ただ、会話を純粋に楽しんでいる紗花とは裏腹に、千里の意識は周囲にばかり向いていた。


 科学部員との鉢合わせには注意しなければならない。茜が科学部員と繋がりを持っているとは思えなかったが、知られないに越したことはなかったのだ。言うまでもなく、茜との遭遇にも細心の注意を払う必要がある。とはいえ、茜は出し物の準備で部室に籠っているはずだった。


 「最後に化学部を見て小夜の所に戻ろうかな」


 ひと通り回り終えて、紗花がそんな計画を立てる。千里はその言葉を予想していた。


 「始まるのはまだ先だから大林さんを呼んできたら?僕は終わった後も次の準備があってすぐに戻れないし、二人の方がいいでしょ?」


 紗花が観客の一人として茜の前に現れることは問題ない。二人で部室に向かうことだけは避けなければならなかった。


 「そうだね、分かった。頑張ってね」


 千里の提案に素直に応じた紗花は手を振って離れていく。慣れてきているとはいえ、そんな紗花は千里を心苦しくさせた。


 化学部は出し物として実験を披露するが、それ以外の時間は自由研究のポスターを展示する。それらは過去の化学部員が作成したものらしく、色褪せたものから茜が作った新しいものまである。多くは使い回されているらしく、今年は美波のお気に入りが採用されていた。


 千里は部室に入るなり人目を避けて準備室に入る。化学部員だと気付かれれば、何も理解できていないポスターの内容を質問される恐れがあったからである。


 「あ、おはよう」


 「おはよう」


 白衣姿の茜は試薬の秤量をしている。千里もすぐに準備を済ませて手伝いを始めた。


 「クラスは上手くいってる?」


 「おかげさまで。予想より売り上げが伸びてるみたい」


 「そうなんだ。後で私も食べに行こうかな」


 「ぜひ来てみて」


 千里は薬包紙に包んだ試薬をトレイに並べながら答える。茜が紗花に近づくことは望ましくない。しかし、茜が出店に向かう際は必然的に千里が部室に留まることになり、三人が一か所に集まる事態は避けられるはずだった。


 「あーあ、部員がもう一人いればなあ」


 茜が残念そうにしたのは、千里が幸運だと思ったことに対してである。そう言った後も楽しそうに準備する茜を見て千里の心は痛んだ。


 化学部の出し物には予想を上回る多くの人が集まった。その中には紗花や小夜だけでなく西の姿もある。人前に慣れていない千里は足を震わせながら茜の手伝いを努めた。


 今回準備した実験は炎色反応と振動反応の二つで、基本的に茜が操作と解説の両方を行う。炎色反応では金属塩を溶かしたメタノール溶液をバーナーの炎に噴霧し、その時の呈色を観察する。端では岸部先生が見守っていて、千里は机の上に飛んだ溶液を拭き取る係を担っていた。


 観客は金属の種類による色の変化に小さな歓声を上げる。炎が大きいため見栄えは良かった。


 数種類の炎色反応の後、今度は振動反応に移る。科学館で手に入れた実験であるが、ここでは千里らが最適化した条件で行われた。振動回数が最多となる試薬の比率を採用していて、当初よりも一回から二回ほど振動回数が多くなっている。


 千里はもはや色の変化に感動できない。しかし、観客の反応は炎色反応より大きく、それを見ると嬉しくなった。紗花も背伸びで反応を見ていて、面倒な実験にも意味があったと感じる。ただ、小夜と目が合ってすぐに視線を実験台に戻した。


 振動反応が終了するまで茜が原理と化学部の紹介を行い、反応が終結すると午前中の出し物は終わった。


 「上手くいったね」


 「お疲れ様」


 部室に閑古鳥が鳴き始めてから二人は片付けを始める。午後は二時から同じ出し物を行うスケジュールとなっていた。


 これからの千里は、化学部の店番の後にクラスのシフトに入り、終わり次第美波を部室に案内して二度目の実験に臨む。それからのことはまだ決まっていないが、茜にしか興味のない美波はすぐに帰ると期待していた。美波を帰してしまえば峠を越したことになる。


 「本当にありがとう。千里のおかげで成功したよ」


 片付けをしていると千里は名前を呼ばれる。驚いて顔を上げた千里だったが、付き合う際に交わした名前で呼び合う約束を思い出して負けじと張り合った。ただ、最初に名前で呼び始めたのは千里である。


 「茜だけでも上手くいってた。けど、役に立てたならよかった」


 千里の役割は誰にでもできる。ただ、茜はその言葉に頬を染めた。


 「お昼だし何か買ってくるよ。何がいい?私が奢るよ」


 「いいんですか?」


 「いいの。これくらいさせて」


 何かの対価として茜に提案されるが心当たりはない。しかし、千里はその言葉に甘えた。


 「じゃあ、焼きそばとかどうですか?」


 「分かった。待っててね」


 財布を手にした茜は準備室から出ていく。しかし、扉を閉め終わる前に振り返った。


 「敬語は嫌って……」


 「あれ、なってた?」


 「別にいいんだけど」


 扉が閉まってから、気が抜けていたと千里は後悔する。名前で呼び合うことを約束した時、同時に敬語をやめるように求められていたのだ。


 これから大切な時期を迎える茜は、今までと同じ頻度で部室に顔を出すことはできない。東によれば、科学部の三年生は文化祭を機に引退する。敬語を嫌がった茜の気持ちはこの辺りが関係していた。


 戻ってきた茜と昼休憩を取った後、千里はクラスに戻った。今回は紗花や小夜と一緒ではなく、注意してくれる人はいない。千里は黙々と仕事をこなしていった。


 次のシフトには紗花と小夜が組まれていて、時間になると何かの景品を首にかけた二人と交代した。千里はこれから美波と合流する。誰がシフトを組んだのか分からないものの心の中で感謝した。


 校門で待っていると、美波は約束の時間ちょうどに現れた。この日も制服姿で新鮮味はない。


 「道は分かった?」


 「馬鹿にしないでくれる?」


 会話を試みた千里は早速叱責される。ただ、この街での生活は美波の方が長くおまけに賢い。当然の反応と言われればその通りだった。


 「もうすぐ出し物が始まる。急ごう」


 「それならもっと早い集合にしてくれたらよかったのに」


 「こっちはこっちで忙しいんだよ」


 美波の文句に千里は反論する。首をすくめた美波はそれ以上何も言ってこなかった。


 「ここをまっすぐ進んだところに部室があるから先に言ってて」


 ある程度の場所までやってきた千里は、先に美波だけを向かわせようとする。二人はトイレの前で立ち止まっている。


 「分かった」


 美波は指示通り一人で歩いていき、千里は少し見送ってからトイレに入る。そこで一度大きく息を吐いた。


 正念場はこれからである。美波と茜の接触は決定事項で、千里の紹介だということも伝わる。重要なことは茜との関係を美波に知られないことと、茜に疑惑を持たれないようにすることだった。


 そのためには、千里は二人と居合わせてはいけない。美波には申し訳なかったが、自分から茜に話しかけてもらうしかなかった。


 しばらくしてからトイレを出た千里はそそくさと部室に向かう。部室は午後の出し物を見に来た人で賑わっていて、その陰に隠れて準備室に入った。


 「来た来た。間に合うか心配だったよ」


 「ごめん。クラスの方で時間を取られて」


 「急いで準備して。私は先に出てるから」


 白衣を纏った美波は準備室を出る。千里も急いで白衣と眼鏡を装着した。


 午後の実験も無事成功に終わった。美波は隅で眺めていたが、振動反応には釘付けとなっていた。いつもぶっきらぼうな表情しか見ていなかった千里は、そんな顔もできるのかと感じた。


 実験が終わると再び部室は閑散とするが、当然ながら美波は待機している。それを見た千里はこの場を離れるために茜に声をかけようとした。腹痛を伝えればしばらく部室に戻る必要はなく、話はその間に終わっているだろうと考えたのだ。


 しかし、その前に美波が動き出してしまった。


 「あの、部長の野依さんですか?」


 「そうだけど……?」


 突然話しかけられて茜は固まる。対する美波は行儀よく頭を下げた。


 「私は北山君の知り合いで朝霧美波と言います。野依さんとお話ししたいことがあって来たんですけど、今から大丈夫ですか?」


 「……ええ」


 茜は答えながら千里を見てくる。思案顔から不満顔に変っていく茜の表情を見て、千里はすぐさま会話に割って入った。


 「片付けが終わるまで待ってたらよかったのに」


 狼狽していると余計に怪しまれる。平静さを取り繕った千里は美波に苦言を呈した。


 「えっと、この人は?」


 「予備校の知り合いです。今日は化学のことで話があるらしいですよ」


 「化学のことで?」


 千里の説明で茜はさらに混乱する。美波は頷いて話を進めた。


 「はい。彼から化学に精通している野依さんのことを聞いて、色々話したいことがあったので。片付けを待ってからの方が良かったですか?」


 「僕がしておくから。部長、ちょっと話を聞いてあげてください」


 「あ、うん……」


 茜は挙動不審となっていたが、化学関連ということもあってか少し離れた席に移動して話を始めた。千里は好奇心を抑えて片付けに徹する。


 最初の茜は本当に年上か分からないほど縮こまっていた。しかし、千里が片付けを終わらせたときには、茜の方が饒舌となっていて美波は聞き手に回っていた。美波の真意を知って火がついたらしい。


 二人の対談を眺めること十数分。立ち上がった美波は大きく頭を下げた。それを見て千里は近づく。


 「もう帰るの?」


 茜が美波に問いかける。美波は頷いて肯定した。


 「今日は野依さんと話がしたかっただけなので」


 「そっか、じゃあ校門まで千里に送ってもらったら?」


 先程までの感情の揺れはない。美波もいつも通りだった。


 「はい。その前にお手洗いに」


 「さっきの所だから」


 千里が場所を伝えると、美波はもう一度茜に頭を下げて部室から出ていく。二人きりになったところで、千里は茜に話しかけた。


 「どうだった?」


 「あの子すごいよ。あんなに化学を理解しようとしてる人は初めて」


 茜は美波を高く評価する。茜がそう感じた理由を千里は知っていたが具体的な説明は避けた。


 「驚いたよ。どうして言ってくれなかったの?」


 「いや、あまり話すことがないからすっかり忘れてて」


 千里は美波との人間関係が希薄であることを伝える。茜に疑っている様子はない。


 「そっか。……そろそろ行ってあげたら?」


 「はい。見送ったらすぐに戻ってきます。クラスも人手は足りているので」


 「待ってるね」


 茜の声は明るく、千里は安堵感と共に部室を出る。トイレの前で美波と合流し、そのまま校門に向かって歩いた。


 「感想は?」


 「千里君から聞いてたよりすごい人だった。良い話が聞けた」


 「それは何よりだ」


 千里の残った仕事は美波を帰らせることだけである。茜とは問題なかったものの、学校に紗花がいることを忘れてはいけない。見られる前に追い出さなければならなかった。


 「ねえ、千里君はこれからも特進化学を取るの?」


 別れ際、美波が一つ質問してくる。千里は不思議に思いながらも頷いた。


 「全然できないけど化学は面白いからね」


 「そう。……じゃあ、またその時に」


 最後はそっけない言葉で締めた美波は駅の方向へ歩いていく。美波が見えなくなるまで見送った千里は再び校内に足を向ける。部室に茜を待たせているのだ。


 しかし、歩き始めた千里は不意に腕を掴まれ急停止した。


 「千里」


 すぐ後ろから声が響き、振り返った千里は一人の女性の姿を捉える。見覚えのある制服を着ているが、下手良高校や下手良南高校のものではない。


 「千里、久しぶり」


 にっこりと笑うその顔を見ても、千里は一瞬誰だか分からなかった。しかし、千里はこの顔を知っている。声を出せたのは僅かな沈黙の後だった。


 「……どうしてここに?」


 記憶に残る姿はもっと健康的だった。しかし、今ではすっかり痩せてしまっていて、短く切った髪も別人と勘違いさせる要因となっている。それでも、千里は彼女を知っていた。


 「千里に会いに来たの。何ヵ月ぶりかな」


 「栞奈……」


 容姿は変わっていても声は全く変わっておらず、千里は色んなことを思い出してしまう。故郷に閉じ籠っているはずの栞奈が千里の前で笑っていた。

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