第20話 美波との進展

 夏休み最後の週は優れない天気が続き、傘をさして予備校まで歩く千里は憂鬱な感情に支配されていた。美波との接触は一度目の失敗から進展していない。他の二人が順調なだけ、足を引っ張る美波の存在に千里は頭を悩ませていた。


 千晶は台風による飛行機の欠航で長期滞在を余儀なくされ、つい数日前にようやく帰った。その期間の千晶は約束を忠実に守っていたが、帰り際に栞奈への連絡を提案した。千里は上辺だけでその言葉を受け取った。


 千里は男に疑われるような行動を常に慎んでいる。ただ、それがなくとも栞奈の両親から接触を控えるように言われている。栞奈に連絡を取れない理由はこの二つが大きい。


 しかし、一人の友人としてメールを送る程度は差支えがないはずで、それだけで男も複雑な約束を破棄することはないと予想している。つまり、栞奈に連絡を取れない本当の理由は千里の今の心境にあった。


 教室に入った千里は適当な席に座る。美波との関係が良好でないため積極的な行動は取れず、近くの席に座ることは諦めていたのだ。そのおかげで、直近の講義は再び苦痛を伴っている。


 ただ、この日は違っていた。


 今回の講義は過去の入試試験で出題された実験操作法に関する内容だった。先生からの説明は少なく、演習問題を解く時間が多く取られる。


 座学としての化学に千里は興味を持っていない。しかし、出題内容が日頃の実験と似ていたため、千里の目には問題として映らなかった。茜に仕込まれた実験操作法が初めて役立ったのだ。


 解答後は先生を呼んで採点してもらう必要がある。ただ、早々に解き終わった千里は他の生徒の挙手を待つことにした。千里は実力に合っていない講義を受けている学生と認識されていて、その評価を覆すようなことはしたくなかったのだ。


 しかし、どんなに待っても他の学生の手は挙がらなかった。通常は半数以上が講義終了の三十分前にノルマを解き終わる。今日はやけに苦戦しているようだった。


 その間の千里は時間を持て余した。最初は珍しいと思いながら待っていたものの、時間の経過につれて待つことさえ煩わしくなる。結局、しびれを切らした千里は一番にノルマの問題を解き終わった。


 講義後、千里は疑惑の視線を向けられつつ帰宅の準備をした。千里の後に数人は解けたようだったが、多くは完全解答ができなかったのだ。千里は理不尽な評価に文句を漏らしかけたが、日頃の自分を思い出して享受することにした。


 知識を披露したところで本来の目的は達成できない。男からの電話は近いはずで、美波とは今月も進展しなかったと報告する他ないようだった。


 しかし、好機は唐突に訪れた。


 「あの、ちょっといいですか?」


 教室を出てすぐに後ろから声を掛けられる。振り返ると、両手に荷物を抱えて慌てて近づいてくる美波がいた。


 「……今日の問題、早く解き終わってましたよね?」


 美波は荷物を鞄にしまいながら確認する。千里は小さく頷いた。


 「私、あんな問題見たことがなくて。どうやって勉強したのか教えてもらえませんか?」


 美波は今日のノルマを解けなかったようである。真剣な面持ちは生真面目以外の何物でもない。ただ、千里はどのように答えるべきか分からなかった。美波の方が多くの教材に目を通しているはずで、参考書を持っているだけの千里に教えられることはなかったのだ。


 「えっと……どうやってというのは」


 「何か教材を使いましたか?それとも学校で習ったり?どこの高校ですか?」


 美波は矢継ぎ早に質問してくる。以前、門前払いされた千里は都合が良いのではと思った。とはいえ、努力の結果分かっていない美波とは明確な違いがある。


 「話せば長くなるんですけど……」


 千里はつい時間を置こうとする。高校の名前を出すと不利益を被る可能性があり、精査には時間が必要だったのだ。しかし、美波はそれならと提案してくる。


 「話が長くなるようならどこかで話しませんか?出たところのファストフード店とか」


 「えっと……」


 「いいですね?」


 美波は拒否することを許してくれそうにない。仕方なく千里は承諾した。


 二人が向かったのは予備校前のハンバーガーとサイドメニューを売るファストフード店だった。美波は席を取ってから千里に荷物を見ているように言ってレジに並ぶ。二つのアイスコーヒーを買ってきた美波は一つを千里の前に置いて早速本題に入った。


 「この前話しかけてくれましたよね。覚えてますよ」


 「嫌な顔されたけどね」


 千里は正直に言ってみる。今のところ美波に調子を取られていて、一つくらい嫌味を言っても問題ないと思ったのだ。美波は表情一つ変えないで頭を下げた。


 「ごめんなさい。でも、あれは普通に聞いていれば理解できるものだったから」


 美波は直接的に千里が悪いことを教えてくれる。これから千里の力を借りようとする人の発言とは思えなかったが、言っていることは正論だった。


 「いや……そうですよねごめんなさい。ところで、名前聞いてなかったですよね」


 千里に議論での勝ち目はない。美波のフルネームどころかある程度の人柄まで知っていたものの、話題を変えるために自己紹介を促した。


 「私は朝霧美波。下手良南高校に通ってます。あなたは?」


 「北山千里です。僕は下手良高校に」


 下手良南高校の方が偏差値は高い。言われてみると美波の制服は下手良高校のそれよりも賢そうに見えた。ただ、美波が着ているためそう見えるだけかもしれない。


 「それで早速本題なんだけど、今回の勉強はどこで?あなたが持つ教材には書いてなかったでしょ?」


 「ええ、そうですね」


 初耳だったものの千里は肯定する。ただ、美波が解けなかったという事実から予想はしていた。


 「それならどうやって?」


 美波は勉学に対して非常に能動的で、それ故に強引な行動を躊躇わない。二人での会話は嬉しい誤算だったが、美波の感覚に触れることは難しそうだった。


 「その前に、どうして僕に聞くんですか?解けた人は他にもいたと思いますけど。それに、先生の方がより適切に教えてくれると思いますよ?」


 せっかくの会話の機会である。簡単に教えるとすぐに終わってしまいそうで千里は話題を逸らした。


 「私は自分が知らないことを知ってる人が羨ましい。だから、正答だけじゃなくて勉強の過程も気になるの。先生は綺麗な解答を教えてくれても、学生目線の勉強法はなかなか教えてくれないでしょ?だから他の生徒に聞く方が良い。千里君に聞いたのは一度話しかけてくれたことがあったから。他の人とは話したことがなくて」


 「そ、そうなんですね」


 説明を聞いた千里は美波が変人だと感じる。賢い人は変わっていることが多いが、美波の場合は勉強に対する積極性である。普通であれば仲良くなろうと思わない種類の人だった。


 「それに、千里君はいつも全然できてなかった。なのに皆が解けなかったときに限って早く解いた。その理由が知りたいの」


 美波の目は探求心で満ち溢れている。話を引っ張るだけ期待は膨らんでしまうようだった。


 「えっと、朝霧さんが」


 「美波でいいよ」


 千里は名前で呼ぶことを指示される。美波のペースは継続した。


 「……美波さんが大げさに言うような事情はないですよ。問題が解けたのは僕が化学部に入っているからだと思います」


 「それって化けの?」


 「はい」


 千里の説明に美波は小さく頷く。ただ、納得はしていないようだった。


 「でも、化学部に入るくらいなんだから化学が得意なんでしょ?いつもあの調子なのはどうして?」


 いちいち言い方が辛辣な美波に千里は苛立つ。ただ、そんなことで腹を立てても仕方がなく、手を広げて分からないとジェスチャーした。


 「好きでも得意になれないことはよくある。努力が足りないって言われたらそれまでだけど、実験操作は部長によく仕込まれてたから」


 「なるほど……だから今回の問題だけ良く解けたんですね」


 千里のからくりは大したことではない。ただ、美波は興味深そうに聞いてくれた。


 「部活の規模はどれくらいなんですか?」


 「すごく小さい。僕と部長の二人だけ。でも、その部長が化学に精通してて、色んな実験を考案したり見つけたりしてる」


 「そうですよね。私の学校にはサイエンスの方の科学部しかないんですけど、人が多くて雑多なことばかりしてて、学問として有益のようには見えなかったので。その部長さんはすごい人なんですね」


 美波は会ったことのない茜を褒めるが、千里は茜の人間性をそう簡単に表現できないことを知っている。ただそれは美波も同じで、二人には自己中心的な雰囲気があった。


 「その部活は化学の勉強に有益ですか?」


 美波は全てを勉学の効率の上で評価している。答えは千里を見れば明らかなはずだったが、茜を悪く言われるわけにもいかず持ち上げておくことにした。


 「まあそれなりに。最初から化学の知識を持ってる人なら部長と意気投合して深い知識を得られるかもしれないですよ。……といっても、それが受験に役立つ知識になるかは分からないですけど」


 茜は新規的な発見を好んでいるが、美波は受験に必要な知識を蓄えることに注力している。茜の活動が美波に有益かと言われれば怪しかった。


 「どんな活動をしているんですか?」


 「大体は部長が決めたテーマに沿ってひたすら実験して最適化を目指してます。他には科学館に化学実験ショーを見に行ったり、近々ある文化祭の出し物を企画して練習したり」


 千里は思い出せる範疇で説明をする。文化祭は夏休み明けに予定されていて、最近ではその出し物の練習を始めていた。


 「なかなか面白そうですね。私の学校にあったらすぐに入部していたと思います」


 どこに共感したのかは分からないが、美波は興味深いと思ってくれる。茜が知れば、別の学校の生徒であることを忘れて美波を勧誘し始めそうだった。


 しかし、能動的なのは美波も同じだった。


 「千里君、よければ連絡先を交換しませんか?」


 「それはいいですけど……どうしてですか?」


 美波は早くも自分の携帯を取り出してSNSのアカウントを表示している。千里は当然この機会を活用するつもりだったが、緊張よりも疑問が先行した。


 「その部長さんと話してみたくなったんです。千里君がその部長さんから教えてもらったのなら、その部長さんがどうやって勉強したのかが気になります。だからその文化祭に行って話を聞いてみたい」


 理由はまさに美波らしかった。もはや千里に興味はないらしく、茜との橋渡し役として利用しようとしている。連絡先を確保したものの新たな難局が予期された。


 「ありがとうございました。それじゃ、また講義の時に」


 連絡先の交換が終わると、美波は早々に店から出て行ってしまう。用なしになった千里はその後ろ姿を眺め、厄介なことになったと嘆いた。


 美波は文化祭の訪問を明言した。それは指定された三人が文化祭で集まることを意味している。紗花と茜は接点をもっておらず、交際の事実を能動的に発信していないため安心していた。しかし、美波に好き勝手動き回られると、予期せぬ問題が生じる恐れがある。


 ただ、再考を促しても美波は聞いてくれそうにない。それならば三人の行動を制御して乗り切るしかなかった。千里が責められる分には毒にも薬にもならないが、栞奈が影響を受けることは避けなければならないのだ。


 今は連絡先を手に入れたという成果を誇張するしかなかった。


 それから数日後、男から電話がかかってきた。今月の千里は心理的に落ち着いている。冷静さを保つことは難しくなかった。


 「久しぶりだな、北山千里」


 「ああ」


 男の変わらない声で会話が始まり、千里も同じ調子で返事をする。一カ月に一度しか聞かない声ではあるが、千里の耳に馴染んでいた。


 「世間話をしたいが今はあいにく時間がなくてね。早速報告してもらうかな」


 「分かった。一番の進展から話させてもらうと、上村紗花に続いて野依茜と付き合うことになった。部活の合宿で企画された天体観測の帰り道で告白された」


 「ほう」


 千里は男の反応を注意深く聞く。千里が茜から告白されたときは二人きりだった。そのため、男がこれを把握していたのか気になったのだ。男がこの事情を知ってれば、茜か茜に近い人物と特定できる。しかし、男は感嘆の声を漏らすだけだった。


 「上村紗花とは進展と言えるようなことはない。何度か一緒にデートに行ったくらいだ」


 続いて紗花との関係を報告すると、今度は唸り声が聞こえてくる。千里は恋愛関係の構築要因を調べるように求められている。付き合っているだけでは約束を果たしていることにならないのだ。


 しかし、茜との結果が考慮されたのか強く叱責されることはなかった。ただ、別の話題が持ち出される。


 「そういえば君の妹が来たな。二人でいたところを上村紗花に見られていた」


 「……知っていたのか」


 「もちろんだ。上村紗花を嫉妬させただろう?」


 男はそう言って小さな声で笑う。駅は多くの人で溢れ返っていたため、男が見ていたとしても何ら不思議ではない。


 「妹はこの件と関係ない。観光に来ただけだ」


 男がその場で隠れて見ていたのであれば説明の必要はなかったが、千里は念を押して伝えておく。男もそれを非難することはなかった。


 「まあそのことはいい。……それで、最後の一人とはどんな調子だい?」


 「朝霧美波とはほんの数日前に連絡先を交換できたくらいだ。一番手こずっている」


 男は再び唸り声をあげる。今にも文句が飛び出てきそうだった。


 「不甲斐ないと言いたいのか?」


 「ああ、少しね。野依茜と関係を構築できたことは素直に褒めるべきだろう。ただ、時間に限りがあることを忘れてもらっては困る。君はもう四ヵ月を消費した。この調子ではいつか切り捨てなければならない」


 男が大人しいからといって、脅迫の現実は変わらない。千里を褒めて優しく接触していても、私利私欲のために栞奈を人質にしているのだ。男の不満は改善されなければならず、千里は来月の計画を話すことにした。


 「確かに悠長にしていると思われても仕方がない。ただ、来月の文化祭で朝霧美波が来ることになった」


 「ほう……それで?」


 「来月だけでは関係を飛躍的に進展させられないかもしれない。それでも、計画はいつも持ち合わせている」


 実際のところ、美波の訪問は千里が仕組んだことではない。しかし、そんな些細な違いを説明する必要はなかった。


 「しかし、それでは三人が集まることになる。そのリスクを考えているのか?」


 男は案の定、指定した三人の接近を危惧する。立場は圧倒的に男の方が上であるが、千里の成功は男の望みでもあるのだ。男からの助言は、約束を守っている限り栞奈が安全であることを証明していた。


 「危惧していないわけではない。ただ、三人に面識はない。あったとしても同じクラスや部活の関係を疑問視するとは思えない」


 「そうかい。であれば見守ることにしよう。……ただ」


 ここでも男は千里の決定に同意する。しかし、語気は唐突に強まった。


 「失敗の代償が大きいことは常に念頭に置いておいた方が良い。一瞬のおごりが栞奈ちゃんの運命を左右する。そして、その決定権を握る私を過小評価しないことだ」


 「言われなくても分かっている」


 今の千里にそんな腹積もりはない。千里が即答すると男は言葉を柔らかくした。


 「まあ、私は応援している。三股をかけようとする君を見ていると気分が良くなる」


 本当にそう思っているのか、今までに聞いたことがない物柔らかな口調で伝えられる。受け取った千里は身震いだけでは済まなかった。男はもはや自己中心的な人間という枠組みに当てはまらない。一種のサイコパスとして評価されるべきである。


 「さて、報告はこれで終わりかな?」


 「ああ」


 「では電話を終えよう。来月の進展、非常に期待している」


 その言葉を最後に男は電話を切る。話中音をしばらく聞いてから千里も電話を耳から離した。


 千里が男に強い憤りを感じている理由は、栞奈を道具のように扱っているからである。しかし、最近の千里はそんな男の声を受け入れつつある。それに気が付いていた千里は情けなく感じていた。


 来月も男の望む結果を出せた場合、千里はそれを喜ぶべきなのか。多くの人が迷惑を被っている中、口約束だけで栞奈への攻撃が持ち越されたことを安堵すべきなのか。紗花や茜、美波に酷い仕打ちをして栞奈を守ることが本当に正当なことなのか。感覚が麻痺しつつある千里には何も分からなかった。

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