第19話 千晶の訪問
猛暑日となった八月中旬のある日、空調機のない千里の部屋はサウナ状態となっていた。噴き出す汗は止まらず、扇風機はその場しのぎにもならない。
化学部と科学部の合同合宿は、紆余曲折を経て茜と付き合うことで大成功を収めた。代償は茜と無断で散歩したことを西に怒られた程度で、収穫と比べれば大した問題ではなかった。
二か月連続の進展は出来すぎのようにも感じるが、そうしなければ栞奈に危険が及ぶ。そもそも三人との交際はスタートラインに過ぎず、折り返し地点にも達していないのが現状である。ただ、茜との交際は男への報告で必ず有利に働く。先月のような切迫感はなかった。
とはいえ、今回ばかりは男が千里の成功に気付くか微妙だった。あの瞬間が二人きりだったことは間違いなく、男の正体が茜でない限り把握は不可能なのだ。しかし、こればかりは千里がどうにかできる問題ではない。
面倒な考え事をやめた千里は携帯を確認する。残念なことに今日は外出の用事があった。
「……なんで今日なんだよ」
意味のない独り言を呟き終えるなり、千里は自転車の鍵を握って家を出た。
下手良駅はこんな日でも多くの人で埋め尽くされていた。大半は夏休みを利用した観光客で、スーツケースを引いて四方に歩いている。駅構内は冷房が効いていて、千里が約束の場所で声をかけられた時には汗は引いていた。
「久しぶり!お兄ちゃん!」
顔を上げると目の前に笑顔が迫ってくる。相変わらず対人距離の近い千晶は赤のスーツケースを手にしていて、紺のノースリーブに白のスカート姿と都会に染まっていた。
「何してるの?」
千里が変わり具合に驚いていると、千晶は携帯の画面を覗き込もうとしてくる。ちょうど茜と連絡を取り合っていたところだったため、即座に携帯をスリープモードに落とした。
「え、なに?怪しい」
「どうした」
「いつもはロックしないでリビングに置きっぱなしにしてたじゃん」
千晶はなぜか睨んでくる。千里は千晶の言葉を無視して話題を変えた。
「じゃあ、家に行こうか」
本来ならば、今の時間は学校か予備校の課題のために充てられるべきである。千晶の宿泊を叔父さんに取り計らってもいたため、千里がこれ以上拘束される理由はなかった。
しかし、駐輪場に向かおうとした千里は千晶に引き留められた。
「ちょっとくらい案内してよ。観光に来たんだよ?」
「……観光も何も、まずは家に荷物を置きに行こう。行きたいところにはその後に行けばいいだろ」
巻き込まれると思った千里は反論する。しかし、千晶は聞き入れてくれない。
「どこかコインロッカーに預ける。家に戻ったら意地でも動かないつもりでしょ?」
「………」
図星を指された千里は言い返せなくなる。対する千晶は得意げな顔をした。
「簡単に分かっちゃうんだなー。何年兄妹してると思ってんの?」
千里は勝利宣言を聞かされる。その理屈だと兄が劣勢であることの説明がつかなかったが、この関係は変わりそうになく諦めるしかなかった。
「……どこに行きたいんだよ」
コインロッカーに荷物を詰め込む千晶に問いかける。
「お兄ちゃんは一日中暇?」
強引に決定した割には千里の都合を気にする。一日中付き合わされるわけにはいかない千里は小さく首を横に振った。千晶はそれを見て軽く頷く。
「そっか。暇なんだったら、色々回って晩御飯食べてから帰ろうよ。叔父さんは今日も仕事でいないんでしょ?」
「あれ?見てた?」
千里の意思表示は千晶に伝わらない。仕方なく言葉でもう一度伝えようとすると、千晶は再び自慢げな表情を見せた。
「そんな嘘は通用しないから」
「嘘って……何を根拠に」
「だって久しぶりの時間だよ?いいでしょ?」
千晶の方が何手も先を見通していて、千里は承諾せざるを得ない。面倒とはいえ、千晶は千里を気にして一人で来てくれているのだ。
「分かったよ」
「やった!」
千里が了承すると千晶は両手を振って喜ぶ。千里は心の奥に文句をしまい込んだ。
「それにしても見ないうちにすっかり都会に染まったな」
千里は純粋に思ったことを伝える。千晶は自分の身なりを確認して首を傾げた。
「そうかなあ。だったらお兄ちゃんもすごく変わったよ。いつもダサダサのジャージばかり着てたのに」
「う、うるさい」
千里は男との約束を果たすために服装の観念を矯正したが、千晶の場合は環境の変化が原因である。そこには大きな違いがあった。
二人が最初に向かった先は女性向けの店が並ぶ通りだった。千晶がこのような店に興味を持つことは全く不思議ではない。しかし、こんな店はどこにでもある。
ただ、千里がその点を伝えると千晶は即座に肯定し、下手良には観光名所が少ないと言い捨てるまでした。観光とはただの詭弁だったようで、千里の疑問は堂々とした態度でねじ伏せられる。その後の千里は、ただの付き人として買い物に付き合う羽目になった。
「ねえ、学校はどんな調子?」
休憩でベンチに座った二人は雑談を始める。この時になって千晶の語気は弱まった。
「普通かな。ようやく都会の生活に慣れたところ。千晶は?」
「私も同じ。憧れはしてたけど、いざ住み始めると疲れちゃう」
千晶も新生活に苦労しているという。それを聞いて千里は申し訳なく思った。感情を制御して穏便な解決を図っていれば、二人が移住することはなかったのだ。
「ごめんな」
千里は過去を悔やんで謝る。たった一つの行動が多くの人の生活に影響し、それは下手良の友人にも波及している。千里がこの地に来なければ男の脅迫もなかったはずで、千里の責任はあまりにも大きかった。
「謝るのはなしって引っ越すときに言った。忘れた?」
優しい千晶は苦労があったとしてもそれを隠すはずで、どんな言葉も真に受けることはできない。千里の心は余計に苦しくなった。
「覚えてる。さっきのは無意識だった」
「別に私が困ることじゃないんだけどね。……でも、本当に大丈夫?」
「なんで母親顔なんだよ。心配ないって言ってる」
千晶は千里を弟だと思っているのかもしれない。ただ、それもあながち間違ったことではない。千晶の方が人間として優れていることは間違いなく、千里は単に一年早く生まれただけなのだ。
「そうだよね。ごめんね」
「まったくだ。……そろそろ休憩もいいだろ」
千晶の気持ちは嬉しいが、いつまでも気を揉んでほしくないというのが本音である。千里は一人でもやっていけることを証明しなければならなかった。
ベンチから立ち上がると、千晶は行きたい場所を携帯に表示する。そこは地下通路を抜けた先の別の専門店で、道案内は簡単にできそうだった。
「じゃあ、行くか」
千里は最短ルートを割り出してそちらに体を向ける。その時、吸い込まれるように一人の歩行者と目が合った。
「あ……」
立っていたのは紗花で、千里と千晶を凝視したまま立ち止まっている。ただ、すぐに踵を返してしまった。
「お兄ちゃん?」
隣では千晶が首を傾げている。千里の足はすでに動き始めていた。
「千晶、そこで待ってて」
指示を出すなり千里は小走りになる。早足で歩く紗花だったが、距離を詰めるのに時間はかからなかった。
「上村さん」
千里の声で紗花はすぐに立ち止まる。振り返った紗花は笑っていた。
「北山君、奇遇だね」
いつもより明るい声は不自然で、仕草もよそよそしい。
「あいつは……」
「ごめん、邪魔したよね。私はもう行くから」
紗花は再び千里から離れていこうとする。千里はとっさに紗花の腕を掴んで引き寄せた。
「時間ある?ちょっと話せないかな?」
「う……うん、いいよ。でも通路の真ん中じゃさすがにね」
紗花はそう言って、千里が先程まで座っていたものとは別のベンチを指し示す。千里は頷いて一緒にそこに座った。
「えっと……それで話って?」
紗花は早速本題に入ろうとする。ここから千晶は見えない。
「上村さんは勘違いしてる」
「……友達?でも随分と仲が良さそうだった」
心なしか紗花は早口になっている。その雰囲気に千里も引きずられそうになった。
「妹だ。さっきのは僕の妹」
「……妹?」
「そう。一つ下の妹」
紗花の勘違いは不都合なことであり、千里は一刻も早くその状態を解消しなければならない。しかし、紗花は話を聞いても緊張をほぐそうとせず、それどころか雰囲気は余計に悪化した。
「そっか……でも、妹がいるなんて知らなかった。それも年子の」
「それはごめん。言ってなかった」
千里は謝罪する。千晶の存在を隠していたわけではないが、過去を隠す延長で話せていなかったのだ。紗花は千里の対応を訝しがる。
「でも、一緒に住んでるわけじゃないよね。それなら同じ学校のはずだけど」
「ああ。ちょっとした家庭の事情で別のところに暮らしてる。僕だけがここに引っ越してきて、叔父さんの家に居候させてもらってるんだ」
「……そうなんだ。ごめんね、変なこと聞いちゃって」
千里の説明を受けて紗花は申し訳なさそうにする。千里は気にしないよう伝えたが、ここらが限界だと感じた。これ以上を伝えると秘密を知られる恐れがあったのだ。
「そっか……安心した。それじゃあね」
言葉とは裏腹に、紗花は急いで立ち去ろうとする。これ以上の事情は説明したくない。しかし、紗花との関係を悪化させることもできない。千里はここで決断した。
「千晶っていうんだ。……待ってて」
千里は紗花を座らせたまま立ち上がり、千晶を手招きで呼ぶ。事情をよく理解できていないのは千晶も同じで、戸惑いながら近づいてきた。
「妹の千晶だ」
「えっと、北山千晶です。兄がお世話になってます」
「あ……こんにちは」
千晶はまだ混乱していて、紗花も千晶を見て黙ってしまっている。代わりに千里が紹介を行った。
「上村紗花さん。僕の彼女だよ」
「え?」
その瞬間、紗花の視線が千里に移る。千晶はというと、慌てて財布から取り出した何かを紗花に手渡した。
「北山千晶です。兄がとてもお世話になっているみたいです」
学生証を渡した千晶はもう一度自己紹介をする。紗花はまもなくそれを千晶に返した。
「変な自己紹介をするな」
千晶の行動の意味を理解しつつも、千里は建前上注意する。この時になってようやく紗花の肩の力は抜けた。
「実は夏休みを使って観光に来てて、その案内をしてたんだ」
「そうだったんだね……勘違いしちゃった」
弱々しく漏れた言葉は安堵を伴っている。千里はそんな紗花から目をそらしてしまう。
「そんな勘違いしなくたって」
誤解が解けたことで、千里は不必要なことを口にしてしまう。すると、紗花は即座に反論した。
「でも北山君、あれからあまり連絡取ってくれなかったし。ちょっと心配してた時だったから」
「あー、それは……」
言われてみて千里はその通りだと感じる。紗花と付き合ってすぐに予備校や化学部のイベントで忙しくしていて、優先順位を落としてしまっていたのだ。
「それは兄が悪いです。昔から社交性がなくて、誰かと付き合ったこともなかったと思います。経験不足なんです」
謝罪を始めた千晶は隣に兄がいることを忘れてしまっているようである。千里は心の中で焦ったが、今は話を合わせるべきだと気持ちを抑えた。
「それは……そうなのかも。でも、せめて堅苦しい呼び方くらい変えてくれてもいいのに」
紗花の不満気な上目遣いが千里に刺さる。するとまた千晶が勝手に口を開いた。
「ごめんなさい。兄は極端にヘタレなんです」
「言わせておけば……」
今度ばかりは千晶に怒る。しかし、千晶が真に受けずに笑うと、紗花もそれにつられて笑顔を見せた。
「私は一人で大丈夫だからデートでもしたら?」
気を利かせたつもりか、千晶はそんなことを言い始める。しかし、千里には心の準備ができていない。千晶の面倒も大変だが、紗花と二人きりにされても困るだけだった。ただ、紗花の方が首を横に振った。
「ううん、せっかくの兄妹の時間を大切にして。私もこれから用事があるから」
紗花はそう伝えると立ち上がる。どうやら全てが円満に終わったようだった。
「気を遣わせちゃってごめんね、千晶ちゃん」
「いえいえ。また機会があればお話しませんか?」
「喜んで。北山君もごめんね」
「すぐに連絡するよ……紗花」
「うん、ありがとう。変な勘違いしちゃってごめんね。……でも、慌ててくれて嬉しかったよ。それじゃ、またね」
紗花は手を振りながら去っていき、千晶も同じように手を振る。見送りを済ませると、千里は脱力してベンチに深く腰掛けた。予想外の出来事を乗り切って急な疲れに襲われたのだ。
しかし、面倒事はこれで終わらない。千晶が不愉快そうに千里を見つめていたのだ。
「なに?」
「やっぱり一回家に行こう」
紗花に振りまいていた笑顔はどこにもない。急変した千晶の反応に千里は困惑する。
「いいのか?行きたいところがあるって……」
「それよりも話したいことがあるの」
千晶の提案は強制力を持っている。千里は従うしかなかった。
荷物を回収して駅を後にした二人は無言で帰宅する。千晶が今までにこんな態度を取ったことはない。だからこそ、何があったのか疑問だった。
家に到着すると千晶を自室に案内する。特別大きな家でもないため、千晶は千里の部屋で寝ることになっていたのだ。千晶は荷物を部屋の端にまとめるなり早速千里に詰め寄ってくる。怒っているようだった。
「……本当に紗花さんと付き合ってるの?」
一言目はそんな冷たい言葉で、信じられないという感情がはっきりと窺える。千里が正直に頷くと、千晶はしばらく考え込んだ後に口を開いた。
「でも、でもお兄ちゃんは……」
千晶は言葉を詰まらせる。千里の様子を窺って深く踏み込むべきか迷っているようだった。
「栞奈がって、言いたいのか?」
「そう!お兄ちゃんは栞奈ちゃんが好きだって!だからたくさん背負って今もこんなところに一人きり。……そうでしょ?」
千晶の追及は鋭く、的を射ている。千里はうなだれた。
「本当に紗花さんが好きなの?……本当に?」
「千晶、やめて」
「私がこんなことを言うべきじゃないって分かってるけど……でも、やっぱり」
「千晶」
千晶は頼りない兄の代わりに不可解な点を明らかにしていく。だからこそ、紗花の前ではあえて大人しく振る舞ったのかもしれなかった。
「千晶は正しいよ。何がどうなってるのかは詳しく話せない。だけど、千晶の言う通り僕は間違ったことをしてるんだと思う」
「そうだよ。じゃないと栞奈ちゃんが……」
「でも理由はちゃんとある。今でも栞奈のことは心配だし、栞奈がまた元気に生活できることを一番に望んでる。それだけは理解して」
故郷では千晶も千里と同様に栞奈と仲が良かった。ほとんど姉妹のような関係だったからこそ事情をよく理解していて、両親の考えに反発して千里の肩を持ってくれている。千里の行動を納得できない理由はそこにあるようだった。
しかし、千里に考えの変化はない。今はそのことしか伝えられなかった。
「……そうなんだ。分かった」
千里の説明を聞いて千晶はようやく落ち着く。ただ、全てが腑に落ちていないことは言うまでもない。
「お兄ちゃんが人の心で遊んだりしないことはよく分かってる。何がどうなってるのかは全然分からないけど……でも、私はいつでもお兄ちゃんの味方だから」
「ありがとう」
これほど曖昧な兄をどうして信頼できるのか。千晶まで騙しているような感覚が千里を苦しめる。しかし、千晶の信頼は厚い。
「じゃあ、もうこの話は何も聞かない。……晩御飯、どこか食べに行こう?」
区切りをつけるためか千晶は調子を元に戻す。千里はその言葉に甘えることにした。
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