第18話 合宿(3)

 夕食も豪勢な料理が振る舞われた。学生の身分で贅沢だと思っても食べ始めると止まらない。隣では浴衣姿の茜が興奮気味に刺身を食べていた。


 そんな様子を見て、茜が科学部と打ち解けられるのか千里はふと心配になった。東の話が本当ならば、西の手助けが期待できるかもしれない。ただ、西が簡単に動いてくれるとは思えなかった。


 本当ならば、顧問が仲介役を買ってくれれば一番良い。しかし、一人だけで日本酒をあおった岸部先生は酔って宴会場で寝てしまっている。ふざけた教師に溜息しか出ず、結局千里が二人の間を取り持った。


 夕食を終えると、全員は天体観測の準備のために一度部屋に戻った。夏真っ盛りとはいえ、この地は夜になると冷える。薄い上着が一枚あれば問題なく、千里は浴衣を脱いで私服に着替えた。


 「場所はここから十分ほどの広場です。荷物は分担して持っていき、到着するなり組み立てて良いです。これらは羽子田はこだに任せます」


 玄関で西が指示を出す。望遠鏡は学校の備品をわざわざ分解して持ってきている。羽子田が望遠鏡の扱いに最も慣れているらしく、観測対象も全て決めていた。


 「何の虫だろう」


 西を先頭に移動が始まり、茜は周囲の虫の音に興味を持つ。よく耳にする音色だったが千里には虫の種類までは分からなかった。


 「あんまりフラフラ歩かない方が良いですよ。田舎の側溝は極端に深いこともあって、はまると怪我では済まないです」


 「大丈夫だよ-」


 天体観測がよほど楽しみなのか、茜は千里の注意を聞いても上の空である。千里の前を後ろ向きに歩く茜は浴衣姿で、からからと音を立てる下駄がよく似合っていた。


 ただ、履き慣れていないせいか、ふとした瞬間にバランスを崩して千里の手を借りて体勢を立て直す。千里がそれ見たことかと笑うと、茜は髪を耳にかけつつごめんねと呟いた。


 今回は望遠鏡で火星と土星を観察し、天の川が見えるほど綺麗な夜空で夏の星座を確認するという。


 「今のうちによくこの星空を目に焼き付けておいて。あと一時間もすると月が出るからね」


 観察場所に到着するなり、望遠鏡を組み立てる羽子田が声をかける。ただ、言われずともほとんどが星空に目を奪われていた。


 「天の川って私たちがいる銀河を見てるって書いてたよね」


 「……あ、ああ。そういえばそうだったね」


 茜が指で天の川をなぞる。夏は夜空の方向が銀河の中央と一致するため、観察しやすい位置に天の川が堂々と流れる。二人は科学館でそんな文面を見ていた。


 「それに、光が粒子の性質を持っているからこうやって遠くの星の光を見ることができるんだったよね」


 「……そうでしたっけ?」


 今度ばかりはそんな説明を見た覚えがない。千里が正直に分からないことを伝えると、茜は不服そうな顔をした。


 「書いてたよ。もし光が移動距離に比例してずっと減衰していくなら、遠くの星の光が見えることはないって。どんなに距離が離れても一つの光子として伝わるから、こうして綺麗な星空を見られる」


 「あー、そんな話でしたね」


 全く思い出せない千里は適当に相槌を打つ。茜はそんな千里の反応に文句を言いたそうにしているが、そもそも天体には興味がないと言っていたはずである。文句を言いたいのは千里の方だった。


 「望遠鏡の準備ができたよ。最初は火星から。一人ずつしか見れないから皆並んで」


 羽子田がセッティングを終えると、茜はすぐに観察の列に加わる。千里が遅れて列の最後尾に並ぶと、すぐ後ろに西がやってきた。


 「ちゃんと茜の面倒見てた?」


 「え、ええ。僕は保護者じゃないですけど」


 西も茜と同じく浴衣姿で、風呂上りであるからか甘い香りがしている。制服を着た凛々しい西しか見たことがなかった千里は、今の西の姿から東の話の信憑性を感じた。


 「変な目で見てる?」


 「……見てませんよ」


 「何か東に吹聴されたでしょ?何を聞いたか言ってみて」


 西は確信しきった目で千里に言い寄ってくる。確かに千里は東から話を聞いたが、それは男湯でのことである。


 「どうしてそう思うんですか?」


 ここで頷いてしまうと東に迷惑をかけるかもしれない。ただ、西の回答は単純だった。


 「私を見る目が変わったように感じたから。敵対心があるとは思ってなかったけど、学校で話すときは茜の味方になろうとしてる感じがあった。だけど今はそんな感じがしない」


 「西さんがそう思うだけなんですよね?」


 「でも東から何かを聞いたのは事実でしょ?」


 西は信じて疑っていない。千里の言い逃れはここまでだった。


 「変なことは聞いてないです。事故の前後で西さんがどんなだったかを少しだけ」


 「やっぱり。あれだけ話すなって言ってたのに」


 千里が観念すると西は文句を垂らす。千里は心の中で東に謝った。


 「それで、その話を聞いてどう思った?」


 「どうと言われても。でも、部長……野依さんを気にかけてくれていることを知れて良かったです。僕は西さんを勘違いしてたみたいでしたから」


 正直に言ってみると恥ずかしい。しかし、西は真剣に聞いている。


 「別にそういうのじゃないんだけど」


 西はすぐに否定する。ただ、千里にも分かるほどの嘘が含まれていた。


 「直接伝えると良いかもしれないです。部長は口にしないだけで悩んでることたくさんあるみたいですから」


 「そんなの知ってる。そんなことより、このこと絶対茜に言わないでよ。言ったら承知しないから」


 二人が本音を語り合う未来は簡単に想像できるものではない。しかし、即答した西を見ると不可能ではなさそうだった。


 「それは約束できないです。努力はしますけど」


 千里の返答に西は眉をひそめる。しかし、これは感謝の意味合いを含んだいたずらで、千里は西の反応を気にしなかった。


 「北山君!すごかったよ……って」


 火星の観察を終えた茜が千里のもとへやってくる。しかし、西の姿を見るなり真顔に戻った。西も急に堂々とした雰囲気を作り出す。


 「良かったね。北山君と仲良くできてるみたいで」


 「何の話をしてたの?」


 茜が怖い顔をする。千里が何でもないと弁明しようとした矢先、西が遮るように前に出た。茜はそんな西を睨む。


 「茜、ずいぶん変わったね。あの時は一人でも大丈夫って威勢を張ってたのに、今では北山君がいないとダメみたい。二人で科学館にも行ってたらしいし」


 早速険悪な雰囲気が漂う。話の内容は対立を煽るようなことではない。しかし、茜は千里に鋭い視線を向けた。


 「僕は何も話してないです」


 「そうよ。北山君からは何も聞いてない」


 千里は誰からその話を聞いたのか考える。ただ、振動反応に必要な試薬の購入を西に相談したことがあり、そこから調べたのかもしれなかった。


 「ところで火星はどうでした?」


 千里はせっかく西の話を聞いたばかりである。いがみ合って別れてしまうことは良くないと思い、正常な会話に戻そうとした。ただ、西はそれを許さない。


 「ねえ。まさかとは思うんだけど、北山君を……」


 西は問い詰めるような口調で茜に話しかける。一瞬目を大きく見開いた茜は、髪を揺らして二人に背を向けた。


 「知らない」


 冷たく言い残した茜は足早に離れていく。千里はその背中を見送ってから西を睨んだ。


 「どうしてそんな言い方を?」


 あまりにも攻撃的だった西の真意を問いただす。茜の前だと正直になれないというような理由なら、あまりにも卑屈過ぎて見て見ぬ振りできなかったのだ。


 「別にいつも通り」


 「なぜですか?」


 「あれ、怒ってる?」


 西は少し驚いた様子で聞いてくる。ただ、千里は怒ってるわけではない。考えと行動の間に隔たりを持っている理由を知りたいだけだった。


 「気になるだけです。部長がやや自己中心的なのは間違いないですけど、今はそうでもなかったと思います」


 列が進んで千里の順番が近づく。観察を終えた人は最後の星空を見上げていて、千里と西に興味を示す人はいない。西は少し唸った後、にっこりと笑った。


 「ただの意地悪かな。私の秘密、北山君に知られたから」


 「……そうですか」


 千里はなんと言い返せば良いのか分からない。西の気持ちは確かに秘密の部類に入るのだろう。しかし、それを知られた腹いせに茜を怒らせるのは自分勝手という言葉に尽きた。しかし、言い切った西は飄々としている。


 「茜の機嫌が悪くなってたらごめんね?」


 終始西は楽しそうである。どうしようもないと思いながら千里は望遠鏡を覗いた。


 その後、茜が話しかけてくることはなかった。西の態度は大概であるが、茜も西の挑発を鵜呑みにしすぎている。茜とより親密になる計画は西のおかげで潰された。


 ただ、それは西が茜を助けた結果と言っていいかもしれなかった。千里は関係ない事件に絡ませて、茜を傷つけようとしている。西はそれを知る由もないが、千里の計画を狂わせることは茜を助けることと同義であるのだ。とはいえ、その考察は行き過ぎている。


 月の出によって星の数は減る。羽子田が片付けを進める中、西は全員にこれからの説明を行った。茜は端の方に一人で立っている。


 帰り道もまだ空に夢中な人がふらふらとしている。千里は最後尾からそんな集団を眺めていた。本当は茜を気にして話しかけるべきである。しかし、どの影が茜なのか分からず、宿に戻ってからでも遅くはないと自分に言い聞かせていたのだ。


 しかし、背後から風が吹いてきたと思った途端、甘い匂いが漂ってくる。その後すぐに千里は名前を呼ばれた。


 「ねえ、北山君」


 「わっ!?え?」


 自分が最後尾だと思っていた千里は、耳元での囁き声に大きく体を震わせる。慌てて振り返ると茜が立っていた。


 「どうしたの、そんな声出して」


 「……驚かさないでくださいよ」


 少し怒ってみせて、情けない声を出してしまった恥ずかしさを紛らわせようとする。しかし、茜はそんな千里を小馬鹿にするように見ていた。


 「ごめんね。そんなに驚くなんて思わなかった」


 「いや、少し大げさでした」


 呼吸を落ち着かせた千里はぎこちなく笑みを浮かべる。ただ、強がってることは茜に気付かれているようだった。


 「下駄で歩くと音が鳴るから静かに後をつけるの大変だったんだよ」


 茜はわざと下駄を鳴らす。雰囲気は先程とまるで違っている。


 「普通に話しかけてくださいよ」


 「いいじゃん。それよりもう少し歩いてから帰らない?」


 茜は集団が進む道とは別の脇道を指差す。真っ暗な道を見て千里は身震いした。


 「西さんに怒られますよ」


 「いいの西は。さっきのお返しだから」


 西と同じように意地悪い顔をした茜は、千里の腕を引っ張る。流されるように千里はその脇道に入った。


 「明かりとかないですから」


 「あるよ。持ってきたの」


 茜はすぐさま懐中電灯を取り出す。行き道では使っておらず、最初から計画していたのかもしれなかった。


 まだ遅い時間ではなく、少しだけなら問題ないと千里は判断する。西に怒られたとしても、今の茜ならいつも通りの言い合いができそうだった。


 「どこに行くつもりなんですか?」


 「そんなの決めてないよ。この先に何があるのか知らないし」


 一寸先は闇とはこのことで、千里はこれからのことを考えられない。ただ、二人はそのまま集団とは別の道に入っていった。


 道を外れてしばらくは二人の間に会話はなかった。そうしてひたすら歩くこと数分、先に声を出したのは茜だった。


 「ねえ」


 「どうしたんですか?」


 暗い場所では大きな音を立ててはいけない。昔からそんな癖を持つ千里は、この時も声を小さくする。


 「……手繋いでもいい?」


 「え……?」


 「ダメなら手首を掴ませてくれるだけでもいいんだけど」


 少し焦った声で茜がお願いしてくる。千里が言葉を紡げずにいると、茜は震えた手で手首を掴んできた。


 「怖いんですか?」


 「悪い?」


 「戻りますか?」


 「……戻りたいの?」


 千里の意図は面白いほど全く伝わらない。茜の考えや目的の一切が理解の範疇を超えている。


 「……ねえ」


 またしばらくすると、吐息を混ぜた茜の声が響く。


 「北山君の手を握ってるのは本当に私かな」


 「え?」


 茜が不敵な笑みを浮かべていて、千里は生唾を飲んでから手をゆっくりと上げる。ただ、掴んでいるのは茜の手で間違いなかった。


 「……なんですか?」


 腕を元の位置に戻したとき、茜が笑っていることに気付く。千里は大きく溜息をついた。


 「北山君が私を馬鹿にしたから仕返してやろうかなって」


 「そんなことしてないです」


 これは嘘であるが、茜はそうなんだと頷く。ただ、手を離してはくれない。むしろさらに力を込められてうっ血しそうになっていた。


 「ちょっと痛いですよ」


 「ねえ見て。神社への参拝道があるよ。行ってみよう?」


 千里の抗議に聞く耳を持たず、茜は強引に歩みを進める。ここまで押しの強い茜は初めてで、千里は言う通りにしか動くことができない。少し抵抗してみても、お構いなしに引きずりこもうとするのだ。


 「部長、ちょっと待ってください」


 このままではいけないと感じて、千里は肩を触って茜を止める。素直に立ち止まった茜は、不思議なことに申し訳なさそうな顔をしている。今の千里は説明を必要としていた。


 「部長が何をしたいのか分かりません。何があったんですか?」


 茜と西の言い合いの際、千里は茜の側に立てなかった。それで茜が機嫌を損ねたのだと千里は思っていたが、今は奇行に付き合わされている。二人きりになれたと喜んではいられない。


 「気付かないっか。……仕方ないよね」


 茜はようやく手を離す。解放されても握られている感触が残っていて、千里は手首をさすった。


 「僕が何かしましたか?」


 「そうだよ」


 茜が即答する。ただ、千里に思い当たる節はない。


 「ごめんなさい。僕には何のことだか……西さんとのさっきのやり取りが関係していますか?」


 「ううん。関係ない。ただ二人きりになりたかっただけなんだけど……どうしてか分かる?」


 「……誰にも聞かれたくない話ですか?」


 「もちろん。北山君にしか話せないこと」


 「それって……」


 千里は言いかけてやめる。話を長引かせたくはないが疑問は山積していて、その解決なしに話は進められないのだ。


 「部長の話したいことは何となく分かりました。ですけど、その前に正直に答えてほしいことがあります。それを聞いてもいいですか?」


 「何かな?」


 「僕に隠していることあったりしませんか?具体的には、僕がそれを聞いて怒りそうなことです」


 千里の声は徐々に大きくなる。紗花のときはまだ理解できたが、こうも同じことが起きると疑わざるを得ない。邪悪な企みが純粋さの中に隠れている可能性があった。


 茜は千里の問いかけに対して挙動不審になる。その瞬間は皮が剥がれた証左だと千里は考えた。しかし、本当は泣くことを我慢しているからだった。


 「……どうして?」


 「気になるからです」


 「だからどうして!?」


 萎んでいく千里の声とは反対に、茜は胸に手を当てて訴えるように叫ぶ。状況が千里の質問を誘発したわけだったが、その言葉は茜を傷つけただけだった。


 「私がどうしてここに来たのか、北山君は分かったって言った。それなのに、怒らせるようなことをしてるって疑った。どうして?」


 「……ごめんなさい」


 この時になってようやく謝罪の言葉を漏らす。ただ、何に対してなのかははっきりしておらず、茜にもそれは伝わっていた。


 「やめて。私をみじめにさせないで。……恥ずかしいよ」


 涙をこらえきれなくなった茜は千里から顔を背け、来た道を戻ろうとする。千里は咄嗟に茜の腕を掴んで制止させた。


 「放して!」


 「話はまだ終わってないです!」


 「もう話すことなんてないでしょ!?」


 ようやく見せてくれた顔は涙で濡れていて、それでも千里を睨みつけてくる。千里もついに我慢できなくなった。


 「僕だって困ってるんです。部長を怒らせてしまったと思っていたときに、ここに連れてこられてこんな話を切り出されたんですから」


 「怒ってなんてない!北山君の勘違い!」


 「でも、機嫌を悪くして話しかけてくれなかったじゃないですか」


 千里は一つの事実を伝える。茜はいつもの凛々しさとはまるで異なる態度で自らの不満を主張していたのだ。ただ、茜は即座に言い返した。


 「あれは怒ってたんじゃない。嫉妬してたの!」


 「え……?」


 返ってきたのはあまりにも予想外な言葉だった。茜は真っ赤な瞳を千里から逸らそうとしなかったが、しばらくすると俯いて嗚咽を漏らす。千里が思わず茜の腕を離すと、それを嫌がった茜は自分の手を千里の手の中に収めようとした。


 「北山君はずっと私を気にかけてくれてた。化学部の話を聞いた時だって、離れていくことなく気持ちを伝えてくれた。私はそれが嬉しかったの。私だって西に迷惑をかけてることは分かってた。でも贔屓しないで見てくれて、間違ってた時は遠回しにそれを伝えようともしてくれた。……そうでしょ?」


 「え、ええ」


 「そんなことされたら好きになるに決まってるよ。……でも、私のそんな気持ちに気付いて、それでも怒らせるようなことをしてるって疑った。私の気持ちは北山君を怒らせるほど、迷惑だった?」


 「それは違うんです」


 千里は事情を把握して誤解を解こうとする。ただ、茜は聞き入れてくれない。


 「それなら何を疑ったの?あの状況で」


 茜の言い分は正しい。千里は場違いな質問をしたのだ。ただ、その理由を話すことはできない。


 「迷惑ならそう言って。北山君に嫌われたくない。……できるものなら昨日までの関係に戻りたいよ」


 茜は苦しそうに言葉を紡ぐ。事情がなければ、千里はその言葉で有頂天になっていたに違いなかった。


 「それは無理じゃないですか?」


 千里ははっきりと断言する。すると、茜は千里から顔を背けて吐き捨てるように命令した。


 「部活をやめて」


 「嫌です」


 千里は即答する。茜は唇を噛んでからもう一度口を開く。


 「それなら私が部活をやめる」


 「困ります。僕だけでは化学部を続けられません」


 「北山君がそうしようとしてるんでしょ?」


 茜は両手に拳を作って千里に詰め寄る。それでも茜の要求は承服しかねた。


 「僕は部長と化学部を続けていきたいです」


 「それは無理だって自分で言ったばかりだよ?」


 すでに弱気な一面を封じ込めた茜は対決姿勢を剥き出しにしている。化学部とは一人になっても守ってきた茜の大切な居場所である。千里も茜から化学部を奪うようなことはしたくなかった。


 「昨日までの関係に戻ることは無理だって言ったんです。気持ちを伝えられた僕が今まで通り部長に接することができると思いますか?」


 千里は茜を好きになった気持ちになりきる。人を騙すためには、少なくとも同じことをされたときに自分が騙される程度でないといけない。


 「僕の気持ちを部長は分かっていますか?部長は化学にしか興味がなくて、それに受験生です。……隠して腐らせてしまおうと何度考えたか覚えてないです」


 「え……いつから?」


 茜の握り拳から力が抜けていく。千里はその手を掴んだ。


 「一緒に科学館に行った時には間違いなく。始まりは覚えてないです」


 「嘘よ……嘘。そんなの感じなかった」


 「だから隠していたんです」


 茜は嘘だと決めつける。千里は茜から目を離さない。


 「そんな風に言われると心外です。部長は疑った僕を怒ったばかりじゃないですか」


 人をそそのかして欺くことに千里は慣れていない。それにもかかわらず、偽りの態度や不実の言葉を抵抗なく茜に披露できる。自分の行為を正当化することが当たり前になっていた。


 「……でも信じられないよ。私には理由がある。でも、北山君にはある?」


 今度は茜が千里に理由を求めてくる。千里は時間を置かずに伝えた。


 「ありますよ。茜に冷たくされると心が痛くなります」


 虫唾が走ると馬鹿にしていた言葉も言ってみると気分が良い。茜は目を見開いてまた涙を流している。


 「き、急に困るよ。それに、それは理由じゃなくて根拠でしょ?」


 「茜のことを無意識に目で追ってるんです」


 「だからそれも根拠だから!」


 ぱっと表情を明るくした茜は千里に飛び込んでくる。千里の言葉は不完全だったが、それでも満足できたのだという。ただ、茜の指摘はもっともで、千里は驕っていた自分の評価を訂正した。


 しかしながら、今の千里は茜に抱きしめられながらもそんなことを考えられる。紗花の時と比べて罪悪感は気にならなくなっていた。

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