第17話 合宿(2)
西が手配していた店は毬健の魚介類を使うことで有名な中華料理店だった。千里と茜が時間までに集合すると、そこには岸辺先生の姿もある。海鮮を使っている割には良心的な値段設定をしていて、提供された料理に多くが満足した。
しかし、あることが気になっていた千里は食事に集中できなかった。それはもちろん茜と西の関係である。
千里と茜は岸部先生、西、東と一緒の五人席に座った。そのため、突発的に口論が始まるのではないかと気が気でなかったのだ。
結局のところ、そんなことは起きなかった。しかし、二つの部の溝の深さを目の当たりにすることにはなった。
合宿の真の目的を達成できないまま、昼食を取り終えた一行は宿泊先の毬健市郊外に向かった。市街地は海沿いだったが、目的地はバスで山を一つ越える。田舎風景を眺めること数十分でバスは止まった。
「東、羽子田を早く部屋に連れていってあげて」
到着早々、気分を悪くした科学部の一人が先に宿屋に入っていく。山越えのカーブで酔ってしまったようだった。
「さて、ここが今日泊まる宿屋です。夕食の後にはメインイベントの天体観測がありますが、それまでは自由にしてください。温泉を堪能しても構いませんし、散策をしてみても良いですよ。ただし、くれぐれも羽目を外さないように気をつけてください」
西は指示の最後に茜を一瞥する。茜はそれに気付いてその場で文句を呟いた。
宿の外見は無機質なコンクリート造りで風情の面影もなく、内装は温泉宿というよりホテルに近い。きれいな絨毯にシャンデリアまであるロビーに和服従業員が立っている光景は異様だったが、千里の中では好印象だった。
男子と女子はロビーで別れることになり、千里は男子の科学部員と一緒に部屋へ案内される。そこでは東が羽子田を看病していた。
「お疲れ様」
東が話しかけてくる。どうやら千里を気遣ってくれているようだった。
「うん。……大丈夫そう?」
千里は寝ている羽子田を見て心配する。すると、羽子田自身がサムズアップした。
「大丈夫。ありがとう」
「酔い止めを飲んでいたのにこうなったらしいよ。相当弱いみたい」
東が羽子田に笑いかけると、他の皆もそれに同調して笑う。千里はそれを見て羨ましく感じた。
しばらくして千里らは今後の予定を話し合い、近くを散策した後に温泉に入る流れが決まった。それから夕食を取って天体観測を迎えるという。
羽子田も早々に回復したため、部屋の全員で散策に繰り出す。西や茜がどうしているのかは全く分からない。茜を心配した千里だったが、東が気にしていなかったためそれにならうことにした。
宿の周りはただの田舎で、畑が土地のほとんどを占めていた。真夏の晴天の下ではあるものの酷い暑さを感じることはない。千里はつくづく変な気候だと思いながら舗装されていない道を進んだ。東らは周囲の風景を楽しんでいるが、千里にとっては見慣れた風景で感動するようなことはない。最初に思い出されるのは事件のことだった。
事件があったのは冬の寒い日のことで、目の前の風景が千里を攻め立ててくることはない。ただ、栞奈の姿がふとした瞬間に見えてしまう。事件を思い出すよりも辛いことだった。
「大丈夫?」
隣を歩いていた東が心配してくれる。現実世界に引き戻された千里はそれに頷いた。
「ごめん、なんかぼうっとしてた」
「いや、いいんだけど。隣で声をかけても反応がなかったから」
東の心配そうな目を見て、千里は自分がそんな状態で歩いていたことに驚く。そうしていると、東が余計に気にしてきた。
「野依さんのことが心配?」
「え……ああまあ、心配かもしれない。西さんに迷惑をかけていないと良いけど」
ちょっとしたことで西に反発している茜の姿が容易に頭に浮かぶ。しかし、他の科学部員がいる中でそれができるとも思えない。
「大丈夫だよ。あんな風にいつもいがみ合っている二人だけど、本当は仲が良かったりするから」
「えっ?」
千里は東の言葉を聞き返してしまう。しかし、東はそれ以上を話すことなく、再び周囲の景色に嘆息した。
計画なしに歩き続けた一行はある神社で折り返す。そこでおみくじを購入した全員は、その結果に一喜一憂しながら来た道を引き返した。
宿に戻ると早速温泉に入る準備をする。部屋が違う女子組がどうしているのかは分からないが、この時になると千里の心配は薄れていた。それは東らとの会話がよく弾んだからである。温泉は宿の二箇所に設置されており、千里らは露天風呂がある方に向かった。
内湯はただ大きい風呂という印象だったが、露天風呂は景色を一望できるようになっている。かけ湯を済ませるなり全員で露天風呂に浸かった。温度は低めで、長時間の入浴もできそうである。
「そういえば聞いていなかったんだけど」
千里と東以外が体を洗いに室内に戻ったとき、東から声をかけてくる。
「ん?」
「どうして北村君は化学部に入ったの?」
特別不思議な質問ではない。しかし、千里はその問いに少し考えた。どう答えたら良いのか分からなかったのだ。
「化学が好きだったからかな。体験入部で部長がとてもいい人だと思ったし」
「そっか。……でも即決だったって聞くから、その時は事件のことを知らなかったってことだよね?」
「それは……そうだね」
今まで柔らかい物腰で話していた東だったが、その一瞬だけは強い口調となる。ただ、千里が東の方を向いたときには温厚な声に戻っていた。
「ごめん、別に変なことを聞こうとした訳じゃないんだけど」
千里の雰囲気を察したのか、東はすぐに補足してくる。千里は気にしていないとジェスチャーした。
「聞いたことあると思うけど、西さんや僕も去年は野依さんと一緒の化学部にいたんだ。事故があって今では二つに分かれたけど、でも……少し北村君のことが羨ましい。西さんも同じ事を思ってると思うよ」
「え?」
東の言葉は矛盾している。しかし、今度の東は補足や訂正をしてこない。千里は首を傾げた。
「羨ましいってそれは……どういうこと?」
東は千里のどこを羨ましがっているのか。化学部で活動していることなのか、それとも茜と部活動をしていることなのか。そのどれだったとしても、東が科学部という別の部で活動している事実と相反していた。ただ、東の語った理由は単純だった。
「事故のことを知っても野依さんと部活動できていることが羨ましいんだ。僕らは逃げたから」
東の目はどこか遠くの山に向けられている。逃げたという響きはあまりにも鋭かった。
「学年は一つ違うけど僕は昔から西さんと知り合いだった。幼馴染みって程でもなかったけど、高校が同じになった後も西さんは僕に良くしてくれた。僕が化学部に入部したのも西さんがいたからだった。そうして入った化学部だったけど、一年が経つ前に事故が起きた」
東が時系列を追って説明する。太陽はもうすぐ山の陰に入ってしまいそうなほど低い位置にある。
「今だから言えるけど、西さんは事故の後も化学部を続けるつもりだったらしい。それなら僕もそうしようと思っていたんだけど、他の部員たちは違ってた。新部長になったばかりの野依さんと一緒に部活動なんてできないって言い出して、西さんに新しく部を立ち上げるようにお願いしたんだ。どうして西さんだったのかと言うと、当時の西さんが今みたいに気の強い感じじゃなかったからってそれだけの理由」
「それはどういう?」
「本当に言葉の通りで、その時の西さんは人に命令もできない大人しい人で、学年が上だから先輩のポジションにいるだけだったんだよ。野依さんは当時からひたすら真剣な人だったけど、文化部にそんな部長はいらないって考えが他の部員の総意だった。だから、西さんを持ち上げて新しい部長にしようとしたんだ」
千里はその話を聞いてようやく何かを理解する。事故の原因がどこにあるのかは未だによく分からない。しかし、当時の部員の多くが茜の考えに付き合いきれず、事故を理由に緩い部活動を立ち上げようとしたのだという。部には所属していたいが、厳しい場所に身を置きたくない。文化部に所属する生徒の一定数がそんな考えを持っている。そんな人からしてみると、茜は目障りだったのかもしれなかった。
「西さんは自分の性格を分かっていて最初は断ってたんだけど、何度も説得されて引き受けることになった。それで今の科学部ができたんだ。僕も西さんがそっちに移るのならと思ってその流れに乗った。それで多くの部員は楽な部活動を手に入れたんだ」
「でも、今はそうでもなさそうだよね。吹奏楽ほどじゃないけど」
今の科学部は話に出てくる部員たちが考えていたような緩い部活動ではない。精力的に活動している部活動の一つだった。
「それにも訳があって、西さんは自分が持ち上げられた本当の理由を最初の頃は知らなかったんだ。だけど、後々にそれを知って酷く悲しんだ。そんな理由で野依さんを見捨ててしまったのかって。でも、自分が部長になることを約束して立ち上げた部をいまさら投げ捨てる訳にもいかない。楽な部活を手に入れようとした人の思い通りにさせないために、以前の化学部と同じ活動頻度で新しい科学部を動かし始めたってわけ」
「へえ、そんな過去が」
千里は伝えられた事実に驚く。何よりも驚きなのが、西の性格が一年足らずで作り上げられていたということだった。
「批判はなかったの?」
「勿論あったよ。緩い部活を目論んでた人たちは頻度を落とすように打診したけど、西さんは取り合わなかった。それで退部した人もいた。少し意地悪な対応だったけど、西さんは馬鹿な考えを持った人を減らせたって今では自慢げにしてる」
とうとう太陽が山に隠れる。辺りは急に暗くなっていくが、すぐに夜間用の照明が点灯した。千里はその話を聞いてよく考えてみる。茜と西の関係は千里の予想と少し違っていたのだ。
「西さんがいつも部長に当たってるのは……」
「心配してるからだと思うよ。出て行った身だから負い目を感じてて、なかなか正直に話すことができないんじゃないかな。悪いことをした訳じゃないけど、野依さんを一人にしてしまった訳だから」
やはりそうなのかと千里は思った。犬猿の仲に見える関係は、茜が協力を怠っているからだと考えていた。しかし、西は茜に愛想をつかしていたわけではなく、むしろ気にして茜に張り合っていたのだという。茜はそれを単に面倒に思っているわけであるが、大切なことは西の茜に対する気持ちだった。
「きっと気付いてないよ、うちの部長は。その事件を気にしているのは同じようだったけど」
「そうだろうね」
東はそれを聞いて笑う。茜との口論をいつも見学させられている東は、西の気持ちを知りつつ茜の無慈悲な応酬をいつも見ている。気付いていない訳がなかった。
「でも、西さんがそんな考えを持ってるとは思わなかった。申し訳ないとは思うけど、いつもの西さんからそんな裏を察するなんて不可能だ」
「確かにね。もう少し丁寧に言ってあげたらって僕も言ってるんだけど、冷たく接することに慣れた後だと態度を変えるのは難しいみたい。もちろん本人がそんなことを言うわけないから僕の想像でしかないんだけど」
どうやら科学部の副部長として東も苦慮するところがあるらしい。千里はそれを知って、また新しい側面から二人を見られると思った。こんな話を茜にしても信じてくれないだろうし、西にすると余計に関係が悪化しそうである。これからも黙って後ろから言い合いを見ているしかないようだった。
「そろそろ洗おうか。夕食に間に合いそうにない」
「そうだね」
千里は少し話し込みすぎたと時間を気にする。そうして露天風呂から立ち上がろうとしたとき、唐突に大きな声が響いてきた。隣の女湯からである。
「勝手に私のシャンプー使ったでしょ!」
西が誰かに叫んでいる。ただ、相手が誰なのかなど声を聞くまでもない。しばらくしてまた怒声が響いた。
「それなら部屋に取りに戻れば良いでしょ!?本当に人を怒らせるようなことばかりして!」
千里と東は顔を合わせ、同時に苦笑いを浮かべた。
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