第16話 合宿(1)
「部長、その荷物には一体何が?」
早朝の下手良駅、千里は眠たい目をこすりながら茜に質問する。スーツケースと手提げ鞄を携えた茜は海外旅行者のようであるが、控えているのは一泊二日の合宿である。ただ、茜は嬉しそうに説明を始めた。
「えっと、こっちは部屋着と明日の着替えでしょ。それから充電器にカードゲームと本と……あとなんだっけ。こっちにはお菓子と化粧道具と白衣と……」
千里は相槌を打ちつつ、途中で聞くことを止める。全てを詠唱し終えた茜は次に文句を漏らし始めた。
「西ったら一体何してるんだろう。主催者なのにまだ来てないなんて」
「まだ集合時間の十五分前ですから。僕らが早すぎたんです」
二人が三十分前に到着したのはただの勝手でしかない。茜が集合時間を間違えて覚えていたためで、西は何も悪くなかった。
「ごめんね。私のせいで」
「遅れて西さんの雷を受けるより全然良いです」
千里は力強く断言して、出かけたあくびをかみ殺す。部活中の茜は几帳面で繊細だが、日常生活ではどこか抜けている。今回は早起きだけで済んだが、千里はそんな茜のドジに度々付き合わされていた。
全員が集合したのは五分前のことだった。西は声をかけて全員の注目を集めた。
「皆さんおはようございます。今日は合宿に参加してくれてありがとう。一泊二日の短い間ではあるけれど、一年生が他の一年生や上級生と仲良くなり、あちらの二人と部の垣根を越えてくれることを期待してます。岸辺先生は午後から合流します。では、これから
挨拶を済ませた西は、茜にも挨拶を求める。ただ、茜は千里を押し出した。
「副部長の北山君が代理で話してくれます。……よろしく」
茜は千里の背中に隠れながらそんなことを言う。千里は突然のことで驚いたが、茜と科学部の関係を思い出して仕事を引き受けた。
「えっと、化学部の北山です。今日はこのようなイベントに参加できて嬉しく思います。西部長からもあった通り交流を深めたいと思っているので、気さくに話しかけてください。よろしくお願いします」
千里が小さく頭を下げるとまばらに拍手が響く。顔を上げると科学部の一年生や西、東が手を叩いていた。しかし、二年生以上は千里に冷たい視線を送っている。彼らは部が分裂した当時を知る学年だった。
「北山君どうもありがとう」
西が千里の隣まで出てくる。それと同時に千里は茜のもとまで下がった。
「毬健での注意事項は到着次第します。各自切符を買って次の列車に分散して乗ってください」
指示が通ると、大勢が切符売り場に向かっていく。千里と茜はすでに購入を済ませていた。
電車に揺れること小一時間、一行は毬健駅に到着した。毬健は下手良には劣るものの県中では大きな街の一つで、多くの観光スポットや名産品を抱えている。千里はこの地を初めて訪れたが、茜は何度かあるらしかった。
「昼食までは自由です。すでに予約している店があるので、時間厳守で集合してください。場所は事前に配ったしおりに書いてあります」
「……ねえ、どこに行こうか」
茜はパンフレットを片手に早速千里に聞いてくる。他の学生は少人数のグループを作って散らばっていく。
「そうですね。このパンフレットのルート通りに歩いてみませんか?」
「うん、いいね。朝市で何か食べられるかもしれない」
方針が決まると千里らも動き始める。楽しそうな茜を横目に、千里は自分の目的を再確認した。
毬健の一番の特産品は海産物であるが、ガラス細工やオルゴールもよく知られている。整備も行き届いており、いわゆる観光地化された街だった。二人が向かう先は、朝市を中心として飲食店やその他の店舗が軒を連ねている。新しい環境に千里の目は釘付けとなった。
「なんかすごい顔してるよ?そんなに驚いた?」
千里が下手良と違う雰囲気に酔っていたとき、茜がおかしそうに声をかけてくる。無意識に田舎臭さを垂れ流していたようだった。
「珍しくて」
「これが珍しいって、一体どんな環境で育ってきたの?」
「いや、どこにでもあるただのド田舎です」
千里が気を抜いたせいで、故郷の話題を誘発してしまう。不都合なことに、茜はその話を広げた。
「田舎の生活ってやっぱり大変?確か実家は農家だったよね。それが大変なのは分かるんだけど、田舎ならではの悩みとかあるのかなって思って」
茜の質問はよく分からないものだった。田舎と都会の暮らしの違いなど、おおよそ想像できるものなのだ。さらに言えば、興味を持つようなことではない。
「挙げたらきりがないです。下手良に比べて何もかも劣ってますから。自然と触れあえることが田舎の利点とか言われますけど、三日で見飽ますしね」
「辛辣だなあ」
千里の酷評を受けて茜は声を漏らして笑う。しかし、千里の言葉はただの事実だった。
「でも、人間関係は強固なんでしょ?都会じゃお隣さんとも全く話さないのが普通だし。コミュニティがしっかりしていそうで良いなと思うけど」
「それは日常的な生活を内輪でしている時だけです。外から人が入ってくると村八分まがいなことは普通に行われますし、内輪であってもちょっとした理由で簡単に孤立させられます」
故郷のコミュニティは非常に強固で単純な繋がりしかなかった。そのため、千里はあっという間に排斥された。極端な例かもしれないが実際にあった出来事である。
「生々しいね」
さすがの茜もこの話には驚いたようだった。田舎の本当の怖さは都会人には理解できない。茜が言っていたように地域のコミュニティが希薄だからである。
「一長一短かもしれないですけど、僕はどうも短所の方が多い気がします。……あ、あれが言っていた朝市じゃないですか?」
道の先に目的地を見つけた千里は強引に話題転換を行う。故郷の話は茜とすることではなかったのだ。
「朝早かったから何か食べたいよね……ってやっぱり高いなあ」
朝市に並んでいる魚の値段は近所のスーパーとほとんど同じである。しかし、海鮮丼や寿司となると簡単に手を出せる値段ではなかった。
「でもおいしそうですね」
千里は充満する匂いと綺麗な料理に心を躍らせる。落ち込んだ気持ちは一瞬で回復した。
「海鮮好きなんだ」
「はい。ひじきは食べられないですけど」
千里はそう言って近くでひじきが売られていないことを確認する。すると茜も勢いよく頷いて同調した。
「私もそうなの。あの味と匂いと食感と見た目が無理だな」
あらゆる面からひじきは否定される。ただ、千里はそれをよく理解できた。
朝市を一周した後、二人は料理を買って食事スペースに座った。海鮮味噌汁は二人ともが買い、ほっけの開きは共有する。食べ始めてしばらくしたあと、茜は口を開いた。
「ところで、北山君って部活ないときの休みはどうしてるの?」
「え……普通の生活していますけど」
味噌汁を飲んでいた千里は少し間を作ってから返答する。
「その普通が知りたいんだけど」
茜の問いは千里の秘密に触れる。千里は逆に質問することで対応した。
「どういうことが聞きたいんですか?趣味の話だったり?」
「いやまあ、そうなんだけど。部活がある日だって午後からは時間あるでしょ?私や西みたいな受験生でもないから、どんな風に時間を使ってるのかなって思って」
千里は茜の好奇心に追い込まれる。偽造した生活を伝える他なかった。
「特に何かをしてるということはないです。本を読んだり自転車でフラフラしたり」
「えー、なんか高校生っぽくないなあ。どこかに出かけたり買い物に行ったりしないの?」
茜が都会を基準とした高校生を語る。しかし、千里にそれは当てはまらない。
「こっちに来て全然友人が出来ていないので、出かけるってほど大それたことはしてないです。買い物もネットを使うことが多いのであまり。故郷では店がある場所に行くだけで一苦労でしたから」
「へー、なんか意外だな。北山君は社交的だと思っていたから」
「社交的……」
一体どこを見られていたのかと疑問に思った千里だったが、化学部の中だけではそのように振る舞っていたかもしれなかった。転入という特殊な環境からたった一人しか在籍していなかった化学部に入り、今では科学部との橋渡しの役割を担っている。茜は作られた千里を評価していたのだ。
「じゃあ、あれなの?付き合ってる人とかはいないの?」
好奇心を隠そうとしない茜に、千里は味噌汁を吹き出しそうになる。千里は首を横に振って嘘をついた。
「ないですよ。あったら自慢げに話してます」
「そっか。……本当に?」
「どうして疑うんですか?見栄を張るような嘘ならまだしも」
「別に疑ってはないよ。でも、ちょっと気になるでしょ?引っ越す前もいなかったの?」
「堂々と言うことではないですけど」
「そっか。まあ、私も高校では全然なんだけどね」
千里の恥ずかしい話が終わると、今度は茜が自分のことを話し始める。千里としてはそうでないと困る訳だったが、高校の間ずっとというのは意外だった。
「仲良くなった人はいたんだけど、諸事情があって上手くいかなかったんだよね」
「それって……」
千里は言いかけて止める。茜の前で化学部で起きた事件について話題に出すべきでなかったのだ。しかし、茜は言葉を続けた。
「そう。化学部の事故が原因でね。その人だけじゃなくて沢山の人が離れていった。……このこと北山君にしっかり話してなかったよね。本当は入部のときに伝えておかないといけなかったんだけど」
茜は声のトーンを落とす。確かに千里がそのことを初めて知ったのは、小夜たちに教えてもらったときである。純粋な動機で化学部に入部していたならば、千里は不信感を募らせていたかもしれなかった。
「確かにその時に話してくれた方が嬉しかったです。でも、僕は詳しい事情を知らないですから、部長が悪いって決めつけたりはしません。初めて顔を合わせたときはお互いよく分かっていなくて、僕の反応を気にした気持ちも納得できます」
千里は決して否定しない。脅迫という全てを取り仕切るルールを度外視しても、茜が後輩思いの良い先輩であることは疑いようがないのだ。しかし、茜は自分を責めた。
「ちょうど先輩が受験で引退して、私が新部長として活動を始めたときだったの。私、それで多分舞い上がっていたんだと思う。それで……」
「部長」
千里は見ていられなくなって一言声をかける。顔を上げた茜の頬には涙が伝っている。茜は恥ずかしそうにそれを拭った。
「本当にごめんね。せっかくの合宿でこんな話……するつもりじゃなかったんだけど」
「いえ、話してくれて嬉しいです」
「今朝も見たでしょ?向こうの部員の中には事故の後に西についていった人も多いの。だから私、前に出るのが怖くて。冷たい視線を受けるのは仕方がないって分かってる。でも、思い出すと後悔ばかりしちゃって」
茜の一言は簡単に取り扱っていいものではなく、流した涙には想像できないほどの意味が含まれている。しかし、今の千里は人間性の欠片を失いつつある。利用できることはとことん活用するというのが今の方針だった。
「何度も言いますけど、僕はその事件をよく知りません。でも、僕は部長を信頼していますよ。化学部を一人で支えていたことを尊敬もしています。今の部長を不当に評価する人のせいで困っていることがあるなら、僕が一番の味方になりますから」
茜はそんな言葉を求めていなかったかもしれない。それでも、千里は純粋な気持ちを作り出して茜を励ました。
「ありがとう。とても嬉しい」
茜は満面の笑みを見せてくる。茜の中で区切りがついたのであれば、それは千里にとっても喜ばしいことだった。
「今日は楽しみましょうよ。食べ終わったらお土産とか見て回りませんか」
千里は味噌汁を飲み干す。冷たくなっていたものの、とけ残った味噌の濃厚な味が舌に広がった。
「そうだね」
茜も残っている魚に手をつける。立ち上がった茜はいつもの茜に戻っていた。
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