第15話 朝霧美波

 数日に渡って続いた涼しさはなくなり、再び気温の高い日が訪れる。故郷に比べればどうということはない。それでも千里の体は悲鳴を上げていた。汗を拭って白衣を脱ぎたいという気持ちにかられるも、それは許されない。


 夏休み中でも千里は部活動に邁進していた。最近の実験目的は振動反応の条件検討である。些細な色の変化など気にも留めたくないが、茜に面と向かって言えるはずがない。熱を閉じ込めている胸元を仰いでみても、状況は変化しなかった。


 「そうだ。少し話があるんだった」


 朝からの実験が終わり、今は正午を回ったあたりである。千里は帰宅の準備をしていた。


 「どうしたんですか?」


 千里の内心が落ち着かないのは日常がひっ迫しているからである。茜だけでなく紗花や美波にも手を伸ばしている中、千里は更なる負担を恐れていた。


 「大したことじゃないんだけど」


 そんな前置きが余計に千里を心配にさせる。茜にはやや自己中心的な節があるのだ。積極的とも言えるが、千里にとって厄介なことに変わりはなかった。


 「実は向こうの科学部が合宿をするらしいの」


 「西さんたちがですか?」


 「そう。それで、私たちもそれに参加しようかなって。もちろん、北山君の都合次第だけど」


 案の定、茜の話は千里を困らせた。親密度の上昇に効果的だということは間違いない。しかし、積み重なる予定が管理可能な範疇を超えていて、簡単に了承してしまった際のリスクに考えが回らなかったのだ。


 「……でも、どうして科学部と一緒なんですか?活動内容がかなり違うと思いますけど」


 「そうなんだけど、科学部とここって予算が同じでしょ?費用の一部がそこから出るらしいんだけど、だとすれば参加しなかったら損じゃない?」


 「確かに」


 千里は事情を聴いて納得する。予算を科学部に多く使われたくないという茜らしい考えに、千里は苦笑するしかなかった。


 「それで、どこに行くんですか?」


 「電車で下手良から小一時間の場所で天体観測。化学と関係ないのが残念だけど」


 「まあ、そうなるでしょうね」


 「日程が来週の火曜と水曜らしいんだけど、どうかな?」


 茜が再度質問する。結局、千里はすぐに首を縦に振った。


 「もちろん大丈夫です。二人の内の一人が欠けるわけにはいかないですから」


 「ありがとう!一人だと参加しにくいから良かった。なんでも、温泉宿に泊まるらしいから期待してていいみたい」


 「楽しみにしておきます」


 千里は軽快に返答するが、そこでよく考えてみる。東に一度話を聞いておく必要があると思ったのだ。化学部の参加はおそらく歓迎されない。本当に話がまとまっているのか疑問だったわけである。


 新しい禍根を残すわけにもいかず、茜と別れた後に千里は一人で科学部に向かうことにした。茜にこの行動を悟られると文句を言われると思い、一緒に校門を出てから科学部の部室に戻る手間をかける。


 「北山さん、どうかしたんですか?」


 科学部の部室の扉を開けると、最初に東が対応してくれる。同時に、他のメンバーからの視線が千里を鋭く貫いた。


 「ちょっと話があって」


 話しづらさを感じた千里は東を連れ出そうとする。東はさほど千里を悪い目で見ていない。しかし、茜の無意識の暴挙に困らされている大抵の科学部員は、千里も同じ穴の狢として警戒していたのだ。


 事情を察してくれた東はすぐに部室から出てくれる。しかし、やり取りに気付いた西も後からついてきた。


 「何の用?」


 睨んでくる西に千里は思わず唾を飲み込む。悪さに来たと勘違いされているのかもしれなかった。


 「……合宿のことで」


 「ああ、その話」


 話題を切り出すと西は何度か頷く。怪しまれないためにも千里は話を続けた。


 「うちの部長はかなり乗り気で、参加するつもりでいます。……この話は伝わっていますか?」


 これが伝わっていなければ、茜がまた勝手に決めてしまったことになる。西はそれを聞いて頭を抱えた。


 「そんなことだろうと思った。事実から言えば、茜から返答はもらっていない」


 西の答えは千里の予想の通りだった。こればかりは茜を擁護できない。東も少し笑った。


 「ただ、参加することになっても問題ないようにはしてた。茜だけなら意地になろうと思っていたけど、君は茜の面倒を見ると言ってその約束を守ってくれた。参加を拒むようなことはしないよ」


 「ありがとうございます」


 西の言葉は意外だった。千里は無意識に説得方法を考え始めていたのだ。


 「私たちに予算を勝手に使おうという企みはない。歓迎するよ」


 西の表情は明るくなる。初めて見るその表情に千里は安堵した。


 「ちゃんとあのじゃじゃ馬の面倒を見てくれよ?問題を起こされたときは君に処理させるからそのつもりで」


 西はそう言い残して部室に戻っていく。千里と東はその後ろ姿を見送った。


 「ありがとう。部長はずっとこのことを気にしてて。化学部に行けばまた言い合いになるから」


 「面倒をかけてるみたいで申し訳ない」


 千里は頭をかいてうなだれる。東は千里の肩に手を置いて気にしないように言った。


 「詳細はまた僕から連絡するよ。野依さんにはこのこと、角を立てずに伝えておいて」


 「分かった。ありがとう」


 「いやいや。それじゃ、僕も戻るよ」


 「ああ。時間を取ってくれてありがとう」


 副部長同士も話を終え、一人になった千里は大きく息を吐く。ただ、時間を確認するなり次の行動に移った。


 千里にゆっくりしている暇はない。今日は夕方から予備校で講義があるのだ。それも、いつものような時間の浪費ではなく、朝霧美波との接触が予定されている。


 美波が受講するハイレベルクラスの化学講座は特進化学とも呼ばれていて、基本的に成績優秀者を対象としている。しかし、平凡な学生も一教科のみ好きな科目を選択できる仕組みがあり、千里はそれを活用して同じ講義を受けられるように図らっていた。


 特進化学の講義はすでに数回が終わっている。しかし、単元ごとの講義であるため途中からの受講でも不利益になることはなく、千里もそんなことは気にしていなかった。一つ問題点を挙げるとするならば、低い学力のために講義から排除されてしまう可能性があるということだった。


 しかし、掴んだチャンスを逃すわけにはいかない。美波との接触の機会はこの講義時間に限られるのだ。家で着替えを済ませた千里は、やる気をみなぎらせて予備校に向かった。


 予備校内はいつも通り人で賑わっている。逃げるように目的の教室に向かった千里は、講義開始の五分前に入室した。


 学生は教室のあちこちに着席していて、千里は全員の顔を確認しながら黒板の前を歩く。五分前に来たのは美波よりも後に入室するためである。アプローチのかけ方は決まっていないが、可能であれば近い席が良かったのだ。そのためには自分で座席を決めなければならない。


 その作戦は上手くいき、千里は教室の中央付近に座る美波を確認した。周囲が雑談している中、参考書を読んで待機している。横を通り過ぎても全く反応を見せず、千里は斜め後ろの席を選んだ。


 美波は制服姿をしていて、同じ格好の生徒は他にも数人いる。同様に、下手良高校の制服を着ている生徒も確認できた。


 千里が私服で来たのはこれを予期したからだった。話しかけてくれるような知人はいないが、制服から同じ学校だと知られて声をかけられる可能性は十分にある。そうして同じ学校の人間に行動を知られることは避けるべきだったのだ。


 講義は時間通りに始まる。美波との接点も化学になりそうで、千里は教科として化学を嫌いになりかけていた。


 講義の間、千里は淡々とした時間を過ごすことになる。ただ、内容があまりにも難しすぎて早々に理解を放棄したため、苦痛を感じることはなかった。


 先程まで雑談を交わしていた集団も、今では真剣に講義を受けている。今日の内容は結晶の配位数とそれに応じた限界半径比の計算方法で、千里には講義の目的を要約することさえ出来ない。化学の割に数式ばかりが展開されている黒板は板書の対象ですらなかった。


 美波は典型的な黒髪ロングのストレートで、第一印象は寡黙だった。友人と一緒の写真では楽しそうな表情をしていたが、予備校内での顔つきは硬い。誰かと話せば柔らかい表情になるのかもしれなかったが、それを拝むことはできそうになかった。


 模式図と一緒に計算方法を示す先生を眺めつつ、千里は美波への声のかけ方を考える。話しかけるには話題が必要だが、それが思い浮かばない。


 今日だけで状況を進展させる必要はないと、決断を遅らせることも考えてみた。しかし、美波の後ろで何度か講義を受けたとしても、千里に有利な状況が訪れるとは限らない。それはただの時間の浪費である。


 講義が折り返しを迎えた頃、千里は今日中に話しかける方針をようやく固めた。ただ、具体的な方法は残りの時間で再び議論されることになる。


 その後の脳内会議の結果、講義で理解できなかった箇所を質問するという戦法を取ることになった。これしか案が思いつかなかったのである。


 講義は先生の合図をもって終了し、学生はその瞬間にそれぞれ動き始める。美波は一人で手際よく荷物を片付けている。しばらくして美波が立ち上がったとき、千里はその後ろ姿に声をかけた。


 「あの、すみません」


 千里はノートを持って美波に近づく。美波は振り向いて動きを止めた。


 「突然すみません。講義のここで言っていたこと、分かりましたか?僕には少ししか分からなくて」


 千里はノートを開いて見せる。そこには、最後に慌てて板書した講義内容が煩雑に記されていた。


 「えっと……」


 美波は何度か躊躇いつつ、最終的には千里のノートを覗き込む。そして眉をひそめた。


 「ちゃんと講義は聞いていましたか?」


 美波の一言目はそんな辛辣な言葉だった。何を咎められているのかは大した問題ではない。たった一つ理解できることは美波に警戒された事実だった。


 「え、ええ一応は。……普通なら分かるのものですか?」


 怖じ気ついて話を切り上げようかと考えたものの、千里はどうにかして会話を維持する。しかし、それは全く無駄な行為だった。


 「それ、あなたの教材ですよね」


 美波はそう言って千里の席にある参考書を指し示す。


 「そうですけど」


 「その教材に同じことが解説付きで書かれています。それを確認しないで聞いてきたのですか?」


 「………」


 まさかの叱責に千里は言葉も出なかった。美波は千里を睨んで怒ったような顔をしている。


 「本当ですか。すみません、確認していませんでした」


 「それでは」


 千里が言われた通りに参考書を確認しようとすると、美波はそれを待つことなく離れていってしまう。ペラペラとページをめくっていくと、確かに板書と同じ内容が書かれた箇所を見つけた。


 「……怖かった」


 千里は自席に崩れ落ちる。気力は一瞬で失われていた。


 千里は美波の気分を害してしまった。それは、美波との関係構築をさらに困難にしてしまったことに他ならない。千里は自らの行動を反省しつつ、謎の男の人選を恨んだ。

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