第13話 美波と予備校

 夏休みに入ってすぐの熱帯夜のある日、千里は床に正座して母親に電話をかけていた。扇風機は動き続けているが、とめどなく汗が首筋を流れる。半分は暑さのせいで、もう半分は緊張のためである。


 要件は予備校通いを願い出ることだった。一学期の成績はまずまずだったが、満足していない振りをして向上心を前面に押し出す。これからの千里に必要不可欠な交渉だった。


 「分かったわ。お母さんからも叔父さんに話をしておくわね。お金は叔父さんに管理してもらって」


 「分かった」


 予想より早く承諾が得られたことに驚きつつ電話を切る。その瞬間、千里は携帯をベッドに放り投げて大きく息を吐いた。


 この交渉は朝霧美波との接触において重要な意味を持つ。一つの成功を踏み台にして、千里は次の段階に入りつつあった。


 紗花との関係は見込み違いの方向に転がった。これは喜ぶべきことであり、同時に男が望んでいた結果でもある。始まりに過ぎないことは言うまでもないが、過去最高の進展と言って差し支えない。今日も母親と連絡を取る直前まで紗花と電話をしていた。


 しかし、千里は現状に全く満足していない。男の裁量が全てを支配している状況下、たった一つの成功にしがみつくことなどできなかったのだ。


 紗花には合わせる顔がない。それでも千里は栞奈を守らなければならない。天秤は片方に傾き続けていた。


 予備校の話は軽快に進み、体験入学への参加はそれから数日後に決まった。


 謎の男が手掛かりとして教えていたのは、下手良駅前の高層ビルに入る大手予備校だった。難関大学への合格者もそれなりにいるらしく、豊富なクラスとレベルに合った授業で評判が良い。しかし、千里にとってそんなことはどうでもよかった。


 夏期講習の時期ということもあって、建物の中は多くの学生で賑わっている。千里はスタンダードクラスを体験することになっている。本当の目的は美波の探索だったが、そんな時間を与えられることなく講義室に缶詰にされた。


 授業は地獄以外の何物でもない。周囲はやる気に満ちていて、そんな雰囲気が千里を追い立てる。適当に時間を潰そうとしても、手を動かしていないと講師が訝しげな視線を向けてくる。慌ててペンを動かす千里だったが、それは解答に全く関係のない落書きだった。


 授業は一回が一時間半と長く、終わった頃には目的も忘れて呆然としてしまう。重要であるとはいえ、あまりにも苦痛すぎる。疲れは尋常ではなかった。


 千里が最初に考え付いた美波との接触方法は、予備校の入口で待ち伏せ声をかけるものだった。一番簡単な方法で千里の負担も小さい。しかし、そんな千里は不審者に見えないはずで現実的ではなかった。


 また、千里は美波の人物像を完全に把握できていない。SNSからアカウントを発見し、友人と映る写真を一枚だけ見つけ出すことはできた。しかし、複数人で写っている中のどれが美波なのか特定には至らなかったのだ。


 そんな事情もあって、千里は同じ予備校生として美波と接触する必要があった。代償はあまりにも大きいが、複雑な事情を考えればやむを得ない。


 授業が終わると、集められた体験入学者は事務員と話をする。授業を受けてどのような感想を持ったのか。ここで本格的に勉強していけそうなのか。予備校にとって必要な情報ではあるが、関心のない千里はその間もせわしなく周囲を窺った。その結果、落ち着きのない人間として評価されることになった。


 結局、その日は大した成果を得ることなく解散を迎えた。千里は一日の反省をすることなく無駄骨を折ったと結論付ける。しかし、窓の外はまだ明るい。千里は少しだけ情報収集をしてから帰宅することにした。


 ロビーの掲示板は多くの情報で溢れている。その中で最も視線を集める張り紙は、予備校内で独自に行われた模試の上位者一覧だった。素人目でも分かるほど優秀な成績を修めた学生の名前が並んでいて、千里は得点を見て素直に感心する。


 ただ、そうして名前を眺めていたとき、千里はつい声を出してしまった。必然なのかはたまた偶然なのか、求めていた名前が記載されていたのだ。掲示板に足を運んだことは気まぐれである。心のどこかで期待はしていたが、驚いたことに間違いはなかった。


 同姓同名であることはほとんどない。学年も一致していて、ありふれた名前でもないのだ。美波は間違いなく予備校に在籍している。そのことを自分で確認した千里は、どうすれば会えるのかということを次に考え始めた。


 「あの、ちょっといいですか?」


 千里は近くにいた温厚そうな男子学生に声をかける。男子学生は千里と目を合わせてイヤホンを外した。


 「彼らってここの予備校生なんですか?……体験入学に来たばかりでよく分からなくて」


 「いや、別校の人も入ってるよ」


 「そうなんですか。やっぱり大体の人は一番上のクラスにいるものですか?」


 立て続けに質問する。すると、男子学生は少し首を傾げた。


 「そうでもないかな。本当に得意な科目は自習だけって人もいるから。……でも、何か授業を受けているのならその可能性は高いね」


 「そうですか。ありがとうございます」


 礼を述べると男子学生は会釈して去っていく。千里はもう一度掲示板に視線を戻して、聞いたことを頭の中で反復した。


 朝霧美波がこの予備校にいることは間違いない。直接見たわけではないが、集めた情報からその結論の妥当性は確保できる。ただ同時に、美波が優等生であることも見出されてしまった。千里が偽りの感情を持って接近するには都合が良くない。


 それに、美波がこの模試の結果通りの頭脳を持っているとすれば、千里がそんな美波と同じ土俵に立つこと自体が不可能なことのように思われた。千里に同じクラスに入れるほどの学力はない。今回の体験授業でそのことがよく分かったのだ。


 以前から分かっていた通り、美波が最も攻略しにくい。悲観すべき現実を受け入れた千里は、とうとう疲労感に負けて帰宅した。


 次の日、嫌がる体を強引に動かして千里は再び予備校に向かった。紗花と付き合ってから慣れない生活が続いている。化学部もいつも通りに続いており、今度は勉強である。どれも必要な活動で手を抜くことはできない。ただ、予備校での美波の探索は特別に苦痛を伴う。どんなに文句を溢しても状況は好転しなかった。


 この日もしっかりと体験授業を受ける。美波と知り合いたいだけの千里は、出だしから体力の大半を失った。


 授業後、千里はふらふらと自習室に向かった。三方をしきりで囲われた空間に机があり、そのほとんどに学生が入って勉強をしている。千里は階段近くの席を確保して適当に教科書を広げた。


 当然ながら勉強をするわけではない。美波がこの自習室を使う可能性を踏まえて、可能な限り待ち伏せてみようと考えたのである。美波の人物像ははっきりしていない。それでも、昨日の内に写真の顔を全て覚えていて、視界に入った際にはすぐに気付けるように準備していた。


 すでに七月も下旬を迎えていて、いつ謎の男から電話があってもおかしくない。ここ数日の千里は携帯電話を手放すことなく生活していて、今も上着のポケットの中で握りしめている。千里の精神状態はこれまでにないほど乱れていた。


 人の往来はそれほど多くなく、小一時間が経って無意味かもしれないと考え始めた。これ以外に美波を探し出す方法は思いつかないが、最善でないことには気付いている。自ら立てた作戦ではあったが、不満は募るばかりだった。


 諦めて帰宅を決心したのは、下手良高校の制服を着た見覚えのある学生を見つけたときだった。その学生と面識はないが、千里の行為は誰にも知られない方がいい。どんな情報網で千里の行動が紗花や茜の耳に伝わるか分からない中、この場にいることを隠す努力をしなければならなかったのだ。


 千里は荷物をまとめるとそそくさと退室する。千里の知人がこの予備校にいるという話は聞いていない。それでも用心を怠らず、むやみに首を振らないようにして動いた。


 足早に階段を下りていると、踊り場で上ってきた人とすれ違う。見ている先はそれぞれ違い、千里は端に寄って接触を避ける。念には念を入れて、その人とも目が合わないように心掛けた。すれ違ったのは一瞬のことである。それでも、千里は気が付いた。


 何の変哲もないと言えば失礼だが、千里の記憶を刺激する顔が視界に飛び込んだ。覚えた写真の顔と酷似していて、千里は思わずその場で立ち止まってしまう。


 ゆっくり振り返ると、彼女はすでにフロアを進んでいる。千里は一旦階段を降り、すぐに来た道を引き返した。


 今日、急いで話しかける必要はない。千里が必要としている情報は今のところ一つで、どの授業に美波が出ているのかということだけである。それさえ分かれば千里は具体的な行動ができるのだ。


 美波と思われる人物が入ったブースの横をさりげなく通り過ぎる。背中を通路に向けて座っているため顔は確認できない。ただ、机上の参考書の種類とノートの氏名を確認して、彼女が美波であることを確認した。


 ノートには朝霧美波という名前が綺麗に記され、参考書はハイレベルクラスの化学講座で使われているものだった。それを見て思わず握りこぶしを作った千里はすぐに自然を取り繕った。


 用事を済ませるとすぐにその場から立ち去る。そして、時間割から次に美波が出てきそうな日時を確認した。まだ体験入学という立ち位置ではあるが、苦しい時間を過ごした努力が報われた。道筋をつけられたことで千里は安堵した。

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