第12話 告白

 茜と科学館に行った日の夜、千里は自室で考え事をしていたときに紗花から連絡を受け取った。内容は先日提案されていた下手良案内の件だった。


 日程調整が求められていて、千里は明日か次の週末を提案する。選定の条件は休日であることだけだったが、返信してから夏季休業が迫っていることを思い出した。


 紗花の返信は素早く、千里は一呼吸置いてからメッセージを開く。その結果、翌日の日曜日にその機会が設けられることになった。


 そうして日曜日の朝、千里は再び下手良駅にやってきていた。二日連続で雑踏に揉まれ、到着早々千里は疲れを感じる。時間は午前十時の十分前。昨日とは違って屋内待機のために暑さに襲われることはなく、曇り空も幾分か気温の上昇を抑えていた。


 紗花と偶然会った五月の教訓から、千里は新しい服に袖を通している。昨日は田舎ファッションだったため、初めてのお披露目である。


 紗花とのこのような機会はこれが最初で最後になるかもしれない。茜とは部活で顔を合わせられるため、これからもあらゆる接点が期待できる。しかし、紗花との関係は曖昧で、最悪の場合、夏季休業中に全く会えない可能性も考えられるのだ。


 そんな未来は避けなければならず、そのためにも全力を出さなければならない。服装の変化は強い意気込みの表れだった。


 紗花の到着は約束の時間間際だった。遅刻はしていないものの酷く慌てている。


 「遅れてごめん!」


 「遅れてないよ」


 千里は携帯で時間を確認してそれを紗花に見せる。紗花は大きく息を吐いて笑顔になった。


 「良かった!遅刻しちゃったって思いながら走ってきたから」


 紗花は小さな鞄からハンドタオルを取り出して汗を拭く。呼吸が落ち着くのを待ってから千里は質問した。


 「寝坊でもしたの?」


 「ううん。どの服にしようか迷っちゃって」


 紗花は原因を説明して、見せびらかすように背をぐっと伸ばす。そしてほんの僅か首を傾げた。


 ファッションに知識がない千里でも今日の紗花の服装は分かる。ひときわよく目立っている紗花は、白と黒のストライプ柄のワンピースに身を包んでいた。それも裾が短い。


 「いいね。涼しそう」


 千里は見て思ったことを述べる。誉め言葉ではなかったが、紗花はそれを聞いて白い歯を見せた。


 「ちょっと短すぎたかな。久しぶりに着たから恥ずかしいかも」


 口ではそう言いながら、裾をつまんで左右に揺れる。恥ずかしがっている人の行動ではない。そもそも、千里は露出度の高さを伝えたわけではなかった。


 「僕には何とも言えないけど、やっぱり時間がかかっちゃうものなんだね」


 「そうだよ。本当は昨日の夜に決めていたんだけど、朝着てみたらしっくりこなくて。それで色々引っ張り出して考えてたら遅れそうになって」


 「色々大変だね」


 何と返せばいいのか分からない。何か褒めるべきかと考えるも、露骨になってはいけないと思うと気が引けてしまった。紗花はわずかに唇を尖らせた後、スカートを翻して歩き始めた。


 「それじゃ、そろそろ行こっか?」


 「行くってどこに?」


 千里は昨日の連絡の後に少しだけ下手良について調べた。しかし、下手良が大都市であることは間違いないものの、案内されるような場所はないように思えた。電車で移動すれば知らない土地はたくさんある。ただ、そこまで行ってしまうと案内ではなくなるのだ。


 以前の千里は住んでいた地域のことしかよく知らなかった。隣町など把握したところで生活の向上に役立たない。よっぽど半年に一度訪れる神戸や大阪の土地鑑を磨く方が有意義だったのだ。


 「言われてみればそうだね。洋服に一生懸命になってて、そっちのことはあんまり考えてなかったな」


 「そうなの?」


 予想外な返答に千里は困惑する。下手良で生まれ育った紗花だからこそ、穴場を知っているのだと思っていたのだ。しかし、紗花はそんなことを毛頭考えていないようである。


 「どこ行きたい?ちゃんと朝ご飯は食べた?」


 「……今日は下手良の案内じゃなかったの?」


 千里は念を押すように確認する。何を考えて紗花が急いでいたのか気になった。


 「あれ、そうだった?そうだったっけ」


 本当に自分の言葉を忘れてしまったのか、紗花は千里の追及に苦笑いを浮かべる。それには千里も笑ってしまった。


 「どうしよう……ついデートみたいに思ってて」


 「え?」


 紗花のさりげない言葉に千里は唖然とする。目が合ってようやく恥じらいの表情を浮かべた紗花だったが、すぐに千里の顔を覗き込んできた。


 「どうしてそんな顔するの?嫌だった?」


 「嫌というか……どうしてそんな。そんなフラグあったっけ?」


 「いいじゃん、そういうのはさ」


 「……どういうこと?」


 紗花はいたって冷静にしているが、千里は人生で一番当惑している。紗花と恋愛関係を持つには、千里から行動しなければならないと思っていた。しかし、今日の紗花はやけに積極的だったのだ。


 「そんなにおかしい?」


 紗花は逆に千里がおかしいと言わんばかりの顔をする。都会ではこれが普通なのかと一瞬考えた千里だったが、すぐにあり得ないと自分を律した。


 「……びっくりしてる。そんなつもりだったなんて夢にも思っていなくて」


 千里は嘘を重ねて恋愛関係を構築しようとしている。それを踏まえれば好都合で、紗花自身がその悪路に突き進んでいることになる。その一面だけを見るなら千里は喜ぶべきだった。


 しかし、千里は自らの思考に急ブレーキをかけざるを得なかった。理由は単純明快で、あまりにも踊らされているような気がしたからである。脳裏に浮かぶ人影は千里を嵌めようとしていた。


 「……どこかで大林さんが見ているとかはない?」


 「えっ?どうして小夜が?」


 ほくそ笑んでいる小夜が隠れているではないかと、千里は周囲に視線を這わせる。しかし、多くの人が往来している中からそんな姿は見つけられそうになかった。


 「いや、上村さんはそういうことに奥手だと思ってたから」


 「そういうことって?」


 あまりに今日の紗花はおかしい。再び千里に言い寄って、魅惑的な雰囲気を押し付けてくる。何を言わせようとしているのかは明白だった。


 「……からかって楽しい?」


 千里は動揺していないことをアピールするため、はっきり言い返してやろうかと考える。しかし、紗花の顔を見ると怖気づいて出来なかった。


 「そんなつもりないんだけど。小夜も関係ないし。だって、あの時に科学館で会ったのは偶然でしょ?」


 「偶然……」


 そんな言葉さえ疑ってしまう。確かに、科学館に行った理由はそれぞれ異なっていて、お互いそれを知りようもない。しかし、今の紗花を見ていると否定する材料を探してしまう。千里の現状を重ねれば、言葉通りには受け取れなかったのだ。


 「そう偶然」


 紗花は詰め寄ることをやめ、少し距離をとって笑顔を見せる。大きく息を吐いた後は、笑みを崩して恥じらうような表情に変化した。


 「どうだった?」


 「どう?」


 「私の演技、どうだった?緊張した?」


 紗花は途端に雰囲気を変えて、再度千里を困らせようとしてくる。ただ、この紗花は千里の良く知る紗花だった。


 「もとに戻ったの?」


 「うん、ごめんね」


 眉をひそめる千里に紗花は謝罪する。千里はそれを見て安心するが、それでも何かが解決したわけではない。紗花のこの行動自体がらしくなかったのだ。


 「びっくりしたよ。いきなりどうしたの?」


 千里は噴き出た汗を拭う。今になって、格好悪い振る舞いをしていたのではないかと心配になった。


 「だって北山君がいつもと違う感じで待ってたから」


 紗花は理由を説明する。それに千里が首を傾げると紗花は声を漏らして笑った。


 「私がおかしいことをしたみたいに言ってるけど、私から見たら今日の北山君も不思議な感じだったから。何かに意識を持っていかれてるような感じだったよ」


 「それは上村さんが……」


 「私が来たときからそうだったの」


 紗花の指摘は続く。ただ、千里にそんなつもりはなく、最後まで納得はできなかった。


 「それで、行きたいところはない?」


 素に戻った紗花が問いかけてくる。千里は心を落ち着かせてから答えた。


 「考えてみたんだけど全然なくて。だから上村さんはどこを予定してたのかなと思って」


 「うーん」


 千里の質問に対し、紗花は顎に手を当てて考え始める。本当に何も考えていなかったようで千里は純粋に驚いた。小夜ばかり変人扱いしていたが、紗花も案外普通ではないのかもしれなかった。


 「じゃあ、散歩でもする?せっかくのいい天気だし」


 「えー……、え?」


 千里は外を窺ってから紗花と向き合い、真面目に言い返そうとした口をつぐむ。試されているのではと思ったのだ。


 「……まあ、人は光合成しないしね」


 「ん?」


 ただ、それは千里の思い過ごしだった。紗花は考え込んでしまい、言わなければ良かったと千里は後悔する。


 「いや、曇ってるよ」


 千里が羞恥心に耐えながら指摘すると、紗花はようやく理解してくれた。


 「晴れてると暑いし日焼けするでしょ?曇りの方が動きやすいよ?」


 「ああ……まあ、そうだね」


 千里はなるほどと思う。千里が思い浮かべる良い天気とは晴れのみだったが、紗花のような考え方もあったのだ。


 「……で、さっきのはどういうこと?」


 「何でもないよ」


 千里はぶっきらぼうに答える。紗花は小さく笑った。


 「やっぱり関西人なんだ。凄いね」


 馬鹿にされている。そう分かっていても、自分の傷を広げないために千里は耐えるしかなかった。


 「散歩って高校生がすること?」


 千里は追及から逃れるために話題を変える。女子高生に散歩は似合わない。


 「そうそう。大学の方に行ってみようよ。……知らない?」


 「いや、あることは知ってるけど大学生じゃないし」


 下手良駅のすぐ近くには広大な敷地を有する大学がある。千里はその存在だけ認識していた。


 「ほとんど市民公園みたいなところだから大丈夫だよ」


 「ええ、どんな大学なの?まさか遊具があるわけじゃないよね」


 千里は故郷の公園を思い出す。そこは小学生と高齢者ばかりがよく集まっていて、学び舎とはかけ離れていた。


 「さすがに遊具はないと思うけど、とにかく広いからランニングしてる人だっているし」


 「皇居ランナーみたいな?」


 「そうそう。どうせ行くところないし、いいでしょ?」


 「まあ、いいけど」


 断る理由はない。説明を聞いて千里はむしろ行ってみたいと思っていた。


 「じゃ、案内するね」


 行き先が決まると紗花は案内役を引き受ける。もともとそこに向かう予定だったのか、紗花の進む方向は変わらなかった。


 あいにくの曇り空であるが、雨粒が落ちてくる様子はない。歩き始めて数分で大学は見えてきた。


 「ね、大きいでしょ?」


 「確かに。……何ヘクタールぐらいだろう?」


 「へく……なに?」


 「いや、どれくらいの広さかなと思って」


 敷地を囲っている塀は視認できないほど延びている。一キロはありそうだった。


 「歩けば分かるよ。さ、入ろ」


 二人は正門から構内に入る。その先は本当に大きな公園のようだった。千里が想像する大学の雰囲気とは違っている。


 「ここは大学の中なんだけど、近所の人たちの憩いの場になってるの。幼稚園児のお散歩コースにもなってるくらいに。すごいよね」


 「へえー」


 千里は感嘆の声しか出ない。ビル一棟に一つの大学が収まる時代、大都市の中心に広大な土地を持っていることが驚きだったのだ。だだっ広い畑とはわけが違う。


 「こっちに芝生の広場があるの。川みたいなのもあるし」


 「外国人が多いですね」


 「観光スポットでもあるからね。もちろん留学生とかもいるんだろうけど」


 千里はすれ違う一人一人を観察する。千里の全く知らない環境だった。


 「でも……高校生が散歩で来るような場所なの?見たところ同じような人はいないけど」


 構内に入って数分、やはり場違いなのではないかと千里は思い始める。憩いの場として機能していることは間違いない。しかし、千里らのような高校生は見当たらなかったのだ。


 「まあね、高校生はこんなところ来ないでしょ。ゆっくり時間を過ごしたい人が来る場所だから、若者は駅前とか南の方に行くんじゃない?」


 千里の疑問に紗花は淡々と返答する。千里は再び驚かされてしまった。


 「……本当に散歩するつもりだったんだね」


 「ふふ、ごめんね。ちゃんと考えてきたらよかったね」


 「いや、それは全然いいんだけど」


 紗花に非があるわけではない。しかし、千里のもやもやとした気分は晴れなかった。


 「でも、おすすめしたい場所があって。そこを教えてあげる」


 「なんだか楽しそうだね」


 紗花が我慢しているような気がした千里はついつい聞いてしまう。しかし、それは杞憂だった。


 「楽しいよ。北山君は楽しくない?」


 紗花は即答する。対する千里は何とか言葉を返した。


 「もちろん」


 「良かった。それならいいじゃん」


 やはり今日の紗花はいつもと違う。最初は下手良を案内するという目的があったが、今では忘れ去られてしまっているのだ。千里がそれを疑問に思っていた時、紗花がふと質問してきた。


 「そういえば、化学部はどう?ちゃんと活動してる?」


 「文化部としてはそれなりに」


 「楽しい?」


 紗花は食い気味に聞いてくる。千里は少し警戒した。


 「人によると思う。部長がとにかく化学好きで熱意がすごいから」


 「まあそうだよね。一人で残ったくらいなんだし」


 事件のことで茜は学内で知られている。千里にとってあまり良いことではない。


 「北山君は面白いって思ってるの?」


 「まあ、じゃないと続かないよね」


 話の雲行きが怪しくなり、千里は話題の転換を模索する。しかし、上手く何かを思いつくことはできない。


 「やっぱり憧れるな。今まで敬遠していたけどそんな話を聞いたら余計に」


 「よく考えたほうがいいよ。特に化学部はいろいろあるからね」


 「……そうだよね」


 「それに大林さんが困るんじゃない?」


 「だからどうして小夜が出てくるの?」


 紗花は困ったように問いかけてくる。少し頬を膨らませる理想的な不満顔だった。


 「いや、いつも一緒にいるから」


 「そんないつも一緒じゃないよ。ふらっと寄ってきて気付くといなくなってる。学校の中だけだよ」


 「外ではあんまり会わないの?」


 「そういうわけじゃないけど……でも私と違って小夜は女子高生って感じだから。いきなり日曜日に呼ばれて、ずっと洋服屋を回らされる時は大変なんだよ?」


 千里は想像してみて確かに大変そうだと思う。紗花が振り回されている様子が目に浮かんだのだ。


 しかし、そうだとすれば紗花がこうして千里と一緒にいる理由が分からなかった。内向的な人間だと評価されて、一緒にいても疲れないからというのであれば納得はできる。それでも別の意味で不満は残った。


 「そういえば科学館で会ったことを話したらすごい食いついてきてたよ。何か話しておくようなことはないかって」


 「僕の前ではそんなこと言ってなかったけど?」


 千里は小夜と話した時を思い出す。紗花はくすくすと笑う。


 「小夜、実は北山君が好きなんじゃないかな?」


 「え、ええ?」


 話が突拍子もない方向に転がる。千里は本格的に返答に困ったが、紗花も本気で言っているわけではないようだった。


 「まあ、小夜がそんなことを考えてたらすぐに分かるんだけどね」


 「いつもは何考えてるか分からないって言ってるのに?」


 「いつもの小夜はね。でも、恋愛は隠し下手で有名な小夜だから。あんなよく分からない性格だけど、案外恋愛観は純粋で可愛いの」


 「本人の前では到底言えないけど、大林さんが遊び人だと言われても僕は驚かないかもしれない」


 「私も最初はそうだと思ってたよ?でも、実はピュアなんだよ。まだ男の人と付き合ったことないらしいし」


 「へえー」


 その話は意外だった。他人の恋愛に首を突っ込むつもりはないが、その事実は千里の想像を裏切っていたのだ。


 「私もそういった経験ないから、その点では小夜と同じかな。ここくらいは小夜に勝ちたいって思ってるんだけど」


 笑みを浮かべる紗花は千里を意識しているように見える。千里は緊張を表に出してしまいそうになったが、その話題はここで終わった。


 「こっちこっち。並木が綺麗でしょ?」


 「確かに。散歩にはいいコースだね」


 曇っているため、緑と青のコントラストは見られない。しかし、綺麗な風景ではあった。


 「おすすめの場所はもう少し先だから」


 紗花は堂々と歩道を進んでいるが、千里はまだこの状況に慣れない。通り過ぎる人の視線が恥ずかしかった。


 紗花が足を止めたのは、並木道から外れた未舗装の一本道だった。目の前には牧草地が広がっている。


 「他ではなかなかこんな風景見られないと思うよ」


 指し示される景色に千里は目を細める。フェンス越しの広大な牧草地では牛が闊歩していて、その先には駅周辺のビル群が広がっている。紗花の言う通り、普通の都会では見られない不思議な景色だった。


 「どうして牛が?」


 「そういう学部があるんだと思う」


 「……なるほど、すごいね」


 感想を述べる千里だったが、その声に感情は乗らなかった。慣れない状況が続いたためか、目の前の風景を評価する余裕がなかったのだ。後から過ちに気付くも、フォローの言葉さえなかなか出てこない。


 「この組み合わせは中々見られないよね。穴場だったりするの?」


 千里は間を空けて言葉を足す。効果の有無はこの一瞬では判断できない。


 「穴場ってほどじゃ……。私が好きってだけだから」


 明らかなほど紗花の声に張りがなくなる。伏し目がちになっていて、横目でわかるほど肩を落としていた。千里はそんな紗花に混乱し、何度か口を開閉して震える声を絞り出した。


 「大林さんも、気に入っていたり?」


 これは時間を稼ぐためだけの言葉でしかなかった。ただこの瞬間、紗花から笑顔が消えた。


 「小夜?」


 「………」


 紗花はワンピースの裾を握り、視線を落として聞いてくる。千里は純粋な恐怖を感じた。


 「そんなに小夜が気になるの?」


 「そういうわけじゃ……」


 汗がひっきりなしに流れてくる。視線を彷徨わせていると紗花と目を合わせてしまい、逸らしたくても吸い込まれるように瞳を見つめてしまう。先に視線を逸らしたのは紗花だった。


 「あんまりだったみたいだね。ごめんね。別のところ行こっか?」


 いつもの調子を装う紗花は来た道を戻ろうとする。だが、この結果は受け入れられない。千里はその場で何度か足踏みして力強くフェンスに手をかけた。その音で紗花は足を止める。


 「……実は、前に住んでいたところにも牛とか馬が結構いたんだ」


 「え?」


 「それで一回……確か中学の時だったかな。地元をアピールするためのポスター作りをしたことがあって。田舎だから過疎になるんだと思って、馬鹿みたいにビルの写真の前に地元の名産とか特産品を並べた絵を描いたんだ」


 千里は思い出して少し笑う。紗花は何の話が始まったのかときょとんとしている。


 「その中には牛も入っててさ。それがすごくここに似てたんだよね」


 「……うん」


 千里の話は余計に紗花を困らせている。それでも話し続けた。


 「ちょっとびっくりしたよ。まさかこの風景を見られるなんて思ってなかったから。やっぱり、こういう風景は人の目に留まるものなのかな」


 千里は適当に話を完結させる。大げさに話したことに間違いないが、この話は事実である。紗花は困った様子を隠さなかったが、しばらくして言葉を漏らした。


 「さあどうだろう。私の周りでこの場所を知ってるのは弟だけ。他の人に教えたのは北山君が初めてかな」


 「そうなんだ。なんだか嬉しいな」


 初めてと言われると悪い気はしない。千里の感情は落ち着いてきた。


 「どうして小夜のことをよく話題に出すの?」


 紗花に先程のような険悪な雰囲気はない。千里は観念して正直に理由を話した。


 「変な意味はないんだ。ただ、上村さんと話すときはいつも緊張しちゃって。話題が尽きたり何を話すべきか分からなくなると、共通の知り合いを話題に出す癖がついたのかな」


 千里は苦笑いで誤魔化す。こんなことを言っては、千里の目論みと真反対の結果が導かれる恐れがある。それでも、正直に言った方が気は楽になった。


 「学校でもそれなりに話すのに、まだ緊張するんだ」


 「上村さんが思ってる以上にずっと緊張してたよ」


 「どうして?」


 もう紗花を大人しいとは評価できない。紗花の挑発的な表情に千里は見惚れた。


 「……まだ言えないかな」


 一時の雰囲気で失敗したくない千里はよく考える。ただ、膨らむ妄想は止まりそうになく、現実味を帯びた期待感が膨らんだ。


 「あいまいな返事。でも、それじゃすぐに分かっちゃうよ」


 紗花は千里とフェンスの間に割り込み、強引に顔を近づけてくる。その表情は不満気で、千里はどんな顔をすればいいのか分からなくなる。もう何も考えられなかった。


 「困るんじゃないかな?」


 千里は一度逃げる。事情を抱えている身で余裕などないが、紗花を傷つけたくないという感情が先行したのだ。ただ、それを聞いて紗花は眉間にしわを寄せた。


 「そんなことない。気になるな」


 その一言は千里に全てを確信させた。紗花は告白するように仕向けていて、その他の可能性が見つからなかったのだ。絶好の機会を前に緊張で壊れそうになる中、千里は勇気を振り絞った。


 「……僕は上村さんが気になってる」


 「え?」


 紗花は真顔になって一歩後退する。その一瞬で千里の頭は真っ白になったが、紗花の態度には理由があった。


 「気になってるって?……好きとは別?」


 「それは……分からない」


 これだから田舎の草食男はダメだと自己嫌悪に走る。ここまで自分に勇気がないとは思っていなかったのだ。紗花は首を傾げている。


 「理由がまだ見つかってないというか……断言して、後にどこが好きなのか聞かれるときっと困るから」


 言い訳だけはすらすらと出てくる。さすがの紗花も困ったようだった。


 「そんなワンクッション置かれるとは思わなかった」


 紗花の呆け顔に千里は失敗を覚悟する。初めての告白であり、こればかりはどうしようもなのかもしれなかった。


 また、脅迫によって動いている千里は紗花に惹かれたわけではない。好きという言葉は真っ黒な嘘なのだ。栞奈のためだと割り切ることもできたが、何も知らない紗花をさらに傷つけることは躊躇われた。


 ただ、そんな言葉で紗花は満足してくれなかった。


 「あまり良くない告白だったかな?」


 「今のは告白じゃないよ」


 「そっか……」


 千里は小刻みに頷いて、もう一度フェンス越しに牛の姿を眺める。数頭の牛は千里らの事情に気付くことなく雑草を食んでいる。非常によく似ていた。


 これからどうなるのだろうかと千里は考える。どんな事情があったとしても、千里の情けない態度は消えない。紗花に愛想をつかれるかもしれなかった。


 「私が付き合ってほしいって言ったら、北山君は困るのかな」


 ただ、千里の心配とは裏腹に声量を落とした紗花の声が響いた。囁き声のようなか弱い声に体が痺れる。


 「困りは……しないけど」


 「けど?」


 紗花の上目遣いが刺さる。千里は泳ぎそうになる目を見開いた。


 「付き合うって告白した後なんじゃ……」


 「嫌ならもちろん諦める。けど、お試しで付き合うなんてよくあることだよ」


 「そうなんだ」


 千里の全く知らない世界の話が続く。緊張で手汗が酷くなっていたが、挙動不審になるわけにもいかず拭うこともできない。


 「上村さんの気持ちを知りたい」


 「好きだよ」


 短いが、聞いたことのない言葉。はっきりと伝えられて、隠していた緊張が溢れ出てしまう。たじろぐ千里は息を止めて目を丸くした。


 「びっくりした?それとも緊張?」


 「どっちも。……成り行きを聞いても?」


 ひどい混乱の中、紗花は笑って千里を見ている。情けないと考えている暇さえない。


 「私はてっきり北山君から好きになってくれたんだと思ってたよ。ずっと視線に気付いてたけど、下心なんて感じなかった。話をするうちに性格を知って、良い人だなって思ったことが始まりかな」


 「そっか……」


 そんなつもりなかったと言っても意味はない。下心がなかったのは、千里の好きな人が紗花ではないからである。千里の視線は関係の進展を探るためだけの目的だったが、紗花はそんな見せかけの雰囲気に騙されたのだという。


 「私のは告白だから……どうする?時間が必要なら待つよ」


 最後は千里に決断が求められる。紗花のまっすぐな感情に、千里は張りぼての誠意で応えることにした。もはや分岐点はなかった。


 「嬉しいよ。付き合ってください」


 「喜んで!ありがとう!」


 紗花は千里の両手を包んで満面の笑みで喜ぶ。千里の心はその笑顔を前に痛んだ。


 「良かった!遅刻からいろいろ計画してたの」


 計画が上手く進んだらしく、紗花は自らの作戦を暴露する。千里は水を差さないように笑顔で振るまった。


 「もう少し歩こう?」


 「そうだね」


 紗花の優しい表情に千里は頷く。それからは、他愛ない会話で時間を共有した。


 しかし、千里の心中は穏やかではなかった。千里は弁明の余地なく紗花を弄んでいる。大切な人を守るためだったとしても、紗花を道具として扱っている事実に千里は苦しんだ。

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