第11話 化学実験ショー

 「おまたせー!待った?」


 千里が駅前で時間を潰していると、改札からそんな声が聞こえてくる。日陰に入っていても汗が噴き出す炎天下、千里は茜の到着を歓迎した。


 「いや、そんなには」


 汗の量から嘘だと気付かれそうだったが、決まり文句だと思って口にする。千里は時間に余裕を持たせすぎていて、五分前に来るべきだったと後悔した。


 「暑いね、まだ七月なのに」


 冷房のかかった電車から降りてまだ間もない茜だが、首筋は汗で湿り始めている。ワンピースのようで少し違う白い服装が涼しそうだった。


 「夏は快適って聞いていたんですけど」


 「ここ数年は暑い日が多くなってるよ。それなのにクーラーがない場所とかあるからねー」


 この暑さで空調がないなど拷問に匹敵する。しかし、今日の目的地にその心配はない。


 「早速行きましょう。干物になりそうです」


 「ふふ、そうだね」


 動きたくない気持ちで一杯ではあるが、今日の重要性はよく理解できている。気を引き締めて科学館へ進み始めた。


 化学部初の校外活動の行き先は、下手良市立青少年科学館で行われる化学実験ショーである。デートと呼ぶことは出来ないが、千里はこの日のために可能な限りの準備をしていた。


 ただ、残念なことに茜の興味は化学にしか向けられていない。この意識の違いを埋められるかどうかが、関係を発展させる上で重要だった。


 土曜日ということもあって先週同様に午前中から混み合っている。大半は家族連れで、中学生の姿もちらほらと見られる。案の定カップルの姿は少なかった。


 「午後の部を予約しているから少し時間あるんだけど、どこか見て回る?」


 入館料を支払った二人は、涼しい空気に当たりながらこれからの計画を立てる。千里は茜の質問に即答した。


 「そうですね。見て回りましょう」


 「そうしよっか」


 千里は茜の同意を得て、正規の順路に足を運ぼうとする。しかし、茜はそんな千里を呼び止めた。


 「ねえ、こっちに行ってみてもいい?」


 茜は受付で手渡されたパンフレットを見ている。覗き込んでみると、二階の天体関連の展示場を指差していた。千里は意外な選択に戸惑う。


 「ショーまでの時間で全部は見られないだろうから、ここを見たいんだけど」


 「い、いいですよ」


 千里が承諾すると茜は嬉しそうに階段へ向かう。楽しそうな背中に千里は大きく溜息をついた。


 千里はブースのどこかで博識な姿を見せようと計画していた。ただ、難しい理論や原理は説明できない。そのため、あらかじめ目星をつけた簡単な展示物に茜を誘導するつもりだった。


 天体観測が好きな千里ではあるが、実のところ星の名前を覚えるのが精一杯で、マニアックなことは何も知らない。おまけに、茜は宇宙に興味がないと言っていた。そんなこともあって、千里はこのブースを除外していたのだ。


 「みてみて、惑星の歴史だって」


 何が面白いのか、茜は説明文を読んで千里に声をかける。岩石型惑星だの、ガス惑星だの千里に説明できることはない。ただ、茜は相槌を打って感心していた。


 「地球って何回も小さな惑星がぶつかって大きくなったんだって」


 「へえ」


 会話を続けたいと思っても良い返答が見つからない。それがどうしたと言いたい気分をこらえる。


 「確かに水星と火星は小さいもんね」


 「……どういうことですか?」


 千里はそれぞれの惑星の模型を眺める。確かに、水星と火星はその間に位置している金星と地球に比べて小さい。ただ、説明文との関係性が分からなかった。


 「もともと水星と火星の間にはたくさんの小さな惑星があったんだって。それが衝突を繰り返して大きくなったって書いてる」


 「そうですね」


 「真ん中にある方が当たる回数が多くなりそう。だから大きくなったのかなって」


 「ああ」


 ようやく茜が言わんとしていたことを理解する。推測のようではあったが、妙に説得力があるように感じた。


 「今度は宇宙の大きさだって」


 しばらく進んだところで、茜は再び何かに興味を示す。


 「おおー、大きいですねー」


 千里は聞き上手になろうと努める。しかし、気付くと声に抑揚がなくなっていた。


 「絶対宇宙人はいると思う。これを見てると間違いないって言い切れるよ」


 「どうしてですか?」


 「それは勿論、大きいからだよ」


 先程とは違い、今度の根拠は精細さを欠いていた。小学生が言いそうな理由に千里は笑いかけてしまう。


 「でも、絶対いる。幽霊よりも信じられる」


 「僕には何とも」


 宇宙人ならまだしも、幽霊などなおさら興味のない話である。しかし、茜はそう考えた根拠を話し始めた。


 「だって、幽霊は見たことないけど宇宙人はあるから」


 「え!?あるんですか?」


 茜の突然のカミングアウトにさすがの千里も反応してしまう。


 「うん。ほら」


 茜は少し先のパネルを指し示す。そこには日本人の歴代宇宙飛行士の顔写真が並んでいた。


 「宇宙に行ったんだから宇宙人だった人だよ」


 「……屁理屈ですか?」


 千里は想像を裏切る回答についそんなことを言ってしまう。茜はそれを聞いて笑った。


 「やっぱりそう思う?あ、ちょっと軽蔑した?」


 茜は指摘して不満顔を見せる。千里が慌てて表情を作ろうとすると、その前に茜の方が頬を吊り上げた。


 「でも、いるよ」


 目を輝かせる茜は同じことを言う。千里は何度か頷いて同調してみることにした。


 「まあ確かに、僕も幽霊は見たことないですよ。でも、僕らは宇宙人になり得ますからね」


 言ってからやはりおかしいと感じる。あくまでも可能性があるというだけの話で、唯一の存在ではないことを証明できる論理ではないのだ。しかし、茜はそんな千里のあいまいな言葉に共感してくれた。


 「そうそう!もし宇宙人がいたとしたら、彼らにとって私たちは宇宙人だからね」


 「そうですよねー」


 千里は上辺だけの理解を示す。ただ、それ以上茜の不思議な考え方についていくことは止めた。


 時間になって、二人は化学実験ショーが行われる場所に向かった。受付では配付資料と白衣、安全眼鏡が配られていて、受け取ると実験室に案内される。参加者は大多数が小中学生とその保護者で、千里は周囲の視線を気にしてしまう。茜は周りの子供たちと一緒に目を輝かせていた。


 配布資料の表紙には二つのビーカーの写真が描かれていて、その上に大きな文字で色が変わると書かれている。ビーカーの中はクエスチョンマークとなっていて、何色に変わるのかは本番までのお楽しみのようだった。


 二ページ目以降には、実験の目的と色の変化の詳細が記載されている。根本は呈色反応のようで、反応の進行とともに変化する溶液の色を観察できるようだった。化学反応とは分子の変化に由来するものであるが、分子は目に見えないため呈色を利用して確認するわけである。


 炎色反応は誰もが知っている色を用いた実験の代表で、花火の多種多様な色と関連付けることで親近感を湧かせる。リトマス試験紙の変色もよく知られた化学変化の一つである。


 しかし、今回の実験内容は茜に興味があると言わせるだけあって少し特殊だった。名前は振動反応といい、混ぜているだけで色が交互に変化し続けるものだという。


 「楽しみだね」


 茜は早くも白衣を着て準備を終わらせている。見慣れた姿ではあるがいつもと少し違っていた。


 「やる気に満ちてますね」


 「まあね。面白かったら今後の実験レパートリーに入れたいと思って」


 「その偵察ってわけですか」


 千里は茜を横目に納得する。イベントの期間中は毎日同じ実験が行われているため、指導員の操作や説明は洗練される。茜はそれを見に来たようだった。


 「ちゃんと実験ノートも持ってきたから、細かいことも見逃さないようにね」


 茜は表紙が分厚い本格的な実験ノートを好んで利用している。どうやら今日のために実験ノートを新調したようだった。


 それを見た千里は文句こそ言わなかったが、悪目立ちすることは避けられそうにないと感じた。二人はただでさえ場違いな雰囲気の中にいる。そんな状況で手順や操作をメモしながら実験しては、周囲に威圧感を与えるだけでなく指導する側もやりにくいはずだったのだ。


 参加者全員が集まると先生の自己紹介が始まる。その後、化学変化と色の簡単な関係が解説があって実験の説明に入った。試薬名が出てくることはない。薬品には番号が振られていて、秤量された粉体や液体がそれぞれ薬包紙とバイアル瓶に入れられている。


 配布された資料には小さく薬品名が記されていて、簡単な反応機構も紹介されている。茜は真剣な面持ちでそれを眺めていて、千里はその横で先生の話を聞いた。


 反応のスケールは 500 ミリリットルビーカーとやや大きく、すでに実験台の上に用意されている。大きなスケールの方がより実験を楽しめるという説明だった。


 その後、子供が焦れてしまう前に実験操作が始まった。二つのテーブルに一人の担当がいて、その人の監視下で統一された実験操作をこなしていく。ただ、所詮は粉末を水に溶かして溶液同士を混ぜ合わせるだけである。


 子供たちは操作の度に変化を期待している。ただ、全てを混ぜ終えない限り反応が始まらないことを知っている千里は、操作を素早く済ませようとした。しかし、一つ一つの手順を確認して時間をかける茜に合わせていると、周囲の子供と手際の良さは変わらなかった。


 「さて、全部の薬品を混ぜ終わったかな?」


 先生は確認を取りつつ子供たちに目配せをする。今回の実験の最高潮はまだ来ていない。


 「それじゃ、担当の人が最後の液体を中に入れるよ。変化をよく見ててね」


 そう言って、先生は全ての指導員に指示を送る。千里らは反応液を持って隣の実験台に合流し、同時に最後の反応液を入れてもらうことになった。


 「見逃さないようにね」


 先生の注意が飛び、千里らは透明な溶液を凝視する。そして、全ての実験台で同時に最後の操作が行われた。


 「入れます」


 担当員は素早く二つのビーカーに液体を滴下する。その液も透明で、それがどのように溶液の中に広がっているのかは確認できない。しかし、撹拌されている溶液の隅々に素早く拡散したことは簡単に想像できた。


 そうして注視すること数秒、周囲の実験台から歓声が聞こえてきた。一秒ほど遅れて、千里らのビーカーにも変化が訪れる。溶液が唐突に深い青色に変化したのである。


 その数秒後、反応溶液は再び透明に戻る。そのまた数秒後に再び溶液が青色を呈したとき、茜が話しかけてきた。


 「すごいね。生きてるみたい」


 「周期的に色が変わる反応なんて初めて見ました」


 千里の目はまだビーカーに奪われている。今までに見たことのある化学反応は、一度変色が起きるとそれっきり自発的には色が変化しないものばかりだったのだ。


 「この青色はヨウ素デンプン反応だよ」


 「……ああ、うん」


 唐突な原理の説明に千里は冷や汗をかく。知っていることを前提に問われているようで、変に返答できなかったのだ。


 「小学校の頃、葉っぱにヨウ素を垂らして青紫色になるか確認する実験したことあるでしょ?」


 「あー、一部分だけアルミホイル巻いて光合成させて……みたいな」


 「それそれ。それと同じ色なんだよ」


 もう十回以上は変色が起こっている。その度にヨウ素デンプン反応が起こっているのだという。


 「ヨウ素が還元されるとヨウ素デンプン反応は起こらないから透明になって、それがまた酸化されてヨウ素に戻ると青色になる。これをひたすら繰り返しているから色が交互に変わってるわけ」


 「いつまで続くんですか?」


 「ヨウ素を還元する試薬が使い果たされるまで。それがなくなったら変化がなくなっておしまい」


 「なるほど」


 千里はもう一度眺める。気のせいか青色状態の時間が長くなっている。そんな変化から最後には青色で終わるものと予想したが、最終的には透明になってそれ以上の変化が見られなくなった。変化の回数は十数回である。


 「はい皆さん、どうでしたか?色が交互に変わる様子をちゃんと見られましたか?」


 全ての実験台で反応が完結したところで、先生が全体に対して声をかける。ただ、その場の全員が反応の余韻に浸っていた。


 「面白いでしょ?色がどうして交互に変わるのか皆さん疑問に思いませんか?」


 「思う」


 隣の子供が小さく呟く。千里は子供の好奇心に感心した。


 「詳しいことは難しいので簡単な説明をしましょう」


 先生はそれから簡潔な説明を始める。それを聞いて化学実験ショーは終了となった。周囲は感想を言い合いながら実験室から退散していく。茜も名残惜しそうに白衣と眼鏡を返却した。


 「どうでしたか?」


 「すごくおもしろかった。初めて振動反応を見たから。いろいろ予想してなかったこともあったし」


 「本当ですか?」


 「これからの活動で内容が尽きることはなさそうだね。変えてみたい条件はたくさんあるし、使う薬品もそこまで高価じゃない」


 茜はすでに実験計画を脳内で立てている。茜の化学愛はやはり凄まじかった。


 「でも、きっと薬品が足りませんよね。手に入れやすい試薬かもしれないですけど、全部揃ってるなんてことはないんじゃないですか?」


 「そうね。規模によって必要な量は変わるけど、とにかく岸部先生に相談してみないと」


 茜はそう言って足りない試薬の名前を呪文のように呟く。ここで千里は忘れられている大切なことを伝えた。


 「となると、西さんにちゃんと話さないといけないですね」


 「……そうだったね」


 茜は急に声を弱々しくする。千里は大きく頷いた。


 「そうですよ。この前に約束しましたから」


 「そっか……でもなあ」


 よほど西と対峙したくないのか、茜は困った素振りを見せている。ここぞとばかりに千里はアピールを始めた。


 「任せてください。僕が話をつけますから」


 「でも西は頑固者だよ?試薬名を言ったって理解してくれないだろうな」


 正面ロビーまで戻った二人はその場で立ち止まる。これからのことはまだ決まっていない。


 「じゃあ、実費で用意してから実験を西さんに見せて、有意義な部活動に必要だって説明しましょう」


 千里は思いついたことを提案してみる。もともとは西も化学部に所属していた。茜ほどではないにしても、ある程度の知見を持った上で判断してくれるはずだった。


 「私はうまくいく気がしないなぁ。だって西だよ?」


 西を悪く言う茜であるが、千里は西がそんなに自己中心的だとは思っていない。茜の方が怪しいくらいである。


 「任せてください。僕の新しい一面を見せますから」


 千里は自分の貧相な胸板を叩く。茜はそれを見て納得した。


 「分かった。期待してるよ、副部長」


 茜は初めて千里のことを副部長と呼ぶ。急な役職に千里は首を傾げた。


 「だってそうでしょ?二人しかいないんだから」


 「まあ、そうですよね」


 言われてみればその通りである。ついでにその仕事も請け負うことにした。


 「頼りになるね。ありがとう」


 最後、茜は満面の笑みを見せる。千里はその瞬間、頼りにされたのではなくただ面倒ごとを押し付けられただけなのではないかと感じた。


 「これからどうする?まだ見てないところ回る?」


 「是非そうしましょう」


 茜は今日のビッグイベントを終えて満足げであるが、千里はまだ自分の目的を達成できていない。難しい話を再び聞かなければならないと思いながら、今度は力学的な原理を利用した展示ブースに足を運んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る