第10話 下手良市立青少年科学館
下手良市立青少年科学館は下手良駅から電車で十数分の副都心にある。立地は駅から徒歩数分という良さで周辺も栄えている。
一週間後の土曜日に茜と科学館に行くことが決まった。些細な失敗さえ許されない千里には入念な準備と綿密な計画が必要で、今日はそのための下見だった。
多くの人で賑わっているものの、誰も千里を気にしたりはしない。曇天の中、科学館に到着した千里も周りを気にすることなく入館料を支払った。
残念ながら、化学実験ショーは次の水曜日から始まるため予習することはできない。今日の目的は常設物や雰囲気を味わうことだった。
建物の内装は近未来を匂わせていて、千里はそれだけで少し興奮した。小学生の頃に遠足で科学館に行ったことを思い出しながら、その時より大人の目線で展示物を見て回る。ただ、科学的な意味合いは相変わらず理解できない。
展示物は物理的な現象を取り扱ったものが多く、光や音に始まって地球の自転を利用したものまである。その代わり、茜が好みそうな化学現象を取り扱った展示は少ない。
千里は小一時間かけて科学館の中を一周した。そうして得られた感想は、高校生が二人で来るような場所ではないということだった。来館者の大多数は家族連れである。
茜と一緒に回って千里が望む雰囲気になるかは怪しい。茜が化学実験ショーだけを目的としていることは間違いなく、千里の努力に気付かない恐れがあったのだ。
休憩のためにベンチに腰を下ろし、千里は不安になる。化学しか頭にない茜の意識に入り込む方法が分からない。小さくため息は勝手に漏れていた。
いつの間にか雨が降り始めている。科学館に居る意味を失った千里は、駅前を散策してみようかと考えた。茜と寄ることになるかもしれず、できることは何でもしたい気分だったのだ。
決断した千里は重たい腰をゆっくりと上げる。そのとき、一人の女性と目が合った。
「やっぱり北山君だ」
少し先に立っていたのは私服姿の紗花で、千里だと分かると笑顔で近づいてくる。対する千里は困惑のあまり固まってしまった。
「こんなところでどうしたの?一人?」
「うん、一人。上村さんは?」
「私は……」
紗花は少し気まずそうにしてから売店がある方に手を振る。目を凝らしてみると、そこには同年代の男子が立っていた。都会の男子学生といった雰囲気が漂っていて、千里は悪い想像をしてしまう。
紗花の呼びかけに応じて男は近づいてくる。そんな状況を目の当たりにして千里は、心の中で話が違うと謎の男に文句をぶつけた。仮に指定した三人に相手がいた場合、奪ってでも関係を構築するようにと言われている。しかし、茜に苦戦している千里が都会の男子学生に敵うはずがなかったのだ。
「……北山君?」
名前を呼ばれて現実に引き戻された千里は、ぎこちない笑みで反応する。すでに紗花は隣に立つ男と手を繋いでいた。
しかし、それはあまりにも小さかった。
「……あれ、その子は?」
「私の弟。連れて行ってほしいって言われたから一緒に来たの」
紗花の手を握っているのは小学校低学年ほどの男の子だった。売店を見てみると、いつの間にか先程の男はいなくなっている。紗花の同伴者が小学生だと思っていなかった千里は、勝手にこの男の子を視界から消していたようだった。
「そ、そうなんだ」
千里は複雑な感情のままもう一度混乱しかける。安堵感はあったが、同時に失礼なことを考えたと申し訳なく感じたのだ。もともと、茜との関係を発展させるために千里はここにいる。
「お姉ちゃん……この人誰?」
ふくふくとした紗花の弟が千里を指差す。千里は可愛らしい姿にほっこりするも、紗花はその指を慌てて握った。
「こら、人に指を差しちゃダメでしょ!?お姉ちゃんのお友達だよ」
紗花はその指を下げさせて説教する。年の差がある姉弟は千里にとって新鮮で、とても仲が良いように見えた。
「もしかして、カレシ?」
冷やかそうとしているわけではなさそうだが、無表情で千里を見つめる紗花の弟は余計に紗花を困らせた。すぐに怖くない説教が始まる。
「ごめんね。きっと覚えたばかりなんだと思う」
「いいよ。ちょっとやんちゃな方が可愛いでしょ」
千里はそう言って紗花の弟に笑顔を作ってみる。すると、すぐに笑い返してくれた。
「北山君はどうしたの?」
「市内の散策も兼ねて、面白そうな場所だったから来てみた」
本当の理由を隠して説明する。紗花は千里の嘘に気付かない。
「そうなんだ。……あ、そろそろ時間。もうすぐプラネタリウムが始まるみたい」
紗花が腕時計を確認すると、紗花の弟は目を輝かせる。二人の目的はこれのようだった。
「プラネタリウムってあれだよね。早く並んだ方が良いよ」
すでに多くの子供がプラネタリウムの入場口で列を作っている。それなりに座席数はあるようだったが、休日の来館者を全て収容できそうにはなかった。
「本当だ。……北山君は見ないの?」
「興味はあるけど、後ろに並んだ子供が見られなくなるのは申し訳ないからね。気にしないで見てきてよ」
千里はそんなことを言ってから、一緒に行った方が有益だったのではないかと気付く。しかし、後の祭りだった。
「そうね……ヨウ君、一人で見てこられる?たくさんの人だからお姉ちゃんも外で待ってようかな」
ただ、紗花は突然そんなことを言い始め、それを聞いた紗花の弟は表情を曇らせる。しかし、千里を数秒間凝視すると胸を張った。
「大丈夫。一人で見られる」
「そう?ごめんね。ちゃんと座って静かに見るんだよ」
「分かってる」
紗花の弟は元気よく頷いて小走りで列に向かう。そして上映室の中に吸い込まれていった。
「良かったの?」
千里は紗花の弟を見送ってから問いかける。一人は心寂しいはずで、自分が余計なことを言ったのではと心配した。
「いいよ。ヨウ君、あ、洋介っていうんだけど、そろそろ姉離れしないといけない年だし」
「そうかな」
まだ良いのではないかと千里は率直に思う。頭には千晶が浮かんでいて、それに比べれば何らおかしくなかったのだ。
「それに、他の子の席を取っちゃうって思ったらね」
紗花は苦笑いを浮かべる。やはり千里の一言を気にしたようだった。
「保護者はその内に入らないと思うけど」
「大丈夫。ヨウ君甘えん坊だけど、どこか大人な一面もあるから」
「……そうみたいだったね」
千里はその通りだと思って理解を示す。もし千里の期待を読み取って一人で見る決断をしたのだとすれば、それは恐怖に値する。末恐ろしいという言葉だけでは言い表せない。
「北山君はこれからどうするの?」
「うーん、一通り館内を見終わったところなんだけど。上村さんは?」
「私はヨウ君を待たないといけないから。……良かったら、上映が終わるまで私の暇つぶしに付き合ってくれないかな?」
紗花はそう言って館内カフェを示す。千里に断る理由はなかった。
雨は本降りとなり、科学館への滞在を強く勧めているようである。それぞれコーヒーを買うと、空いていた二人がけの座席に腰を下ろした。
「……下手良には慣れた?」
「それなりに。まだ肌寒い日はあるけど、四月に比べればなんてことないし」
千里は窓越しに外の様子を眺める。傘を差した人が寒そうに歩いていた。
「そんなこと言ってると冬が大変だよ?」
「そうかも。でも代わりに梅雨はないんだよね。今日はたまたま雨が降ってるけど、連続して降る予報じゃなかったし」
「確かに、一週間も雨が続くなんてないかも。梅雨ってどんな感じなの?」
紗花は梅雨に興味を示す。千里は故郷での生活を思い出して説明した。
「とにかく天気が良くない日が続く。ずっと雨が降ってるわけじゃないけど、全然晴れない。だから気持ちが下向きになる」
千里は主観的な印象を述べる。実家が農家だったこともあって、梅雨との関係は一言で表せるものではなかったのだ。
「そっか。たった一日でも憂鬱なのに大変だね」
「それに、ここと比べて気温と湿度が高いから最悪だよ」
この時期に真夏日になることは少なくても、湿度が高いだけで不快指数は跳ね上がる。それに比べれば下手良は恵まれていた。
「関東でも関西でもいいから行ってみたいな。飛行機に乗って移動してみたい」
「乗ったことないの?」
「うん。そもそも県内から出たことがなくって。小学校と中学校の修学旅行、どっちも県内だったから」
「え、そんなことあるの?」
千里は紗花の話に驚く。日本で最も大きい都道府県ではあるが、それでも県内で完結してしまうことが理解できなかったのだ。
「おかしいよね。だから脱出してみたい」
「高校の修学旅行はどこなんだろう」
「三年生の最初だよね。予定では東京だったかな」
「じゃあそれで出て行けるね」
「待ちきれないな」
よほど楽しみなのか紗花はバタバタと足を振る。しかし、千里は正反対の気分だった。仮に望む未来が訪れたとしても、その頃には紗花と他愛もない会話はできなくなっているはずなのだ。
「そうだ。もし良かったらなんだけど……」
千里が冷めないうちにコーヒーを飲み干していると、紗花が声に抑揚をつけて話しかけてくる。千里が紗花を一瞥すると、持っているカップを手の中で回していた。視線は外のどこか一点に絞られている。
「北山君、まだ下手良に慣れていないみたいだから……今度一緒にどこか回ってみない?」
紗花はやけに恥ずかしそうに話をする。千里はどうしてそんな提案するのかと疑問に感じた。
「それは嬉しいけど」
千里はひとまず利益を優先して話を進める。しかし、何か裏があるのではと考えてしまった。仮に複雑な事情なしに紗花と接していても、同じ疑念を感じていたはずなのだ。
千里の煮え切らない反応を見て、紗花は慌てて言葉を付け加える。誤解を解こうとしているように見えた。
「変な意味はなくて。北山君が下手良を見て回るなら案内役くらい欲しいかなと思って。……迷惑だったかな」
「いやいやとんでもない。是非お願いしたいよ。……でもいいの?」
男は都合良く勘違いをする達人である。千里は自分の立場を思い出して、何とか冷静になった。
「私は誘ってる本人だから」
紗花はクスクスと笑う。そんな顔を見せられると、千里は不覚にも緊張してしまった。
多少の勇気があればもっと積極的になっていたはずである。しかし、千里にそんな勇気などなく、現実的に問題を考察する必要があった。千里は紗花を傷つけるように強制されているのだ。
「じゃあ決まりだね」
千里が頷いたことで紗花は頬を吊り上げる。ようやく飲み干した千里のコーヒーは冷めきっていた。
「小夜が知ればきっと驚くだろうな」
「大林さん?」
小夜は体調が優れず現在も療養中である。
「そう。私って人と積極的に関わることが少なくて。だからそのことで小夜によく馬鹿にされてるの」
「……そうは見えなかったよ。少なくとも僕よりは社交的だ」
ただのクラスメイトにあんな提案をするなど、千里には到底できそうにない。紗花は千里の評価を聞いて胸を張った。
「ほんと、小夜に見てもらいたかったな」
「別に何も言わないんじゃないかな」
紗花は大きなことを成し遂げたかのように振る舞う。しかし、千里には大きく見えているが、実際は街の案内を申し出ただけである。
「最近の小夜、北山君のことすごく気にしてるみたいだから」
「そうなの?」
「うん。色々聞いてくる。私と初めて会ったときも根掘り葉掘り質問してきたくらいだから北山君のことが気になってるのかも」
紗花は小夜の人間性に触れる。詮索は小夜の一面なのかもしれなかった。
ただ同時に、疑い深くなれば小夜を怪しく見ることもできた。知らないところで千里を監視している者が必ずどこかにいる。謎の男の候補として考えられなくもなかったのだ。
しかし、いちいち訝しがっていては、あらゆる人を片っ端から見ていかなければならなくなる。それは意味のないことだった。
「僕の場合、大林さんのおかげで孤独にならずに済んだから感謝しないといけないな」
よく分からない性格をしているが、そんな小夜の行動がきっかけで千里は小さな基盤を作ることができた。そのため悪い目で見ることは躊躇われた。
しばらくして、紗花の弟は感動しきった表情で上映室から出てきた。千里も初めて宇宙という概念を知ったときは同じ感情を持ったことを覚えている。ただ、今は恐怖感が勝る。
上村姉弟もこれをもって科学館を満喫したようで、千里と同じ電車に乗って下手良駅に戻った。紗花が提案してくれた話は後日詳細を決めることになり、千里はこれも一つの進展としてカウントすることにした。
しかし、なおも謎の男を満足させられる状況ではない。男は劇的な変化を所望しているのだ。小さな積み重ねがそれに匹敵するかは不透明で、ドラマチックな出来事が起きる可能性は低い。
とはいえ、今はまだ七月上旬で、テストを乗り越えると夏休みも控えている。諦めるにはまだ早かった。
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