第9話 約束

 七月初めのある日、千里にいつもと違う昼休みが訪れた。宏太が部活の遠征で数日間学校を休んでいる最中、小夜が体調を崩して欠席したのだ。その結果、紗花と二人きりの時間が舞い込んできた。


 お喋りではない紗花は、たいてい小夜や宏太を介して千里と話す。また、約束を意識しすぎた千里の空転も続いていた。今日はそんな現状を打開する良い機会だった。


 千里から声をかけて、いつものように紗花と昼食を取る。小夜の欠席を知ってから話題を準備していた千里は、二人になると惜しみなくそれを披露した。


 最初の話題は小夜の欠席についてだった。二人きりで突拍子もない話題は出せない。しかし、一日で大きな成果が得られないことは当然だとしても、それを一ヶ月にまで拡張すると謎の男に見切られてしまう。千里は初めての駆け引きを通して、紗花が気を遣うことのない環境を心掛けた。


 小夜の容態を聞いた後、紗花や自分の体調に話を広げていく。無理のない会話を心掛けつつ、躊躇っていた故郷の話題も織り交ぜていく。結果を伴うかは分からなかったが、千里が人生で最も力を入れた時間だった。


 ただ、昼休みが終わると変わらない日常に戻ってしまった。紗花と二人きりで会話できるという高揚感から、進展しなかったという絶望感に変わる。それに付随して恐怖も押し寄せてきた。


 何度も黒板の日付を見て安心しようとする。そんな試みで残りの時間は消えていき、気がつくと午後の授業は終わっていた。千里は紗花と簡単な別れの挨拶をしてから一人で部室に向かった。


 男の高笑いがどこからか聞こえてくるようだった。


 部室前までやって来た千里は、気持ちを切り替えて茜との関係に注力することにした。紗花と上手くいかないのであれば、茜との関係で結果を出すしかない。美波とはいまだに接触すらできそうになく、関係を構築していく順番は決まりつつあった。


 千里は大きく息を吐いて扉に手をかける。ただ、中から口論が聞こえて千里は動きを止めた。前回は何事かと困惑していた千里だったが、今日は事情を容易に把握できる。


 化学部の部員である千里はもはや無関係の立場にいない。茜の肩を持てば評価が上がるかもしれないという本音を隠して入室した。


 案の定、中では茜と科学部部長の西乃々香にしののかが向かい合っていた。西の隣には知らない男子生徒が立っている。科学部の部員のようだった。


 「……あれ、新しい部員の人?」


 千里に気がついた西が言い合いを中断する。西と面と向かって話をしたことはない。波風を立てないように自己紹介だけ済ませた。


 「よくこんな部に入ろうと思ったね」


 「あなたたちはこんな部から派生したんだけど忘れたの?」


 西の言葉に茜が噛みつく。よほど仲が悪いのだろう。千里は苦笑いを浮かべながら茜の隣に移動した。


 「そうだっけ?何にしても、こっちの部は危ないし変人って思われる。居づらくなったらいつでもこっちに来てね」


 「ちょっと、私の部員を引き抜こうとしないで」


 「貴重な部員だもんね。来年には廃部だけど」


 西の言葉は鋭く辛辣だった。茜は睨み返しているが意味をなしていない。


 「……何の話をしていたんですか?」


 「え?いつものように予算の話。茜がまた勝手に使おうとしてるって小耳に挟んだから問いただしに来たの」


 「だからそんなことしてないって言ってるでしょ?何か証拠でもあるの?」


 「岸辺先生がそう言ってたの。何なら呼んでこようか?」


 「………」


 千里は二人の顔を何度か確認し、西の追及が正しいのだろうという結論を得る。勝手なのかは別にして、茜は相談なしに部費を使おうとしたらしい。千里は仕方がないと口を開いた。


 「部長がこう言っているんで何かの間違いじゃないですか?」


 「そうよ!」


 「ここは僕から」


 千里は茜の肩を持つと、便乗した茜が強気に出ようとする。ただ、それに気付いた千里は言葉を続けてそれを阻止した。茜の考えに賛同するわけではない。今は西に引き下がってもらう必要があったのだ。


 「今まで一人で部を回していて、色々な負担から齟齬が生まれたのかもしれません。でも、今は自分がこの部にいるんで、科学部さんに何も言わないまま勝手に部費を使うなんてことはもうないと思います」


 「あら、本当に?」


 「ええ。そもそも、こっそり部費を使おうとなんてしてないですもんね、部長?」


 「……もちろん」


 茜は言葉を詰まらせながら肯定する。西はそんな様子を見て勝ち誇った顔をした。


 「ほら見なさい、この態度。今までに何度も見てきたけど、決まって勝手に部費を使ってたよね?」


 「ちょっと、あたかも人を泥棒みたいに言って……」


 「でも事実じゃない?」


 再び険悪なムードが漂い始める。劣勢だということが分かっていないのか、茜も引くつもりはないらしい。すると、今まで西の隣で黙り込んでいた男子生徒が一歩前に出た。


 「部長、今日はもう良いんじゃないですか?次からは事前に知らせてくれるらしいですし」


 争いを好みそうにない見た目通り、男子生徒は西を説得する。西は茜に睨みを利かせた後、溜息をついてその提案を飲んだ。


 「分かったわ。……北山君だっけ?ちゃんと茜のことを言いつけて約束は守ってね」


 「もちろんです」


 「じゃ、戻ろっか」


 表面上は納得してくれたのか、西は部屋から出ていく。


 「僕、東忍あずましのぶっていいます。科学部の副部長です。またこんなことがあるかもしれないですけど、その時はよろしくお願いします」


 「こちらこそよろしくお願いします」


 「それでは」


 自己紹介をして東は去っていく。千里はそれを見送ってから茜の方に向く。茜は難しい顔をしていた。


 「こんなことを言ったら失礼かもしれないですけど、可愛らしい副部長さんでしたね」


 千里は作り笑いを浮かべる。面倒な議論を終えて、何を話せばいいのか分からなかったのだ。ただ、茜は明確な不満を口にした。


 「なんか私が問題を起こしたみたいになってなかった?」


 「そうですか?報告の伝達が噛み合わなかっただけだと思いますけど」


 千里は本当にそう思っているかように振る舞う。もちろん、それは本心ではない。


 「それなら良いんだけど」


 茜は千里の言葉を鵜呑みにする。信頼されているのか単に鈍感なだけなのかは分からない。千里はいつものように準備を始めた。


 「……それで、何を買おうとしていたんですか?それは本当のことなんですよね?」


 千里は一段落ついたこともあり問いかけてみる。すると、茜は表情を硬くした。


 「ちょっと試薬が足りなくて。勘違いがないように言っておきたいんだけど、部費に固執しているんじゃなくて、欲しい試薬を買うためには免状が必要だから。それで、それを持っているのが岸部先生だけで、先生を頼ったらいつも部費を活用するように言われて」


 茜は決して科学部を出し抜いて部費を使おうとしているわけではない事情を伝える。その話を聞いた千里は、確かに仕方がないと思った。一般人では入手不可能な試薬は山のようにある。薬品として優れている化学的に活性の高い試薬は、基本的に危険物や毒劇物であることが多いのだ。


 「でも、それは西さんもよく分かっているんじゃないですか?もともとこっちに所属していたんですから、バットやグローブのように薬品を買えないことは知っていると思いますけど」


 千里は純粋に疑問に思ったことを口にする。正当な理由で茜を追及していた西が、この点で不当な要求をするとは思えない。もしかすると、千里の知らない茜の横暴があるのかもしれなかった。


 千里がそんなことを考えていると、再び茜は眉間にしわを寄せて不満顔を作る。そして、同じ事をもう一度伝えた。


 「本当に悪いことをしようとしていたわけじゃないから」


 「そんなこと言ってません」


 「本当に?」


 今回ばかりは千里の言葉を疑う。千里は二回ほど頷いて、あくまでも茜の味方であることを伝えた。


 「まあ、西は私のことが嫌いだろうから、ちょっとしたことで衝突してくるのかも。色々あったから」


 茜はやれやれとそんな予想をする。ただ、そればかりは千里に関与できない問題だった。


 この日の実験は、先週から続く食塩の定量実験だった。身の回りの食塩が添加されていそうなものを片っ端から用意し、滴定操作で含有量を調べる。測定対象が簡単かつ安価に入手できるため、必要最低限の試薬量で実験ができる利点があった。今日は某調味料会社の減塩醤油が測定対象だった。


 「……聞こうと思っていたことがあるんだけど」


 千里がビュレットの洗浄をしていたとき、茜が唐突に声をかけてくる。茜も醤油の希釈操作の手を止めていない。


 「何ですか?」


 何度か共洗いをしてからビュレットを指定の場所に置く。茜は顔を上げることなく千里に質問した。


 「部活は楽しい?」


 唐突な質問はその内容も予想外だった。


 「いきなりどうしたんですか?」


 「いや、気になっちゃって。北山君は言われたことをちゃんとやってくれて、本当に良い後輩だと思う。だけど、北山君の方はどう思っているのかなと思って」


 このときになって茜は千里と視線を合わせてくる。どうやら深刻な質問ではないようだった。


 「楽しいですよ」


 授業で稀に行われる実験は操作が簡便化されていて、多数の生徒と合同で行うために実験結果が重要視されることはない。いつもと違う授業を楽しむことと、共同実験者に迷惑をかけないことが大切で、実験の意味や結果など副次的なものに過ぎないのだ。


 しかし、茜は結果や手順の正確さを重要視している。千里の返答もそれに則ったものだった。


 「気を遣ってそうで単純に受け取れないなあ。私は部長だから、部員がどういう気持ちで活動しているのか知る必要があるんだけど」


 「そう言われたら、余計に本当のことを言いにくくなります」


 茜は基本的に人格者である。一度部員を失った過去があるからか、よく千里を気にかけてくれている。それを面倒に思う人もいるかもしれないが、個人的な事情がある千里にとってはありがたかった。


 また、茜は自身をよく過小評価する。今もそんなことを念頭に置いているようだった。


 「なんか不満があったら何でも言ってね」


 「僕は溜め込むタイプの人間じゃないので、そのときは直球で話します。もちろん、立場は弁えますけど」


 「そっか。それじゃお願いね」


 「分かりました」


 質問の意図を最後まで理解できない千里だったが、これで話は終わりだと思って操作に集中する。しかし、茜はそんな千里に再び声をかけた。普段の茜は実験に集中するとなかなか話さない。今日はいつもと違っていた。


 「もし都合が合えばで良いんだけど……今度、市内の科学館に一緒に行ってくれないかな?少し気になる化学実験ショーがあるの」


 「それは……勿論良いですよ」


 あまりにも唐突な誘いで、身構えていなかった千里は驚きの表情を隠せない。茜は不安げに視線を泳がせている。


 「部の校外活動ですよね。たいてい暇なので、部長の予定が合うときに行きましょう」


 千里が追加で歓迎の意向を伝えると、茜はようやく笑顔を見せる。茜が実験操作に戻ると、千里も小さく一息ついて操作に集中した。


 この日の実験量は非常に多く、千里は一度茜の誘いを頭の片隅に追いやった。しかし、校門前で茜と別れて一人になってから、約束の重要性に気が付いて喜んだ。千里は全く何もしていない。棚からぼた餅とはこのことだった。


 部活動の一環だということは舞い上がる千里の頭でも理解できている。しかし、そうだとしてもこの機会は無駄にできそうになかった。

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